番外編 迷い猫
2025.1改稿
アルシュ領に向かう準備に忙しいその日、ほんの僅かに空いた時間にラディス=ロイド王子は、剣術の鍛錬に向かっていた。
その日の相手は、護衛のエル=ディアス。明日からはラディスの側で四六時中一緒に居る予定のその男を選んだのは、万が一の時の息を合わせるために必要なことだ。
ラディスを鍛えたのは元近衛隊長であり、彼の護衛頭を務めていたジェスト。ジェストはどのような状況でも生き残ることを前提に、ラディスには剣と体術を組み合わせた実践型の泥臭い護衛術を教えた。一方、エルは暗殺を得意とする、本来ならば護衛官としては向かない戦い方をする。
ラディスが剣を手に距離を詰めれば、エルは一足飛びに距離を離して隠していた小刀を手にし、次々と飛ばしてくる。それらをラディスは器用に剣で弾き飛ばし、次の武器を取り出す時間を与えず襲いかかる。
だがその時、弾かれた小刀が植木の枝に刺さったところから、がさがさと音を立てて何かが落ちた。
二人は手を止めて、その落ちたものを振り返ると、そこには小さな子猫がいた。
精一杯の虚勢を張っているのだろう、爪を立て、四肢をふんばり、背の毛を逆立てて、牙を向けて
「シャー」と鳴いている。
「どこから入ってきたんでしょうねえ」
そう言ってエルは躊躇なく猫に近づき、側に落ちていた小刀を拾う。そして威嚇している猫の首根っこを掴み、持ち上げてラディスの方を向いて笑った。
「こいつ、ちょっと似てませんか?」
「似ている? 何に」
「この色、ちっこい体格のくせに気が強そうなところとか」
エルに首を掴まれているにもかかわらず、手足はしっかりと伸ばして爪を見せているその猫毛は黄味の強い茶、瞳は紫だった。
ラディスは抜き身の剣を鞘に収めながら、確かに、と納得する。
「あ、いって!」
猫はいつまでも掴んで離さないエルの手に、牙を剥いた。
痛みで緩んだエルの手から逃れ、すとんと着地してぶるると身震いをする。だが逃げるわけでもなくそこに座り、堂々と毛繕いし始めるではないか。
「……性格も、似ているな」
ラディスまでそんなことを口にしたので、エルは声をあげて笑う。
「俺は嫌われたようですけど、殿下なら懐いてくれるかもしれないですよ」
「懐かれてどうしろと」
言っている側から、猫がラディスの足元にすり寄ってくる。尻尾をあげて革製のブーツに身を擦らせ「にゃー」と一声。
ちょうどいいと、ラディスは足元の猫を片手で攫うように持ち上げた。
ラディスが思っていた以上に軽く、そして柔らかかった。毛は細く滑らかで、指にくすぐったい。掌に乗る腹は柔らかく、体温を感じる。小さな手は驚いた様子でラディスの指に踏ん張り、足はぶらんと長い胴の先で揺れていた。そうして高い声で鳴くたびに、白く長い髭が動く。
「持っていたら壊してしまいそうに柔らかいな。庭師に言って、外に放させよう」
そう言った瞬間だった。
まるで機嫌を損ねたかのように、猫はラディスの顔に、足蹴りを見舞わせていた。
「爪を立てられなくて、良かったですね殿下」
結局、すぐに庭師のマリオに猫を預ける。人懐こいため、恐らく貴族家の飼い猫ではないかと、持ち主を探すことになった。
顔に爪痕があるなど痴情のもつれとしか思えないと、好き勝手言うエルの言葉を、ラディスは届いた手紙に目を通しながら聞き流す。
「しっかし、よく似ていましたね。持ち主が見つからなかったら、お二人で飼ったらどうですか」
その言葉に、ラディスは肩をすくめる。
「猫が二匹は、いささか手に余る」
その日の晩、二匹目の猫にパンチを食らったラディス。
痛くはないが、彼女の爪は、なかなかの効き目だ。そう呟くラディスに、エルは返す言葉もなかった。




