第二十六話 この期に及んで
夢の中だろうか。
気づくと私は小さな子供に戻って、同じような小さな手に引かれながら、低木の茂みの合間を進んでいた。
茂る葉をかき分けて抜け出ると、そこは色とりどりの薔薇が咲き乱れる、美しい庭園だった。
私が生まれ育った家にある庭も、昔は美しかった。お父様の事業が順調だった頃、花だけでなく様々な時期に収穫できる果実園もあって、子供の頃からその木に登ったり、庭師にまとわりついて収穫を手伝ったり、活発な私が何をしてもお父様だけでなく屋敷の使用人たちも、笑って許してくれていたっけ。
そんなことを漠然とだけれど思い出したのは、バラ園の側にたわわに実るオレンジの果実が見えたから。ずいぶん古い木なのか、かつて伯爵家で植えられていたものより、ずいぶんと太い幹で背が高かった。種類が違うのかな……気になって近寄ってみると、幹の根元に庭師のおじいちゃんが座っていた。
「おや、可愛らしい坊ちゃん方が、今日のお客さんですかな?」
日差しがずいぶん温かくなった今日は、朝から仕事に励んでいたのだろうか。水筒の水を飲みながら、涼んでいたようだった。
「マリオ、ここに来たのは誰にも言わないでくれ。少しだけこの者を案内してやりたい」
一緒に来ていた少年が、庭師にそう言った。
「別に頼んでないけど」
私は他に大事な用があるんだから。思ったままに言うと、少年は黄色い瞳をまっすぐ私に向けて、それから頬をふくらませた。
すると私と少年の様子を見ていた庭師が、はっはっはと声を上げて笑った。
「そうだ、ちょうど味見用に採ったのがあります、食べますかな?」
庭師は背にした木に実っているのと同じオレンジ色の果実を、私たちに差し出した。
「食べる!」
幼い二つの声が重なった。
私は庭師の右側に、少年は左側に座って、剥いてもらった果実を一つ口に入れた。酸っぱくて、でも充分熟れていて甘かった。美味しくて、次々に口に入れると貰った果実はすぐに無くなる。
すると一緒にいた少年が優しく微笑みながら、彼が持っていた果実を差し出してくれる。それを躊躇なく奪うと、私はあっという間に食べつくしてしまった。
食べたくても、ここしばらく食べ物が喉を通らなかった。何を口に入れても味がしないから。お父様がいなくなって、たくさんの出来事があって……心が原因だろうと言われたけど、私には意味がよく分からなかった。けれども、この少年がさっきくれた飴は、美味しかった。
嬉しくて実を頬張る私を見て少年がまた笑い、そして庭師が「まだ採ってあげよう」と立ち上がった。
「え、でも……いいの?」
さすがに遠慮から問うが、なぜか少年が得意そうに「俺が許す」と言う。
その態度にどうしようかと迷ったけれど、久しぶりに食べ物が美味しいと感じたせいで、もっと食べたいと答えてしまった。
けれども庭師は梯子を持ってくるから待てという。
「大丈夫、木登りは得意。自分で採ってもいい?」
驚いたように庭師と少年が私を見ていた。なんだか偉そうな少年の、もっとびっくりした顔が見たくなって、止めるのも聞かずに枝に手と足をかけて、勢いをつけて登った。
古い幹は少し軋んで可哀想だったけれど、私の体重はとても軽い。すぐに次の枝に足をかけ、よく色づいた実を二つ穫り、少年に放り投げた。
彼は「わっ」と声をあげながら、あたふたと両手でなんとか受け取る。その様子を見て、おかしくて笑った。
「危ないだろう!」
「そんなヘマしないよ、それより、きみは運動神経が鈍いんだね」
そう言うと、少年は顔を真っ赤にして怒った。
本当のことなのに。まあ、自由奔放に育てられた自分が変わっているのは知っているから、少年には「悔しかったら、これからいくらでも頑張って練習して、鍛えればいいだけだよ」と言っておいた。
なんだか不服そうだけれど、彼も良い服を着ているし、恵まれた環境にいるのだ。そんな少しの希望くらい、かなえてもらえばいい。
父を亡くした私はもう、望めないだろうけれど。
なぜかそこで私は、唯一の肉親を失ってしまったのだということを、本当に理解する。
そして湧き上がる諦めと、覚悟。幼い心が抱えきれなかったそれらを、私は飴の甘さとオレンジの酸っぱさのおかげで、ようやく飲み込めたのかもしれない。
「そんなことより、本当に王族の人に会わせてくれるの?」
もはや堂々と追加のオレンジを頬張りながら、少年にそう尋ねた。すると少年がなぜか怒る。
「だからもう会わせてやってるだろ。それを疑うから、証明しに連れてきてやったんだ。ほら、腹が膨れたのなら行くぞ」
出会った最初にしたように、再び彼は私の手を掴み、薔薇の咲き乱れる庭園の奥に引っ張っていった。
花のアーチを抜け、更にたくさんの花に囲まれ立っていたのは、美しい像。
長い髪をした美しい男性が、片手を天に挙げ、もう片方をこちらに差し出す。生きているかのようなその造形が、まだ幼かった私の心を一瞬で奪っていた。
物音で、目が覚めた。
昔の夢を見ている時は、あまり気分や体調が良くない日が多い。特に、今日のように忘れていた細かい部分を思い出した時はとくに。事実、どこかしびれるような不快さに、顔をしかめながら寝返りを打った。
だがまさか、耳をつんざく金切り声を聞くことになるとは思わなかったけれど。
「あなた、誰⁉ なぜそこに寝ているの!」
ふかふかの布団を引っぺがされ、一気に眠気が覚めた。
ああそうだ、昨日から殿下の部屋に入れられていたんだった。
頭痛に耐えながら起きると、着ていた夜着が肩からずり落ちる。いや、仕方ないのよ。私は薄っぺらいから、なんというか、体積が少ないというか。
「そ、その破廉恥な格好で、殿下を籠絡したのね‼」
いやいや、薬でぐっすり寝ていた私が、誰をどうすると? というか、破廉恥なのはいったい、どちらだ。
令嬢の容姿は見るからに不自然だ。ばっちりお化粧しているのに、着飾ったドレスではなく薄い装い。どう見ても殿下を訪ねるには相応しくない恰好。加えてまだ薄暗いこの時間から訪れるということは、令嬢にとって致命的な誤解も計算の上と見ていいのだろうか?
男色疑惑で女性が寄り付かない殿下にあえて挑むなんて、このご令嬢は案外猛者かもしれない……寝ぼけた頭でそんなことを考えていると。
「お言葉ですが、ご令嬢……このような時間から殿下のための部屋に押しかけるあなた様こそ、何をしようと?」
令嬢の後ろから、そう言いながら現れたアデルさんに、私の方がギョッとする。
なんというか、怒りオーラが半端ない。目は笑ってないのに、口元は弧を描き、頬を引きつらせている。
「殿下がいらっしゃらなかったから良いものを……この件は、しっかりと両陛下にご報告いたします!」
「陛下ですって……? あなた侍女の分際で生意気よ! 私は……なにするの、ちょっとおまえ!」
アデルさんと侍女たちがご令嬢の腕を掴み、引きずるようにして部屋から追い出す。当人はまだ私に何か言いたいようで、キッと睨みつけながら。
しかしドアの側まで行くと、外から護衛が待ち構えていたらしく、あえなく連行されていった。
「……いったい、何だったんだろう」
私はただ寝台の上で呆然とするしかなくて。まだ早い時間ではあったが、二度寝する気も起きない。するとすぐにアデルさんたちが戻ってきて、朝の分の薬湯を出してくれた。
それを飲んでから着替えようとすると、アデルさんに止められてしまった。
「明日にはここを発ちます、それまでしっかりと体を休めて、少しでも回復するようにと殿下からのお言葉です。今日はコレットさんも予定はなかったはずです、ゆっくりなさってください」
「……それじゃ、せめて元の部屋に帰してくださいませんか?」
「それは、申し訳ありませんが、出来かねます」
「理由は?」
「人手不足だそうです」
私だけで無く、殿下の配下の者全てを、集中させておくことで危険を回避したい。そう考えていると聞かされてしまうと、我が儘を言うわけにはいかなくなるではないか。
仕方なく、このまま殿下の部屋で過ごすことになった。
その後アデルさんは、私の質問にできるかぎり答えてくれた。あれからレスターは医師にかかり、影響がないことを確認してもらえたみたい。良かった。
それからサイラスの取り調べは昨夜のうちに済まされていると聞かされた。これには非常に焦る。私のことを喋ったのだろうか……でもアデルさんの様子は変わらない。変わらないからこそ、かえって聞き辛い。
その後、殿下は一度も顔を見せなかった。二つの事件が明るみとなり、視察は中断、聴取や伯爵との駆け引きで、それどころではないのだろう。
私は一人、広い寝台の上で過ごした。とはいえやることも無く、暇を持て余すばかり。今後のことを考えると気が重くなるばかりだし、それに今朝夢で見た昔の記憶のことが心に残っていて、何度も思い出してしまう。
同時に、今の殿下のことも。
翌日、朝食をいただいてから最後の診察を受けてから、出発の支度をすることになった。
次に訪れるのは、フレイレ子爵領。カタリーナ様のご友人で共同事業者となるアメリア様の領地だ。そこで例の事業の報告を受けるため、現地でカタリーナ様とも落ち合うことになっている。
しかし、だ。
支度を終えてアデルさんに手を借りながら歩き、馬車に向かったのだけれども……やっぱりというか、残念なことにというか、乗車先は殿下の馬車で。
既に乗り込んでいる殿下とヴィンセント様が見えて、苦笑いとともに固まっていると。
「手をお貸ししましょうか」
ジェストさんが足元のおぼつかない私を助けるために、ステップ台の前で待ち構えている。というか、逃げられないように、かな?
仕方なく、彼の手を借りて中に入ると。
「コレット、こちらへどうぞ。楽に乗れるよう準備しておいたから」
にこやかにヴィンセント様が手招きする先には、クッションがいくつも置かれ、大きめの膝掛けやら、床に落ちないようにか足置きまであった。
なんですか、この至れり尽くせりは。やっぱり処刑前夜なのではないだろうか。
恐る恐るその席に座ると、当然とも言いたげに正面には殿下。
「具合が悪くなったらすぐ言え、休憩を取らせる」
そんなことを殿下の口から告げられると、更に恐ろしさが増す。
これは、アレだ。嵐の前の静けさだ……血の気が引く思いで何度も頷いていると、馬車の扉が閉められた。
密室に、殿下とヴィンセント様と三人。いや、これまでと同じだが、決して状況は同じではないのだ。気を引き締めていかねば。
それに私がノーランド伯爵令嬢だったことがバレたとしても、例の少年が私だという決定打にはならないのだ。逆だったらアウトだけどね。
そう、これが昨日一日考えて出した対策……もとい、逃げ道だった。細く険しい逃げ道だが、今はそれにすがるしかない。なんとしてでも、のらりくらりと躱して見せる。
決意を固める私に、殿下が言った。
「まずは聞かせてもらおうか。なぜ十年前のあの日、男装などしていたのだ?」
あ、あ、アウトの方だった。
全身から一気に、汗が噴き出してきた。
「な、なんのこと、でしょう」
「ほう……つまり、この期に及んでしらを切ると」
焦りから、返答を誤ったかもしれない。
目を細め、悪魔のような微笑みを浮かべる殿下から、私は冷静を装いながら顔を背けるのだった。
…………詰んだ。
今度こそ、詰んだ。
だらだらと流れる汗を、私はハンカチで拭う。
殿下。こういうやり方での毒抜きは、医師から指示されてませんので、勘弁してもらっていいですか⁉




