ねえ神さま、ぼくの罪はなんですか?
えなが様との生活は、とても充実していた。
えなが様の住んでいる洞窟には一つだけ岩道がある。それを真っ直ぐに進むとぼくが放られた堂がある。そして途中幾つもある沢山の穴は曲がる場所によってさまざまな場所へと通じていた。1つは地下水の堪る地底湖へ、一つは色とりどりの実がなる果実樹の森へ、他にもいろんな場所に繋がっているここはウサギの穴の様だ。
最初、洞窟から連れ出された時は捨てられると思って怖かった。でも、当然のように「帰ろう」と手を引いてくれたえなが様にぼくはほっとした。天にも昇れそうな気持だった。岩道は真っ暗だけど、えなが様となら何も怖くないから不思議だ。
一緒に生活するにつれて、えなが様のもつ神様としての力を目にする機会が増えた。最初に気づいたのは果実樹でのことだ。果実樹は最初あまり実が実っておらず物寂しい雰囲気だった。だけど、えなが様が通う様になって変わった。季節問わず、様々な実がなり、その実はどれも異様な速さで成長を遂げていた。その奇跡を一度だけ目にしたことがある。丸裸になってしまった果実樹にえなが様が触れると、その枝先に芽が芽吹き花となり___いっしゅんで、大振りの果実へと変るのだ。まるで早送りしたような、下とし難い光景に息を呑んだ。だけどえなが様は当たり前のように笑っていた。
…その笑みが、その力が、ぼくとえなが様___人と神の途方もない距離を突き着けられているようで、酷く物寂しいと感じた。
でもそれはぼくには過ぎた思いだ。一緒になど、思い上がりも甚だしい。
そんな風に悶々と考える日々が続いたある日、ぼくは風邪を引いた。本当に情けない。
丁寧に看病してくれるえなが様は、人の看病に妙に慣れている様な気がした。…もしかしたら、ぼくの他にも人の子をこうして助けた事があるのかもしれない。そう思うと少しだけ気持ちが悪いと思った。見も知らぬ、居るかもわからぬその子どもに嫉妬した。
気になるなら訊ねてみれば良い。…きっとえなが様は、気にした風もなく笑顔で答えてくれるだろう。だけどそれができないのはこの身が疚しい為だ。もし返す様にして自分のことを聞かれたら、ぼくは何一つとして答えることができない。現に今だって、えなが様はぼくの右目には一切触れないでいてくれている。そんな優しい彼女を、自分から裏切る様な真似はできない。…それに、したくない。
しようのない葛藤と熱に悶々としていると、えなが様が沢山の果実を抱えて戻って来た。おかえりなさい、そう言おうとえなが様を見上げてぼくは心臓が止まる思いをした。
えなが様は何時も笑っている。何時も笑って、暖かくぼくを見守ってくれる。
そんなえなが様が、見た事のない顔をしていた。白魚の肌を真っ青に染め、穏やかな瞳を酷く鬱憤とした闇に囚われていた。何時も衣に足を取られ覚束ない足取りが、まるで幽鬼のように音もなく岩床を擦り、その細い指はここが極寒の地であるかのようにカタカタと震えている。
ぼくは恐ろしくなった。えなが様が消えてしまいそうで、いなくなってしまいそうで恐ろしかった。
この戦場の時代、人が死ぬなんて珍しい事ではない。現に、ぼくも沢山の死を目の当たりにして来た。病気で死ぬ人、寿命で亡くなる人、人斬りに遭った人、戦死して積み重ねられた人、____そして、人柱として御供された人。
そのどれよりも、恐ろしい。えなが様がいなくなるなんて、ぼくの世界から消えるなんて、そんなことあっちゃならない。そんなことみとめなない!!!
ぼくはえなが様を強引に寝かしつけた。最初こそ抵抗していたが、えなが様はすぐに瞑目した。…神さまは睡眠を必要としないと言っていたから、きっと瞑想に入られたのだろう。ぼくは邪魔しないように、その隣で息を殺した。…どこかに行けば一番良いのだろうけど、そうはできなかった。その間に、えなが様がどこかに行ってしまう様な気がしたから。
それから暫く、えなが様はまた笑顔を取り戻された。
ただ少しだけ様子がおかしい。
どこか挙動不審で、ぼくに何か言い駆けては止める。何か訊きたそうだったので、答えられる事ならと促してみたがえなが様は何時も困ったような笑みを浮かべてそれを断った。それと、桃を見ると陰鬱に顔を陰らせるようになった。桃はえなが様の好物であるのに、何がそうさせるのか解らない。だけどあまりにも毎度そうなるので、ぼくはいつしか桃が大嫌いになっていた。あんなものこの世から無くなれば良い。
そうして時期は巡り、秋になる。
えなが様はどうやら栗が好きらしい。地面に落ちたイガグリをとてももの欲しそうに見つめられるので、昔使用人がしていた調理法を見よう見まねでしてみたら思いの外上手くできた。やはりぼくはこういうことが得意らしい。とても嬉しそうに栗を食べるえなが様に、ぼくも嬉しくなった。そんなぼくを見て、えなが様は「笑顔が増えた」と喜んだが今一自分では良く解らなくてぼくは無言を返した。…えなが様といると、自然と頬が緩んでしまうせいだろうか。だらしない顔を見せたくはないので、気をつけようと心に決めた。
だけど、そんな穏やかな日は唐突に壊れ始める。
「____?」
転寝をしていると、不意に重い息が聞こえた。
むくりと起き上がると、体にえなが様の領布が巻かれていた。ふわふわと相変わらず鰻のように勝手に動くそれは、ぼくが目覚めたと解るなりぴゅうとどこかに行こうとする。慌てて掴んで引き寄せると、それはくいくいと必死に彼方に頭を突きつける。何事かと見た先には、えなが様がいた。
洞窟の岩道の手前に座り、手を合わせている。
それは何度か目にしたことがある姿だ。堂に祈願に来た村長の声を聞き、それを成就させる時にとる姿勢だ。邪魔をしてはいけない。そう思い、嫌がる領布を引き攣れてそっと体を縮ませようとした時だった。まるで虫の知らせのような、異様な感覚が走った。ぞわりと背に嫌な感覚が走り、ぼくは弾かれるようにしてえなが様を見据えた。そうして気づいた、
嫌に荒いえなが様の吐息と、苦しそうなその顔に。
……いままで、ぼくはえなが様が“神さま”であるから“それ”は当然のことなのだと思っていた。現に、えなが様はどんな願い事をされても、平気な顔をしてそれを叶えていた。天変地異を司る願いだって、平気な顔で応えていた。だから何時しか、それはえなが様にとって当たり前のことで、何の代償もないのだと勝手に勘違いしてしまった。
(___吸い取られてる、)
小さなえなが様の体から、視えない気が吸い取られているようだった。
その力は無遠慮に吸い取られ、岩道の向うへと消えていく。まるで岩道の闇から伸びた無数の手がえなが様の気を我さきと貪りあっているような異様な光景が視界に被った。ああ、ぼくはこの光景を知っている。
あの時、村人に堂に押し込められたときに視えた光景と同じだ。
(“あれ”は____人の業だ、)
村人の欲が、えなが様を蝕んでいるんだ。
えなが様がなんでも叶えられる万能の神なんて嘘だ。それはえなが様が多くの力を持っているからではない、えなが様が誰よりも優しい神さまだから。だからえなが様はどんな願いでも聞き届けてくれた。どんな理不尽な私利私欲に塗れた願いも、笑顔で叶えてくれた。だけどそれは全て、彼女の力と引き換えだったんだ。
「____っはあ」
「っ___!!!」
苦しげなえなが様の吐息に、ぼくは体中を針のむしろで貫かれる様だった。今までなにも知らずに彼女の傍にいた自分への恥、そして彼女の優しさに付け込んで村人の利欲を止めなかった自分への怒り、____そして今なお、彼女の恩恵を何も知らずにただの便利な道具として使っている村人たちへの、途方もない憎悪。
「お止め下さいえなが様!!!」
限界だった。気づけば飛び起きて、合掌するえなが様の腕を強引に解いていた。
「っぬ、ぬさくん___!?」
何時になく乱暴なその仕草に驚かせてしまったのだろう。えなが様は目を見開いてぼくをみた。その唇が青い、そして汗ばんだ肌も、微かな呼吸もすべてが彼女の疲労を語っていた。ぼくは唇をかんだ。口の中で血の味がした。
それは結局自分ひとりでは何も遂げられなかった、あの時の思いに良く似ている。
ずくりと、もうないはずの右目が疼いたような気がした。
「ど、どうしたの…突然?」
「っ、…いま、願いを…」
「願い…あ、そうなの。なんかね、最近雨が降らないから、降らして欲しいって村長さんが」
「雨なら三日前に降ったばかりでしょう!!!」
がなる様な声に、えなが様はびくりと肩を震わせた。
「そ…そうだけど…、きっともっと雨が降らないといけない事情が…」
「事情?どんな事情ですか! 雨は定期的に滞りなく降っています。村にある井戸水も貯水も潤沢なほどにしっかりと降っています!村を半壊させるほどの火事でも起こらない限り、そんな雨が必要にはなりません!!」
「だ、だけど…」
「雨が欲しいのは、井戸水を汲んで畑に水を撒くのが面倒だからだ!!村人は手間のかからない如雨露代わりに、あなたの力を利用しているだけだ!!!」
それが、真実だった。
えなが様と外に出た時、たまたま村人の会話を盗み聞いた。酷い話だと思った。腸が煮えくりかえりそうだった。だけど…おかえりと、笑顔で言ってくれるえなが様の顔を曇らせたくなくて、ずっと黙っていた。もっと早く言えば良かった。もっと早く伝えれば良かった。どんな後悔がぐずぐずと胸を抉る。
「…でも、」
それでも渋るえなが様に、ぼくの頭はどうにかなりそうだった。
どうしてそんな悲しそうな顔をする!!なぜ怒らない!怒ればよい、不敬だと村に天罰を与えれば良い!やつらはそれだけのことをあなたにしてきたんだ!!
(優しすぎる_____)
えなが様は“人”に優しすぎる。
あなたは神なんだ、もっと誇ってい良い。それだけの権利を生まれながらに持ちながら、なぜこうも下手にとどまるのか。どうして、
人に、優しいのか____。
「っ____!!」
飛びかけた言葉が、鋭利な刃となって心臓を抉る様だった。込み上げる嗚咽を呑みこみ、ぼくはぐっと唇を噛んだ。気づいてしまった真実に、えなが様に合わせる顔がない。羞恥と怒りに俯くぼくを、それでもえなが様は労わる様に背を撫でてくれた。
優しいえなが様、誰にでも優しいえなが様。
彼女の恩情に浸け込んで利用しているのは…ぼくも同じじゃないか。
「___、」
どうしよう。
気付いてしまった仕様のない真実に、ぼくの体は凍り付いた。
言葉を失い沈黙するぼくの背を、えなが様の優しい指先がずっと撫でてくれていた。