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何かを追い求めて  作者: 立方体
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とある勇気

 伸ばした手を本当に掴んでくれるとは、シルは思ってもいなかった。自分の言葉なんかで動かされてくれるとは思ってもいなかった。だからこそ、着いてきてくれているという事態が嬉しかった。

 掴まれた手は思わず驚いてしまうほど、冷え切っていた。だけど温かい。体温じゃなくて、そんなものよりずっと大事なものが流れ込んで来る気がした。どれだけでも頑張れるような気がした。少女はシルよりも頭一つ分ほど背が大きかった。けれどそれは些細な問題だった。

 シルが少女を見上げれば、優しく微笑んでくれた。その笑顔の意味はわからない。そのままシルは手を引いていく。部屋を出れば、廊下に着く。シルは何も起きずに廊下に出たことを訝しむ。先ほどの奇天烈な黒猫もそうだが、何らかの意思に導かれているのではないかと勘ぐってしまう。少女の方を振り向こうとして、やっぱりやめた。 

 不安そうな表情が顔に出ているかもしれない。そんなものを少女に見せるわけにはいかなかったからだ。

 少女は不安そうに先導するシルにされるがままに着いていく。

 少女はシルの見えないところで微笑んでいた。優しい微笑みを浮かべていた。

 だが、わかる人が見れば一発でわかっただろう。あんなに酷い微笑みはないだろうと、気づいてしまうだろう。シルはそんな類の笑みを見たことがないから、気づかなかった。シルと別れていった人たちは皆悲痛そうな顔を浮かべるのだ。いかにも別れが辛いと、そう主張しているのだ。

 少女はそんな目をしていない。失われてしまうことが確定しているもののその儚さを見つめている。ほんの少し、なくなってしまうものの最後の時間を慈しむように。


 シルも少女も、何か言葉を発したりはしなかった。少なくともシルは言葉にしてしまえばそれが現実になってしまうのではないかと、怯えていた。どれだけ歩いても同じ道を歩いてしまう。意図してそうしているのではなく、真剣に脱出しようとして、これだ。

 焦燥だけが、積もっていく。何かをしなければいけないことはわかっていても何をすればいいのかわからない。

「にゃあー」

 足元に黒猫がいた。鳴き声をあげるそれは、シルには酷く醜悪な笑みを浮かべているように感じられた。背筋をぞわっとなぞられたみたいに、硬直してしまう。悪寒に、追いかけられている。それはまるで魔女から逃げられないということを暗示しているようで酷く冷たい感覚。

 シルが一瞬の硬直から解放されると素早く黒猫を蹴飛ばした。冷や汗を拭うと、黒猫はどこにもいなくなっていた。

「にゃあ」

 再び、猫の鳴き声。シルは辺りを見渡すが、黒い影はどこにも見当たらない。だが、気配だけはある。嫌な感じだとシルは早歩きで進む。無為無策を突き詰めたような行為は逃避で、そのことを当然理解していた。けれどそうせざるを得ない。ここにいると不吉に引きずり込まれそうになる。だから、シルはここではないどこかへと宛もなく彷徨い続ける。

「にゃあ」

 と猫が鳴く。耳を塞いでしまいたくなる。そうしてしまえば楽になれる。シルはその蕩けるように甘い誘惑を振り払う。こんなんじゃダメだとばかりにわざとらしく不安を振り払い、少女の方に目を向けた。少女は、シルの視線を受けて不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる。

 シルは冷たくなっていた少女の手を放せなかった。鳥籠から出た少女は徐々にその体を冷やしていった。

 握りしめているそばから、その手はどんどん冷たくなっている。対照的にシルの体は溢れんばかりの熱を帯びていた。いきどころのない熱量を、シルはただ持てあましていた。うまくいかない現状と、冷たくなっていく少女。どんどん空回りしながら、シルはただ焦りだけを積もらせる。

昔、その冷たい体をシルはよく触っていた。そしてそれは意思のない空っぽの肉片だ。少女を同じようなものにさせるわけにはいかない。こうやって手を握って自分の体温を送り続けなければ彼女はそのまま動かなくなってしまうんじゃないかと、シルはそんな漠然とした不安を拭い去ることができなかった。

少女はシルに与えるだけ与えて、自分だけはどこかにいってしまうんじゃないか。その冷たさはシルに否応なくそんな結末を予想させる。

「にゃあ」

 猫はどこからともなく、鳴き声を廊下に響かせる。姿は見せない。

 黒猫は不幸の象徴だ。立ち去ろうとするそいつは幸せをもってどこかに行ってしまうから。

 そしてだからこそ、黒猫というのは幸福の象徴としても扱われている。シルはどうしようもなくてひたすらに走り回った。

 幸せになろうとしている人間が黒猫を避けるように進む、そんな矛盾にシルはまだ気づいていない。

 どれだけ走り回ったかは、シルにはわからない。どれだけ走っても同じ場所についてどこをどう走っても結果は変わらなかった。息はすっかり切れてしまって自分が温まっているのに握った先の手のひらは全然変化がなく、シルはまた怖くなった。窓の外には冷え切った雰囲気を纏う森が変わらず映っている。少女は、再び駆け出そうとしたシルの手を握ったまま、その窓の向こうを見ていた。思わずつんのめってしまったシルも少女の見ているものに視線を移す。

 別段、何かが起きているわけではない。雨が降り始めたわけでも、空が曇っているわけでも、逆に透き通るような青空が広がっているわけでもない。樹木がかかって全貌こそ見えないが、空はいつもと変わらないように見えた。少なくとも、シルには。

 少女は自分が見えていないものが見えているんじゃないか、そんなふうにシルは思えた。

 もう一度歩きだそうとシルが少女の手を引こうとすると抵抗があった。いや、単純に少女が動かなかっただけ。窓の向こう、それも遠くをずっと先の風景を見ていた。窓の外から目を切った少女は悲しそうな表情をしていた。その意味はシルにはわからない。きっと、わからないことなのだ。結局、少女が示した方向に進むしかない。自分では何もできないから。

 廊下の先で、シルは黒猫を見つけた。

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