第5話
その場で医師に応急手当を受けたシルヴェオは、すぐに病院に運び込まれた。
驚いたことに、病院で診察を受けた時には腹の傷はふさがっていたらしい。
マリアーナが銛で刺した傷もすっかり治っていたそうだ。
「だが、血を大量に失ってしまった。しばらくは家で体力を回復させる予定だ」
シルヴェオは退院し、自宅でしばらく養生するらしい。
まもなく彼を乗せた馬車が病院から戻って来るのだと、ハロン氏が教えてくれた。
館の正面玄関に到着した馬車に、ハロン氏が向かう。
従僕が扉を開くと、寝巻に丈の長いガウンを羽織ったシルヴェオが、ハロン氏の肩を借りてゆっくりとステップを下りてくる。その後に続いて、ハロン家の医師が下りて来た。
まだ身体に力が入らないのであろうという歩き方のシルヴェオを見ていたマリアーナは、こちらに目を向けた彼と目が合った。
「おかえりなさい」
そう声をかけたマリアーナに、シルヴェオはふいと顔を逸らす。
「……ん」
小さく返事をすると、マリアーナの横を通りすぎて自室に上がって行った。
マリアーナはシルヴェオの様子に首を傾げた。
「魚の時はあんな風だったかしら。もっとひれをぱたぱたさせたりしていたはずなのに」
しかし、マリアーナはシルヴェオ・ハロンという人間のことを知らない。
元はああいう人間なのかもしれないと、マリアーナは思った。
自室に上がって行ったシルヴェオたちを追って、マリアーナもシルヴェオの部屋に向かった。
扉をノックして部屋に入ると、シルヴェオは寝台に入れられているところだった。
「呪いは自らを完成させるため、未完成の間は宿主の傷を高速で修復するそうだ。そのため、呪いが完成するまでは一時的に不死に近い状態になるようだな。刺されたのが完全に魚になる前でよかったな」
呪いに関する調査報告書を読んだハロン氏が、あの時起こったことをシルヴェオに説明している。
「え? あの時、シルヴェオは死んでいたのでは?」
マリアーナは驚き思わず言葉を挟んでしまった。
あの時シルヴェオは一度死に、呪いが完成した。マリアーナの口づけで呪いが解け、理由はわからないが生き返ったのだと思っていた。
「あの時は危篤状態であったが、まだ息があったようだ。と言うのも、呪いは死後には進行しないようなのだ」
「あの後呪いが完成して完全に魚になったということは、それまで生きていたということなんですね?」
マリアーナは腑に落ちない表情だった。ひとつ疑問があるのだ。
「あの時お医者さまはシルヴェオの身体を調べて、沈痛な面持ちで首を振っておられましたよね?」
その問いに、ハロン氏と医師は目を見合わせ、気まずそうな顔をした。
「実はこの医者が首を振ったのはな……」
「……『あちこち調べたが、魚のことはわからない。すまない』という意味だった」
医師が言いにくそうに答えた。
紛らわしすぎではないか。
マリアーナは心の中で叫んだ。
あの雰囲気の中で、そんなことがあっていいのか。
ハロン氏など、真に受けて目を覆って男泣きしていたではないか。
マリアーナだって、シルヴェオが死んだと思って心をえぐられるような思いをしたのだ。
医師の言う意味であの仕草を捉える人間が、あの空気の中でいるわけがないだろう。あれは完全に天に召されたというお知らせだ。
ああいった重要な場面では、誤解を招かないようきちんと言葉を口に出すべきだ。
マリアーナは胸の内で医師をなじった。
「つまり、シルヴェオは虫の息だったが魂は失われておらず、呪いが完成した。
その後口づけによって呪いが解かれシルヴェオが目を覚ました、というわけなんですね?」
マリアーナは腰に手を当てて、射貫くような目で二人の男を問いただす。
「そ、そうだ。シルヴェオが絶妙な折に目を覚ましたため、生き返ったように見えただけだ」
「ああ、あれは劇的とも言える瞬間だったな。シルヴェオのタイミングが良すぎた」
医師とハロン氏はそう言ってこくこくとうなずき合っている。
あの時、ちょうど芝居の山場のような瞬間に目覚めた当のシルヴェオは、父たちが何を自分のせいにしようとしているのかが理解できないようで、怪訝な顔をしている。
「だが、シルヴェオが死んだと思ったので、マリアーナ嬢は別れの口づけを贈ってくれたのだ。その結果呪いを解くことができたのだから、誤解していて良かったのではないか?」
眉間にしわを寄せ、鋭く目を細めて二人を見つめるマリアーナに、ハロン氏は慌ててそう言った。
「たしかに、生きているなら口づけしようとは思いませんでしたが……」
「だろう! シルヴェオの呪いが解けたのは、この一連の流れとマリアーナ嬢の口づけのおかげなんだよ!」
ハロン氏は不都合をかき消すように大声でそう言った。
そしてマリアーナの両手をぎゅっと握り、真摯に礼を述べた。
息子の恩人と感謝されては、これ以上怒ることもできない。
マリアーナはうまくなだめられてしまった。
説明を終えたハロン氏と医師が扉を開けたまま外に出て行くと、部屋には二人きりになった。
「シルヴェオ、退院おめでとう」
「……うん」
シルヴェオは顔をそむけたまま返事をした。
「それで早速なんだけど、呪いが解けたしそろそろお暇しようと思うんだけど」
「えっ、なぜ?」
驚いたシルヴェオは、思わずこちらへ顔を向けた。その勢いで、つんつんと跳ねた銀髪が揺れる。
だが、マリアーナの顔を見ると、再びさっと視線を逸らした。
「なぜって、呪いが解けたらこの一件は終わりだと思ってたんだけど、違うの?」
「いや、呪いが解けたんだぞ!」
シルヴェオは慌てて言った。三白眼の紺青の瞳は、こちらをキッと見ている。
訝しげな表情のマリアーナに、シルヴェオは続ける。
「まず、呪いを解いてくれたことに礼を言わせてくれ。本当にありがとう。
それで、呪いが解けた、ということは……その、君が俺を愛しているということだ。君は夫になる人としか口づけはしないと言っていただろう。だから俺は責任を取って君と結婚する」
「愛してないけど?」
「は?」
マリアーナの言葉に、シルヴェオは顔が固まった。
魚の姿だったら、ぱかりと口が開いていたはずだ。
「あなたが人間の姿に戻ったから、愛しているのかなと考えてみたのだけれど、やっぱり愛してなかったわ。だからなぜ呪いが解けたのか、わからないのよね。もしかしたら、愛とか相手が女性だとか関係なく、ただ口づけするだけで解けたのかもしれないわね。あの時、シルヴェオのお父さまが口づけしても解けていたかも」
シルヴェオは苦い顔をした。
「なぜ親父と口づけしなければならないんだ。
俺も病院で調査結果を少し読んだ。呪いの対象となる人間を愛する者からの口づけのみが、呪いを解くことはたしかだ。だから、呪いを解いた君は俺を愛しているはずだ」
その言葉に頬を真っ赤に染めたマリアーナは、慌てて反論した。
「そ、そんなわけないわ! 他でもないわたしが言うのだからたしかよ!わたしはあなたをまだ愛してない!」
「まだ……?」
「あっ」
これから発展する可能性があるような言い方をしたことに気づき、マリアーナの顔はさらに首まで真っ赤になった。
にわかに熱くなった顔を、シルヴェオに見られないように両手で覆う。
「なあ、君は自覚していないだけだ。心の奥底ではきっと俺のことをもう愛しているんだよ」
きっと意地の悪い顔で言っているのだろうと、指の隙間からマリアーナが見やると、シルヴェオは優しい表情をしていた。
「だからって、結婚はしないわよ。あなた、結婚相手は誰でもいいって言ってたじゃない。呪いが解けた今なら、わたし以外も選べるわよ。わたしだって、仕事にかまけて相手にしてくれないような夫はいらない」
シルヴェオの紺青の瞳で優しく見つめられ、なんだか恥ずかしくなったマリアーナは、つんとして言った。
人間姿のシルヴェオは逞しくどこか獰猛な鮫を思わせる雰囲気で、元気な時は今よりもさらに自信に満ちた男らしい姿なのであろう。これなら港町で人気があるというのもうなずける、とマリアーナは魚男が口にしていた数々の自画自賛を思い返していた。
「あれは撤回する。一生をともに過ごすなら、君がいいと今は思っている。
仕事については…………きちんと家庭も顧みると約束する」
これは怪しい。
マリアーナは村の女たちの愚痴から蓄積した知恵により、シルヴェオの歯切れの悪い口調にピンと来た。
これはあれだ。初めはきちんとする言っておきながら、結婚してしばらくしたら変わってしまうという、よく聞くあれだ。
そういう男は「人間はやっぱり変えられないんだ」とかなんとか言い訳したあげく、「家庭に入ってからの、君の女性としての努力が足りないからだ」とか言い始めるのだ。村の主婦数人から聞いたことがある、信憑性のある話だ。
マリアーナは、つかつかとシルヴェオが座る寝台に近づき、耳をつまんで引っ張った。背びれの代わりだ。
「いたた! なんで急に!」
「できもしない約束をしようとしたからよ!」
「努力はする!」
「成果のない努力はいらない。相手の女性を傷けるだけよ。
仕事だけしていたいなら、結婚はあきらめるのね」
マリアーナはそう諭しながら、耳をぎゅうぎゅう引っ張る。
シルヴェオは手をひらひらさせて耳からマリアーナの指をはずそうとしたが、それにかまわず耳をひねったマリアーナの腕を柔らかくつかみ、下ろさせた。
「……する気もない約束をしようとしたのは悪かった。君が少しでも安心できればと思ったんだ」
「やっぱり自分でもできないことはわかってたのね」
「だが、君と結婚したいと思っているのも本当だ」
「仕事一番で一緒にいる気がないのに、結婚して一緒にいたいって、矛盾してない?」
「だがそれが俺の望みだ!」
シルヴェオは臆面もなく言った。
マリアーナはため息をついた。
「あなたが仕事を一番にしたいという気持ちを咎めるつもりはないわ。
けれど、わたしはわたしを顧みてくれない人とは結婚したくないの。そちらも尊重してほしい」
「それだよ」
「何?」
マリアーナは眉間にしわを寄せた。
「君は俺がこんな風に自分に都合のいい提案をしても、見限らない。魚だった時も、うじうじしている俺に何度もつきあってくれた。
他の女たちは、俺が彼女たちにとって都合のいいことを言わないと、俺に幻滅して離れて行ってしまう。付き合いの長かったサロメのような人間でさえな。だから君がいいと思ったんだ」
「それは、わたしが魚に何も期待していなかっただけよ」
「普通は魚の姿で現れた時点で、相手にしないだろうよ」
それはそうかもしれないと、マリアーナはうなずいた。
手洗いに行きたいがために求愛し、半分魚の姿で生命の母たる海に自前の聖水を放出する男だ。
女を都合よく見ているところがあるし、言動も自由すぎる。
遠くから見ている分には憧れですむだろうが、ずっと一緒となるとすぐに幻滅してしまうだろう。特にあのめそめそは、彼への憧れが強い女ほど衝撃が強いかもしれない。
「そういえば、あのめそめそするのは、人間の時も同じなの?」
「……人前ではしたことがないが、そうだな。一人の時はする」
人間のシルヴェオも、魚だった時と中身は変わらないらしい。
それが当たり前のことだとわかっていても、目の前のまだ見慣れない男とあの魚が一致せず、マリアーナは戸惑っていた。
「それじゃあ、なぜさっき顔をそむけていたの? 玄関と、この部屋に入ってすぐの時と、話しかけてもこちらを見ていなかったじゃない。魚の時のあなたは、あんなことしなかったと思うんだけど」
マリアーナは先ほどの疑問をシルヴェオにぶつけた。
「あれは……。その、元の姿では人にうじうじした暗いところを見せたことがなかったからな。あれだけ俺の素を見せてきたマリアーナに、人間の姿でどう接すればいいかわからなかったんだ。以前の俺を見せてもマリアーナには見透かされてしまうだろうと思うと、取り繕うのも恥ずかしくて、ああなってしまった」
シルヴェオは恥ずかしそうに目を伏せて言った。
魚の時は表情がなく、声音と動きから感情を読み取っていた。
こうして表情からも感情が感じられるようになって改めて、人間のシルヴェオも同じ感情で以って話しているとマリアーナは気がついた。
あの魚は本当に人間だったのだと、彼女はここに来てようやく実感し、それを認めた。
「なあ、少しは考えてくれないか。いい夫になる約束はできない、が……」
シルヴェオは自信なさげに言った。
これはめそめそが始まる気配がする。そう思ったマリアーナは、めそめその雰囲気を遮るように早口で言った。
「わかった、考えるわ! 結婚するかどうかはまだ決められないけど、考える!」
後でやっぱり無理だと断ればいいのだ。
しばらくしたら、彼も無理だと気づくだろう。
人間は変わらない。仕事人間は仕事人間のままだ。だが、それでいいのだ。
無理に自分を変えて結婚しようとするから、誰かが傷つきややこしくなるのだ。
だから、変わらないままのマリアーナとシルヴェオでいいじゃないか。
マリアーナは、そう考えた自分に深くうなずいた。
「そうか! じゃあ親父に報告しに行かないとな! あとはマリアーナの両親にも話さないと!」
シルヴェオはぱあっと破顔して、朗らかに言った。
「え、なぜ? なにを?」
「婚約を、親に話さないとな」
「はい?」
結婚の約束をした覚えはない。結婚するか考えると言っただけだ。それだってお断りの方向に検討するだけである。
そう主張したマリアーナに、結婚を考える間柄なのだからそれは婚約ということだろうとシルヴェオは譲らない。
その後、数度の耳つまみとめそめそを挟んで歩み寄った結果、二人は妥協点として暫定的に婚約することを決めたのである。
暫定婚約期間はニ年ほど続いた。
なぜなら、お互いの主張が相変わらず平行線をたどっていたからである。
その間に、マリアーナの実家はハロン商会との付き合いで父の年金を手堅く投資してもらい、わずかな食料で食いつながなければならないほどの貧乏から脱出することができた。最近は老後の計画を見直しているようだ。
婚約のお伺いを立てた時、狙っていた魚が本当に人間だったことには父母ともがっかりしたようだが、すぐに気を取り直し娘の暫定婚約者を歓迎した。
マリアーナの元には、暫定婚約者が仕事の合間に通って来た。
そのうち仕事に夢中になり足が遠のくのではと思っていたが、シルヴェオは思う存分めそめそできる居心地のいい場所を見つけたと、まめに通ってくるようになった。
港町から離れた村までわざわざやってきてはめそめそするシルヴェオを、マリアーナは相変わらず適当にあしらっていた。
ぱたつかせるひれはなくなっても、魚の時と同じく人間のシルヴェオをかわいいと思う瞬間はあるが、めそめそされるのはマリアーナの性に合わないのだ。
だが、マリアーナのことを疎かにせず、忙しい時間を融通して通って来るシルヴェオの姿を見て、「このままずっと一緒にいてもいいかもしれない」と考え始めていた。
シルヴェオは変わったのだ。
いや、めそめそするところは変わらなかったが、仕事を他の何よりも優先する人間ではなくなってしまった。
きっと、シルヴェオにとっては仕事よりもめそめその方が大切になったに違いない。きっと家庭は素をさらけ出せる居心地の良い場所だと、きちんと戻ってくるようになるだろう。マリアーナはそう考え、ふむと深く首肯した。
そして二人は正式な婚約者になった。
「結婚式のお披露目にはマグロ料理を出そうと思うの」
「俺は鮫の方がいいと思う。暴れ鮫にちなんで」
「あの魚、今思うと案外かわいかったわよね」
「……やっぱりマグロでもいいかな」
こうして、二人の結婚式には異国から取り寄せられた一匹の大きなマグロが登場し、二人は新婦の父愛用のマグロ包丁を握り、マグロに入刀したのだった。




