1096:蒼(中)
窓ガラスが割れる音が周囲に響き渡る。
甘いパンを食べていた兵士も何か起こったことを悟り、直ぐに警戒態勢に移行する。
「一体どうした?!」
「三等市民を収容している宿舎で起きたみたいだぞ!」
「くそっ、脱走者が出たのならすぐに制圧しないとマズいぞ!!」
監視塔にいた警備兵はマスケット銃に着剣をして音のした方向に向かう。
駆け足で向かった際にいたのは、血塗れになりながらも工場の裏手にある3メートルを超える塀をよじ登っている人の姿であった。
錯乱していた男であったが、それでもこの場から逃げようと必死になってあらがっているのは確実である。
塀をよじ登っていたのを確認した兵士は真っ先に銃口を男に向けた。
だが、男はすでに塀を乗り越えてしまっていたのだ。
「停まれ!停まらないと撃つぞ!」
「くそっ、もうあんな高さまでよじ登るなんてどうやっているんだ?!レンガで敷き詰めていてよじ登る場所なんてないんだぞ!」
「ええい!脱走者だ!脱走者が出たぞ!!」
「おい、塀を乗り越えて向こう側まで行っちまったぞ!」
「警報を鳴らせ!奴はヤバいぞ!」
警戒を知らせる鐘を鳴らし、一斉に工場周辺の灯りが眩しくなった。
なんだなんだと他の歩哨たちも駆けつけてくる。
「脱走者だ!あの塀をよじ登って逃げやがった!」
「この塀をよじ登っていったのか……」
「見てみろ……血の足跡まであるぞ……」
「うわ……マジでやりやがったなあのやろう……」
「脱走者狩りだ!相手は血塗れになっても逃げようとしている。油断するんじゃねーぞ!」
男は足の裏が血塗れになってもなお、男は狂喜乱舞になって裏手の森を駆け巡っている。
彼は強毒性インフルエンザに罹患した結果、脳にダメージを受けてしまっているのだ。
ダメージを受けているがために、どういう考え方をしてもなお思考回路が鈍り、自分自身の行いがマズい事であるかを理解することができないのである。
「奴らの多い場所で殺すのはマズい、殺すなら個々にやったほうがいい……確実に殺す、殺す、殺す……」
そして、インフルエンザによって脳に異常行動が生じており、彼には最初から逃走という手段ではなく『虐げてきた者たちを皆殺しにしてやる』という殺人衝動が抑えきれなくなってしまっているのだ。
故に人間の本来としての力を全力で活かすために、活動を開始してしまったのである。
それを見越したかのように彼は工場から1km程離れた森の中に潜伏した後に、捜索隊がやってくるのを見越して隠れているのである。
「三等市民のB棟より脱走者が出た!犯人は周囲の人間の制止を振り切って窓ガラスを破壊し、塀をよじ登って逃走している。すぐに捕殺しろ」
「B棟の連中に話を聞いてきましたが、動ける奴は止めに入ったそうですが暴れて取り押さえることが出来なかったと言っています」
「ま、集団脱走ではないからそうなんだろうが……それにしても困ったものだ。ここのB棟の連中の食糧は当面スープのみだな」
「ええ、脱走者を出した責任は全員に取らせるべきでしょう」
警備部隊が慌てふためく中でも、二等市民の寮では脱走者が出たという警報音が鳴ったことでざわめきが起こっている。
「おいおい、この状態で脱走した奴が出たのか……」
「どうやら三等市民の棟から逃げ出した奴がいたらしいぞ」
「こりゃまた気の毒にな……逃げた奴は八つ裂きにされてもおかしくないな」
「違いない。ここんとこ警備部隊は殺気立っているからな……殺されても文句はいえんよ」
まだ綺麗なベッドで食事も三食採れることができる者たちにとっては他人事のように話しているが、B棟でインフルエンザの猛威に苦しんでいる者たちにとって、使い捨ての部品のような扱いをして兵士達は去っていく。
そして、抵抗する意思がないと判断してか食事の量をさらに制限してスープのみにするという処分を下した後で、彼らは捜索隊を編成して脱走した男を射殺するように命じたのである。
「いいか、確実に三日以内に逃げた奴は捕殺しなければならない。でなければ、我々の監査に響く上に職務怠慢として上からどんな叱責が来るか分かったもんじゃない。ここにいる全員が処分をうけることになるからな……確実に殺すんだ」
警備部隊の隊長がそう厳命すると、警備兵たちは男が逃げた森の方に向かって銃や剣を構えて捜索を開始しはじめた。
警備兵からしてみれば、この時間帯にとんでもない事件をしでかしてくれたもんだと頭を抱える状態を引き起こしてくれた男に対するヘイトは凄まじいものになっていた。
特に、これから哨戒任務を終えて就寝する予定だった兵士もたたき起こされて捜索に回されたために、酷く不機嫌な状態で逃げた男を捜索しなければならなかったからである。
「くそっ……せっかくこれで寝れる予定だったものをぶち壊しやがって……ゆるせねぇな……」
「まったくだ。これで男の死体を串刺しに出もしない限り腹の虫が治まらないってもんだぜ……」
「流感も流行ってヤバい状況だっていうのに……どうしてこうも三等市民の連中は問題ばかり起こしてしまうのかねぇ……」
「早いとこ殺して帰ろうぜ……」
兵士達の士気は芳しくなく、三日以内に逃げた逃亡者を捕まえないと降格だけでなく三等市民に転落する恐れがあるのだ。
故に、場合によっては三等市民の中から顔立ちや背丈が似ている者を探しだしてから処刑するという手法が取られるのも珍しいことではなかった。
三等市民が逃亡を図るという事は、命がけの逃亡劇を行うことと同義であったのだ。
彼らはノーフォーク造船所の周囲をくまなく探した。
一個中隊を動員して逃亡者を探す羽目になった為に、多くは二人一組で分散して行動することが心掛けられた。
ランタンの灯りを元に、逃亡者が隠れているであろう森林地帯には複数の兵士で捜索を行い、ノーフォークの近場の村などには馬を掛けて逃亡者が潜伏してくる可能性を知らせる警告を知らせに走らせていたのである。
この時、逃亡を図った者は川の近くで息をひそめていた。
その方が好都合であったからだ。
警備部隊には猟犬が投入されており、犬の鳴き声を聞いた男はゆっくりと川から人の背丈と同じぐらいに伸びている水草の中に隠れた。
犬は吠えているが、その先は川の中。
それもこの川は流れが早く、通常であれば長い事留まる事はしないからだ。
「この川に飛び込んだのか……暗闇で足を踏み外したのか?!」
「くそ……それだと下流に流されている可能性が高いな……」
「下流を探すぞ!もしかしたら溺れて浮かんでくるかもしれん!」
彼は警備部隊が猟犬を導入してくるのを見越していたのである。
川の直ぐに近くに潜んでいれば見過ごすだろうと。
そして、その目論みは当たったのであった。
男は水に浸かったことで、頭を十分に冷やすことが出来たのである。
インフルエンザに罹患して熱による異常行動がほんの少しだけ治まって理性的に行動を留まることができた。
しかし、怒りを止めることは出来ない。
男はゆっくりと川から這い上がってから警備兵の巡回をかいくぐって近くの村に入り込んだのであった。




