第三十一話 コレットの夢
ラディス=ロイド王子殿下のティセリウス領視察のあと、ここフェアリス王国の権力と政治の中枢を支配する貴族界は、水面下では動揺を見せていたという。
ティセリウス領は、最後に戦争があった隣国ベルゼ王国と、最も多く国境を接している、防衛の要だった。それは両国に和平が成り立ち、三十年の節目を迎える今でもそれは変わらず、だからこそティセリウス伯爵の地位は高いものとして、軍備についての保有と用途に制限のない経費の使用を認められていた。その権力と地位にあぐらをかき、防衛を疎かにしていただけでなく、警戒すべき隣国との密出入国を許していたとあっては、さすがに放置することはできず。まだ調査段階ではあるけれども、なにがしかの罰は逃れられないと見られている。
まあ、それらの話し合いに殿下が参加されて忙しそうではあるけれども、私はあくまでも私財会計士。関係ないと「へえ」「そうなんですか」とやり過ごしていた。
だいたい、それどころじゃないんだってば。
「……熱心だな」
「当たり前です、殿下に交渉を任せていたら、大盤振る舞いするでしょう! なるべく緻密に計算して、書類を揃えてあげてるんですから、ちゃんと使ってくださいよね」
私の机に山積みされていたこれまでの領収書と、契約書。それからダディスから殿下に出された報告書を奪い取ってきて、そこから経費を計算し直しているところだ。基本的な調査費が出せれば、先日依頼した大がかりな調査の費用から、日割り計算して契約解除金を上乗せし、残った金額を返還してもらうつもりだ。
あの大金を、ドブに捨てさせるわけにはいかない。それに、ダディスとは今後も関係を保つというからには、なおさら一方的な関係はよろしくない。
「聞いてるんですか、殿下? 早めに連絡を取って、調査を終わらせてくださいね。もう人捜しは必要ないんですから」
「分かっている……ああそうだ、コレット」
「なんですか?」
「これも私財からの出金だ、処理をしておいてくれ」
数枚の領収書を渡され、それに目を通すと思わず「ふえ?」と声が出た。
数は少ないが、一枚一枚の金額が大きい。いったい何に使うのかと、発行者の名前を見て、首を傾げる。なぜなら、殿下には必要のないはずの、ある有名服飾店の名前。次の領収書は、宝飾店……あ、以前レスターと行った店だ。
しばし考えて、はっと気づく。
なんだ、そういうことか。さすが殿下、仕事が早い。
喜んで領収書から顔を上げると、殿下はいつも通り、仏頂面。照れてるのかな。
「おめでとうございます、ようやく贈り物をするお相手を、見つけられたんですね。どこのご令嬢ですか?」
殿下が、机の縁に寄りかかり、眉間に指を添えてため息をつく。
その向こうで、殿下のために会議のための資料を揃えていたヴィンセント様が、ゲホゴホと咽せている。
「おまえの、支度だ、コレット」
「私?」
聞き返したら、睨まれた。
「例の、身代わりのための必要経費だ。了承したんじゃなかったのか」
「言いましたけど、存在感をこう噂で流して、幽霊みたいに隠れてたらいいかと思ってたんですけど」
「……身の回りのものを取りに行かせてくれないなら、注文させろと言ったのは自分だろうが」
「それは、家に帰らせてもらえないからですよ。だからって、こんな高い服を、私がいつ着るんですか」
「普段に着ればいい」
「……私の仕事、何か忘れたんですか?」
「何を着てても仕事はできるが、毎日同じでは気分が乗らないと言ったのはどの口だ。服が合わないというなら、服に見合った立場を用意してやるが」
「か、会計士のままでけっこうです!」
殿下はたちが悪いことに、あの日から、会話にこういうことを混ぜてくるようになった。その都度私が断っても、最初のように顔色は変えないかわりに、しつこい。
今も、笑みを浮かべて流している。
「そもそも、家に帰らせてくれたらこんな出費せずにすむのに……」
そこで、咳を治めたヴィンセント様が割って入ってくる。
「コレット、こう考えたらどうだろう。今まで女性関連の出費ひとつなかった殿下が、女性の装飾品を買う。店も特にこちらから口止めせねば、おおっぴらではなくとも商売に利用するだろう。それもまた、役目を果たしたと言えるのでは?」
「……特別に私が何もしなくても、役目を果たすということですか? でも、もったいないですよ」
「そこは、殿下の顔を立ててあげてください。甲斐性無しの噂が立ったら元も子もないからね」
なるほど。貴族令嬢のドレスだと思えば、妥当な値段、なのかな?
なんだか言いくるめられたような気もするけれど、納得するしかなさそうだ。
「わかりました、会計処理しておきます」
すると殿下があからさまにホッとした様子で、呟いた。
「まったく、会計士というのは融通がきかなくて困る」
「それを殿下に言われたくありません。とにかく、以前約束した通り、給料日には何があっても、お休みをもらいますからね。例え雪が降っても、嵐が来ようがです」
「分かってる。だが護衛はつけるからな?」
私はうんざりしながら、仕事に戻った。
出張からそのまま王城に泊まり込んで、三日が経つ。殿下とは相変わらず、いつも通り仕事をしているけれど、こうして周囲の状況だけがどんどん変わりつつある。
殿下のこの私室から、使用人用の通路を出て、アデルさんたちの控え室の隣に部屋を与えられた。そこならば、他の人に会うことなく、仕事場へ行き来できる。
そこに、最初は出張に持って行った旅行鞄がひとつ。それから殿下にお願いして城下の家に使いを頼んだ。手紙を書き、しばらく泊まり込みだからと、私物を母にまとめてもらい、使いに持ってきてもらった。とはいえ着替えなど、最低限のものだ。
そうして荷物が少し増えて、次は殿下からの贈り物……?
これ以上荷物が増えるのは、なんだか良くない気がする。
だが明後日は給料日。どうしても出かけねばならないと食い下がり、ようやくもぎ取った休日。そのためには、順調に仕事をこなしておかなければ。
忙しいのは殿下も同じようで、どうやら寝る間も惜しんで仕事にかかりきりのようだ。
王城に滞在するようになってから、なぜかアデルさんの勧めで殿下と食事を取ることが多くなった。最初は、私の分を別に用意するのが面倒だからと、アデルさんたちに無理矢理押し切られた。でも最近は、仕事の合間に戻ってきた殿下さえ、当然というような態度で殿下の向かいの席に座らされる。
なんか、おかしくない?
殿下だって、元々私室で食事するなんてこと滅多になかったのに。
どうしてだろうと疑問に思っていると……
「毒味役が倒れた」
殿下は用意されたパンを口に入れながら、平然と言ってのけた。同じ食事をとる私の目の前で。
「少量なうえに、弱い毒だったらしく、命に別状はない。会議の合間に出される予定だった飲み物で、誰が標的かは不明だ」
青くなっている私に、殿下が何でもないといった風に続ける。
「ここの食事ならば大丈夫だ、かなり厳重に管理した物、人を使っている。コレットに危険は及ばせない」
「なんでそんな平然としてられるんですか」
「ここが絶対の安全地帯だからだ、だからおまえをここから出さないようにしている」
「そうじゃなくて……殿下の心配をしてるんです」
殿下は、少しだけ驚いたような顔をする。だって、殿下が絶対に安全と太鼓判を押すこの食事は、だいたい日に一回。そうじゃないところで、二回も食事をとっているということなのだ。
「私のことはいい。それよりコレット、午後は金庫棟へ向かえ。ジェストが付きそう」
「金庫? 出金の予定がありましたっけ?」
「そこに内密に、レスター=バウアーを呼ぶ手はずになっている」
「レスターが?」
私が目を輝かせるなか、殿下は黙々と食事を続けている。なんというか、成人男性の食事の量に圧倒される。レスターとは離れて暮らしているので分からなかったけれど、私が小食だと言われる理由が分かるというか。
しかも殿下は上品かつ優雅に見えるのに、あっという間に皿から物がなくなる。魔法ですか。
「話をしたいと言っていただろう? 外で密会されても困るから、先手を打った」
「密会だなんて、人聞きが悪いですね」
「血の繋がらない未婚の男女が、二人きりで買い物に行ったり個室で茶を楽しむのを、密会と言わずなんと言う?」
「だからレスターは弟です、それに殿下みたいなこと言いませんから」
殿下はフォークに挟んだ、大きめの肉を皿に落とす。珍しく、マナー違反だ。
「初めて、レスター=バウアーに同情する……」
「どういう意味ですか」
「いやいい、寝た子を起こすまい。それより、出来ることならおまえの弟を、こちらに引き込みたい。弱みは少ない方が良いからな。バウアー男爵家の内情を調べさせている、コレットもなにか知っていることはあるか?」
「私に可愛い弟を売れというのですか?」
「何を言っている? いずれにせよ、俺が勝てばおまえは無罪放免なんだ、そうでなければノーランド伯爵家関係者は、一蓮托生だぞ?」
「……そ、そう言われればそうなんだけど……」
「ならば、レスター=バウアーに選ばせるか?」
それはつまり、宝冠の徴を含めた十年前の出来事を、レスターに話すということで。
話を聞いたら、もう後戻りできないのでは……
「あれは曲がりなりにも騎士だろう。いつまでも姉だからとおまえに守られているような男なのか?」
「……いいえ」
そうだ、もう一緒に暮らしていた頃のような、幼い弟ではなかった。
私を抱き上げたままあの狭く急な階段を駆け上がり、毒から誰も傷つかないよう守ってくれたんだっけ。いつのまに、あんなに逞しくなって……
可愛い弟の活躍を思い出し、つい思い出し笑いがこぼれるのを、殿下に呆れられてしまった。
「分かりました、話してみます。だから殿下、もし協力者になったら、レスターも私同様、守ってくれますか?」
「いいだろう、約束する」
「ありがとうございます、殿下」
ああ、良かった。これでレスターを説得できたら、一つ心配事が減りそうだ。
「あ、そうだ、もう一つ確認してもいいですか?」
思い出して尋ねると、殿下は面倒くさくなったのか、手にした果実を皮ごと齧る。
「なんだ?」
「あくまでも、私が死んだはずの伯爵令嬢だったことは、秘密のままにしてくださるんですよね?」
大事なことだ。平民コレット=レイビィとして仕事をするのはいい。けれども私は絶対に、元伯爵令嬢コレット=ノーランドであることを知られたくない。正確に言うと、伯爵令嬢が生きていたということを、知られたくないのだ。絶対に。
「ああ、そのつもりだ。半年後の決着まで、違う混乱を招きたくはない」
「それを聞いて安心しました」
心底ホッとしていると、殿下は殿下で思うところがあったようだ。
「俺からも確認するが、本当に伯爵位を取り戻すつもりはないのか?」
「はい、そういうのには、未練はありません」
「平民でいたいから、か?」
殿下の問いに、首を振る。
「平民とか貴族とかそんなの関係なく、ただ家族で、幸せに暮らしたいんです。それが夢だったから」
きっと、殿下には分からない。分かるように伝えてない自覚がある。
私には、どうしても叶えたい夢がある。そのために、殿下だって利用するだろう。もしかしたら、裏切ることだって厭わないかもしれない。もしそうなったら、殿下は私に呆れて、失望するに違いない。
捨てられない望み。時間が経てば経つほど、諦められない。
私も、殿下のこと言えないなぁ。
 




