とある逃避行
シルは、自分が連れてきている少女を初めて不思議に思った。ずっと、自分と同じ堕胎児の捨て子だと思っていたが、なぜか彼女の指し示す方へと進めば館を脱出できた。
この、鬱屈とした常闇の森でも迷うことなく進めることができるのも、彼女のおかげだ。シルは何事もなく進行している事態がむしろ不安だ。だってここは魔女の住まう常闇の森。その主がみすみす獲物が逃げていくのを見逃すだろうか。いや、そんなはずはないと、シルは頭を振って否定する。
ふと振り返れば、少女はシルではないどこかを見ていた。シルはそれが寂しかった。どうしてか、わからない。わかれば苦労はしないし、わかったからといってどうにかなる問題でもないだろう。ただ、自分を見てほしい、それだけだ。
常闇の森は不気味さを詰め込んだ場所だった。何もいないけど、何かがいる。
生き物は姿を見せない。けれど、音だけはある。嘶きや木々と擦れ合う音、葉を散らす音。間違いなく、そこにいるはずなのにシルの目には映らない。まるで泳がされているみたいだ。シルはその感覚に覚えがあった。追われていたときにやけに順調に逃げられているときは相手もそれを想定していると考えるべきだ。つまり、このまま進めば罠に陥る可能性が高い。
けれど、道を示してくれるのは少女だ。間違えるはずなんてない。
いや、とシルは自らに問いかける。だから、どうしたのだ。騙されていたところで、シルには何の問題もない。元々死ぬはずだった命をたまたま拾っただけにすぎない。
だから、どんな状況にあっても、シルは少女のために前に進もう、そんなことを考えていた。
「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」「にゃあ」
群れだ。猫の大群。
常闇の森。昼間であっても陽はほとんど差し込まず。まさしく一寸先は闇という状況。シルだって少女の誘導がなければ、まともに進むことも困難だったろう。一人だったら、どこからともなく聞こえて決して姿を見せず、ただそこにいるとだけ威嚇してきた声に精神を蝕まれ、立っていることすらできなかっただろう。
ぐるりと、視線を巡らせると、いつの間にか、浮かび上がっている。怪しい光がそこらじゅうに。いくつも。幾対もの瞳たちが、シルを睨みつけていた。
蛙の卵を思い出していた。小川の、水草が生えている辺り、お世辞にも綺麗だとは言えない場所にいくつものそれがあった。子供ながらに、シルはそれを気味が悪いと感じた。今更ながら、もっとよく観察しておくべきだったと後悔していた。もっとよく見ていれば、慣れていたかもしれない。慣れというのはこの場において一番大事なものだ。
森の中に浮かび上がる無数の光は、まさしくそれだったから。
「にゃあ」
そして、今まさに走りだそうとした瞬間、それがシルたちの側を通り過ぎていく。黒猫だ。その黒猫は、一匹ではない。その黒猫は、また別の黒猫を咥えていた。
シルはその姿にどこか見覚えがあった。それはあのとき見た、黒猫。
「やあ、後は頼むよ」
がりっ。
と、音がすると喉元が食いちぎられ、無残な姿になった猫の死体が転がっていた。やがて、死体はまるで本体がなかったかのようにそのまま影の中に沈んでいく。
血すら流れないこの状況にシルは、最悪の場合どうなるかできるだけ想像しないようにした。してしまえば、覚悟が鈍ってしまうから。敵わないと思ってしまえば、絶対にここから逃げることなんてできない。
だから、シルはそれを口にする。
「行こう」
シルは少女の手をがっしりと握り締める。それはこの状況に恐れ慄いてしまっている自分を叱咤激励するため。自らの覚悟を決めるため。
――走りだした。
大量の猫が、シルに襲いかかる。首元に飛びかかってきた一匹を手で叩くと、その隙に左足首に噛みつかれる。歯が肉に食い込むが、走れなくなるほどの痛みではない。
シルは走った。一匹二匹。一匹。一匹二匹三匹。一匹。一匹。左腕、右腕、左脚、右脚。それだけの数に噛まれて、シルは転んだ。噛みつかれても意地で走り続けた分、さらに歯が皮膚を削ぎ、肉を抉っていた。
無様に倒れたシルに、猫が群がっていた。このまま、猫に食い散らかされてしまうのだろうか、そもそも猫は人肉を食べるのか、なんてバカなことを考えていた。ガリガリガリと骨が削れる音が脳に響く。虫の死体に群がる蟻のように、猫がどんどんシルに向かってくる。全身を貪る猫に対して、シルは抵抗すらできなかった。体が、動かない。
ぐちゅぐっちゅ、と唾液と血と肉と骨がかき混ぜられる。声が上がらなかったのは、ただ痛すぎたからでもない。そんなものを上げている元気すらなかったから。どれだけ経ったかかわからないが、シルの体から痛みが抜けていく。
ああ、これはまずいな……そんなふうにシルは感じた。周りには鮮やかな血の海ができていて、初めて死が隣に座っていることに気づいた。それはシルにとっては身近なものであっても、自分のものではなかった。家の窓の外から夜空に浮かぶ星を眺めるみたいに、そんな絶対に届かないものという感覚が、シルにとっての死だ。死ぬってとても冷たいんだな……そんなふうに冷めていく体を、シルは死と定義した。
冷たい体を温かい何かが撫でていく。半分だけ体が回転して、空を見た。森の木々に遮られてもなお、空は茜色に輝いていて、陽の光に当てられた体は少し温かくなる。首を少し動かすと、猫はいなくなっていた。そして少女が悲しげにシルを見下ろしていた。シルはよかったと思わず胸を撫で下ろす。少女に目立った外傷はない。
「――――」
シルは言葉が出てこない。なぜだかは、わからない。ボロボロになったシルの体を少女は抱き上げる。ふと、シルは少女の体がこんなに大きかったか、と疑問に思った。けれど、その疑問はすぐに解消される。
自分が手を引っ張って連れてきたからだ。ほとんど振り向くことはなくて、じっくり立ち止まって彼女と話すことなんてなかった。だから、覚えていない。シルは、自分が大変なことを忘れていたのだと気づいた。一人で勝手に先走って、少女のことなんて何一つ考えていなかったのだ。それは自覚していてもどこかに隠したもの。
徐々に辺りが明るくなって、シルには少女がどこを歩いているかわかなくなっていた。けれど、少女が森を出ようとしていることだけはわかった。
突然、少女がシルを下ろして、そのまま思い切り抱きしめた。身を焦がすような熱気の中で、シルは思考だけは鋭く醒めていた。だから、これがどういう意味なのか、痛いほど理解していた。
別離の時間なのだと。
熱い。シルはそう思った。心臓の音がどくんどくんと鳴って、耳にこびりついて離れない。少女がこの先一緒に来てはくれないということが、心に傷をつける。燃えるような熱さが、シルの体で暴れまわる。
いやだ。いやだいやだ。いやだいやだイヤダ嫌だ。嫌ダダ嫌だイヤダイヤだ。
僕を置いていくなんて――
「いやだ」
体がふっと軽くなって、少女はそのままシルを下ろす。
「民間人がいたぞ!」
そうだよ、二人だよ。僕と、彼女を、ここから連れて行ってくれ――そんなふうにシルは祈った。神様でも国王でも聖女でも、魔女でもいいから。そんなふうにシルは祈りを捧げていた。
立ち去ろうとする少女に刻まれた紋様は、心なしか増えていた。




