第二十七話 殿下との取り引き
「や、やめ……あ、くすぐったい、やめっ……ふあああっ」
目玉が飛び出るくらいの値段だという香油を使い、リーナ様の侍女たちに揉まれて出るあられもない悲鳴が、フレイレ子爵家のバスルームに響き渡った。
「これくらい我慢なさいな、痛いわけじゃないでしょう?」
呆れた口調なのは、私の隣で涼しげな顔で椅子に座り、同じように足マッサージを受けるトレーゼ侯爵令嬢カタリーナ様。
完全に薬を排出するにはこれが良いと、リーナ様に強引に連れ込まれ、たっぷりの湯につかった後に、足をマッサージされている。これがもう、くすぐったいやら気持ちいいやらぞわぞわするやらで、慣れるものではない。
無事にフレイレ子爵領に着いた私は、待ち構えていたアメリア様とカタリーナ様に掴まり、ティセリウス領で起きた事件の顛末を聞かれた。事前に連絡がいっていたようで、こうして私の治療と称して湯治と高価な香油とマッサージ付きの歓迎を受けている。
「そんなことより、殿下ご一行が到着された時は私、それはそれは驚きました」
ぽっと頬を染めるアメリア様からは、忘れて欲しい記憶を蒸し返されてしまう。
「ええ本当に。あのラディス兄様が、人目もはばからず大事そうに女性を抱き上げる姿をお見せになる日がくるなんて、思いもよりませんでしたわ」
「いやいや、怪我人を運んだだけですから!」
「あら、歩けるのにわざわざ? ヴィンセント様や護衛官に任せることもできましたのに?」
うう、それを言われると反論のしようがないのだけれども……令嬢方の興味関心はやはりそういった事らしく、二人揃って目を輝かせてこちらを伺っている。
答えに窮する私を、放っておいたら誤解するに決まっているのだけれども、言い訳することもできずにいるのには訳がある。
実は追い詰められた馬車の中、殿下は私にひとつの提案をしてきたのだ。
「サイラスが証言した今でも、そうしてしらを切り逃げるつもりなら、こちらも考えがあるぞ」
十年前のことを誤魔化そうとした私に、殿下は意味深なことを告げる。
それはやっぱり私を罪に……処刑を考えるということだろうか。私が極刑になれば、共謀したとして家族も巻き込まれてしまうだろう。
嫌な予測に青ざめていると。
「何を想像している。言っておくが、私は口にした約束は違えるつもりはないぞ」
殿下が呆れたように言う。
「え、死刑にはならないんですか?」
「なぜ死刑だと断定してるのか、そちらの方が私は疑問だが」
少しだけ安堵する。けれどもそれじゃ、『考え』って何?
そんな疑問に首を捻っていると、殿下は勝手に話をすすめる。
「今回の密出国斡旋事件が明るみになれば、ティセリウス伯爵の力を削ぐことができるだろう。仲介人は平民ゆえ私からは手出し出来なかったが、サイラスの方はいくつかの貴族との不法行為が疑われているために、こちらで保護できた。その証拠をサイラスごと消されてしまわないよう、既に王都に移送した。これを機にデルサルト派閥の牙城を崩すつもりだ」
なぜか殿下が経緯を聞かせてくる。
だから、そういう機密事項を私に教えないでと言ってるじゃないですか。
そう文句を言うと、殿下は悪い笑みを向けてくる。もしかしてあえて口にして、巻き込んだんですね。まさかこれが殿下の『考え』ですか?
「とにかく私の話を聞け、コレット。幸い、保身に走った伯爵夫人が、新たな材料を提供してくれた」
「ティセリウス伯爵夫人?」
「昨日の朝、娘を私の閨へけしかけたろう?」
「ああ、あの朝の……」
それすらも攻撃の刃に変えるつもりなのか。権力闘争とは恐ろしいものだ。まあ、娘も命令で仕方なく……といった風でもなさそうだったから、自業自得なのかもしれないけれど。
「でもそれを、どういうふうに利用するんですか?」
「既に種を撒かせている。社交界は情報がものをいうからな」
「まさか令嬢の品格を失わせるような噂をばら撒くつもりですか、ちょっと可哀想ですよ」
「令嬢に関しては事実しか伝えない。私の寝ているとされている寝室に、夜も明けきらない早朝に一人で訪れたと。娘を溺愛する伯爵は、噂を握りつぶすために躍起になるだろう。だが躍起になればなるほど、噂とは消しようもなく大きくなるものだ」
それは、もしかして実体験でしょうか。とは、さすがの私も聞けない。
「同時に、一つの疑惑を混ぜる」
「疑惑、ですか」
「令嬢が私の部屋で鉢合わせたのが、王子が想う女性らしいと」
「らしい……って、悪い人ですねぇ……ん?」
だがちょっと待って。そのらしい女性って、私⁉
殿下の思惑がよーく分かった。デルサルト派を追い詰めるついでに私を使って、殿下が男色家ではないことを周知させようとしているのだ。醜聞と噂はセットになることで、真実味を帯びてあっという間に広まるだろう。おそらくティセリウス伯爵領で摘発された事件は、別ルートで広まる。脛に傷もつ貴族たちは、特に不安から黙っていられないだろう。それらの家はつまり、殿下が伴侶を得られない方が都合がいい勢力でもあるのだから。
汚名返上けでなく、そんな勢力の首根っこを掴む、一挙両得を狙っているんだ。
「理解したのなら話は早い。今後もしばらくお前は出張扱いだ」
「……しばらく、出張?」
確かに今は出張中ですけど、しばらくって? 意味を掴みかねていると。
「派閥としがらみがない上に、トレーゼ侯爵家とフレイレ、バギンズ両子爵家から好意的に見られているコレットは、これ以上ない人材だ。しばらく王城に逗留しておけ、出張扱いにしてやる」
「え……ええええ、家に帰れないんですか⁉」
殿下は呆れた顔をしている。一方、黙って側にいたヴィンセント様が、眉を下げて私を慰めるような声で、とんでもないことを口にする。
「コレット、家に帰るのはお勧めできない。あなたの正体が知られると、命を狙われかねないのだから」
「私が、狙われるって、どうして?」
驚いて殿下を見ると。
「例の宝冠は王位継承の証だ。一度認められた以上、私かお前を殺すしか取り消されない。ジョエルが本気で王位を望むのなら、いずれ行動を起こすだろう。死にたくなかったら、協力しろ」
……処刑を回避したつもりが、次は暗殺の危機?
結局、回避できてなかったってこと⁉。
どうして、こうなった……そうだ、あの宝冠に触れなければ、こんなことになってなかった。
そうだ、元凶はアレじゃないか。
「殿下、私にもっといい考えがあります」
殿下が眉間に皺をよせて、嫌そうな顔をする。
「悪い予感しかしないが、一応、言ってみろ」
「その宝冠、いっそ壊しちゃいましょう」
殿下は眉間に指を置き、しばし目を伏せ、そして淡々と言った。
「却下だ」
……やっぱり?
とまあ、そういうことがあり。私は名を偽ってなり替わった罪を今すぐ問われない代わりに、殿下の噂の恋人役を引き受けることに。そしてそのおかげで、もう歩けるというのに大衆の面前でお姫様抱っこされるはめになったのだ。
酷い。噂を流すくらいなら、ここまでやらなくてもいいじゃないかと訴えたのだ。でもやるなら徹底的にせねばどこかでボロが出ると、完璧主義の殿下に押し切られてしまった。
リーナ様は殿下から事情を聞かされていて、殿下の対応が演技だと知っている。だから少しは遠慮してくれてもいいはずなのに、子爵令嬢と共にノリノリだ。
脅されて、権力争いに利用されるなんて酷いと思いませんかとヴィンセント様に愚痴ったところ、彼には和やかにこう返されたのだ。
「その役目を長らく、カタリーナ様が引き受けておられました。私としましても、コレットには感謝しかありません」
はあ、つまり私に味方はいないということ。
そういったこともあり、こうして令嬢方にはとても親切にしてもらっていて、足のマッサージだけでなくどこもかしこも磨かれてしまった。
遊ばれているような気もする……
「お疲れ様です、コレットさん」
令嬢たちから解放され、部屋に戻るとアデルさんが労ってくれた。この後、午後からは早速、例の水車を使った製鉄事業の視察に向かう予定。滞在は一日なので、とても慌ただしい。それを気遣って、髪を整えに来てくれたのだ。
「いつもありがとうございます」
普段は自分で整えるけれども、さすがに貴族のお嬢様たちと並ぶような今日は、アデルさんの力を借りられるのは心強い。櫛を手にしたアデルさんにお礼を言うと、彼女は珍しく困った顔だ。
「あの、コレットさんには私、謝っておきたくて」
「謝る? 私に?」
どういうことだろう。梳る手を止め、アデルさんは私の右耳の後ろをかき分ける。
「コレットさんが殿下の元で働き始めた最初の日、この傷跡に気づいたのは私なのです」
ドキリとした。
自分でも忘れていた傷。ううん、ここに傷があるのは知っていたけれども、それをいつ、どこで負ったのかは私自身さえ気にも留めてなかった。すっかり治っているし、後遺症もなかったから。
「何気なく、殿下にお話ししたのは、しばらく後のことでした。そのときには、殿下もさほど気になさる様子ではなかったですし、まさか例の少年が……いえ、探し人の性別が勘違いだとは……」
アデルさんはそこまで言うと、かき分けていた髪を戻し、労るように撫でた。
その手つきが、あの日の晩に殿下がしたのと同じ仕草、同じ位置だったことにようやく気づく。
「私は……私たち侍女は皆、コレットさんを好意的に思っています。あなたは殿下やヴィンセント様を前にしても、怯むことなく物怖じもせず。むしろ職務に夢中で……いままでそういう女性をあまり見たことなかったですし、殿下に厚遇されていてもおごることもせず、むしろ私たちを労ってくれましたから」
「い、いえまあ、あの殿下の相手は、実際大変そうですし」
アデルさんはくすりと笑いつつ、でも……と続ける。
「コレットさんが素性を隠しておきたかったのなら、それなりの理由があったはずです。それを暴くような形になってしまって……殿下がお守りしてくださると信じておりますが、身の危険まで伴うとなったら話は別です。もしコレットさんがどうしても退職を願っているのでしたら、私からも殿下にお願いしようと」
「ま、まってください、退職って」
確かに最初は望んでいた。でもそれをアデルさんがどうして知っているのだろう。
「実は、偶然耳にしてしまったのです。殿下が早くどなたかと結婚されて早く退職したいとおっしゃっているのを」
「あ、あれはその……」
あの呟きを聞かれてしまっていたとは。
あの時は、とにかく素性がバレたら後がないと思っていたし、かなり本気だったのは事実だ。
でも……
隠していた秘密が明るみになってしまった以上、状況はもう変わった。
「アデルさん、心配してくださってありがとうございます。でもここまで来たら、逃げてもどうにもならないと思うので、殿下の提案に乗ることにしました」
「コレットさん、本当にいいのですか?」
「はい。実は私、どうしても、守りたいものがあるんです。だからもう逃げるわけにはいかないから」
そこまで言うと、コンコンとノックが鳴る。
振り返ると、既に扉が開けられていて、殿下が待っていた。
「支度は済んだか?」
「いま、直ぐに終えますのでお待ちください」
アデルさんが慌てて私の髪を整えてくれる。殿下が迎えに来るなんて聞いてないんだけど。
「もう出発の時間でしたっけ?」
「フレイレ子爵から、お前も共に昼食をと言われている」
「え、困ります」
「かしこまる必要はない。食事が終わればすぐに出る。アデルたちは別で荷物をまとめて、街道に先回りすると聞いているな?」
「あ、はい。視察が終わってすぐにそのまま発てば、明日の昼にはお城に戻れるからですよね」
ここはティセリウス領よりも、王都寄りにある領地だ。往路よりも復路は時間がかからない。
「護衛もアデルたち侍女も忙しいんだ、世話をかけるな」
アデルさんが整え終わると、殿下はずかずかと部屋に入ってきて、私のそばまで来た。そして椅子に座っていた私の膝と背中に手を入れると、そのまま抱え上げられてしまう。
「え、ちょ、まだやるんですかその嘘を」
「いいから黙ってろ」
そのまま有無を言わさず、連れ出されてしまった。
殿下は私の体重などものともせず歩く。そして前を向いたまま、小さな声で話し出した。
「コレット……大きな声を出さずに、聞け」
殿下の真剣な声色に、何か異変があったのを察する。
「サイラスを護送していた者が襲われた」
「……っ」
驚きに息をのむ。それと同時に、私の背に回された腕に、力が入った。
「護衛の人は、無事ですか? それに、サイラスは……」
「護衛は怪我をしたものの、命に別状は無い。サイラスは無傷だが、襲撃者を逃している。再度の襲撃を回避するためにジェストを応援に向かわせた」
「いったい、誰がこんなことを……」
「ティセリウス領の人間か、もしくは視察団の中か……」
もしかして、近衛兵を疑っているの?
「サイラスの件を知っている者は、限られているからな。とにかく、フレイレ子爵は領内の警戒を強めてくれてはいるが、手の内が足りない。王都に戻るまでコレット、おまえは私の側を離れるな」
平民で会計士でしかない私が殿下の傍を片時も離れずにいるには、相応の理由がいるだろう。だから殿下は、どんなに私が嫌がっても嘘をつき通すと言いながら、私を抱えてくれていたのだろうか。
そう思うと、私は頷くしかなかった。




