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夕食の時間になって杏里ははじめて部屋の外へ出た。
使用人が居ることや、医者を呼んですぐに来ること。自分の部屋の様子から見てなんとなく分かってはいたが、この家は相当なお金持ちのようだ。
緊張してきた杏里を見て、リージュは安心させるように言う。
「大丈夫ですよ。奥さま…アンリお嬢様のお母様も大変お優しい方です。記憶がなくなっていることは旦那様から聞いていらっしゃると思いますし、肩の力を抜いてください」
「うん。ありがとぉ。」
長い廊下を歩いてしばらく、食堂――ダイニングルームというべきだろうか。大きなテーブルがある部屋についた。
「アンリ!待っていたのよ。」
「あ、お待たせしてごめんなさい」
「そんなに緊張しないで。ほら、座って」
リージュが椅子を引き、杏里は軽くお辞儀をしてそこに座る。
「いつものようにお母様と呼んでちょうだい」
「でもぉ…」
「あなたの記憶がないことは分かっているわ。戸惑っているのもわかる。けれど、あなたに呼ばれないのは悲しすぎるの。ね、お願い」
「分かりましたぁ!お母様ぁ。」
杏里が呼ぶと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ずるいな、リリーだけ。」
「あら、アンフレッド。あなたも呼んでもらえばいいじゃない」
「お父様と呼んでくれるかな?」
「…はあい。お父様。」
「おお、なんだかアンリがはじめて言葉を喋ったときみたいに嬉しいな。ありがとう。」
呼んだだけでそんな風に喜んでくれるなら、何度でも呼ぼうと杏里は思った。
リリーとアンフレッドは杏里の体調を気遣いつつ、職場の面白い人の話や、お菓子作りをして失敗した話など、たわいない話をして楽しく食事をとった。
食事は普段杏里が食べるものより豪華ではあったが、テーブルマナーは日本のものとほとんど変わらなかったため、特に気を付けずとも食べることができた。
食事が終わる頃には、杏里はすっかり二人のことが好きになってしまっていた。
「気がついたらもうこんな時間ね。」
「アンリと話すのが楽しくてついつい喋りすぎてしまったようだ」
「杏里も二人の話、すごく楽しかったよぉ」
「それは良かった。だが明日もある。今日はそろそろ部屋に戻りなさい」
「そうね。ゆっくり体を休めてね」
お礼を言って部屋へと戻る。
杏里はあんなに楽しい食事をしたのは本当に久しぶりだった。
(アンリが羨ましい。)
ふかふかのベッドに顔を埋めながらそんなことを思う。
優しい両親も、リージュのように自分を気遣ってくれる姉のような存在も、全て杏里にはなかったものだ。
やがて杏里は意識を手放した。
ドアをノックする音で目が覚める。
「おはようございますお嬢様。」
「リージュ。入って~」
杏里に許可されリージュは部屋に入る。
「本日、お昼頃にクレイグ様とシリル様がいらっしゃるとのことです。
アンリ様の幼なじみのお二人ですよ」
「幼なじみなんているんだぁ!そういえばアンリって何歳なのぉ?」
「アンリ様は十二歳ですよ。」
「じゅうに…じゃあ学校…勉強をするところに通っていたりするの~?」
「はい。ゼラタリニウム学園に通われていますよ。この国で唯一の学園です。今日はお休みですよ。明日から始まりますが…」
「そっかぁ。じゃあ行かないとね!」
「大丈夫ですか?どうか無理はなさらないでください。」
「無理?怪我してるわけでもないし大丈夫だよぉ。」
「それならいいのですが…」
リージュは心配性だね~なんて笑いながら着替えを済ませ、朝ごはんを食べにダイニングルームへと向かう。
リリーとアンフレッドに朝の挨拶をして、明日から学園に行くことを伝える。
二人は喜んで応援してくれた。
部屋に戻った杏里は、学園に行くならしなければいけないこと――勉強をすることにした。
昼から幼なじみが訪ねてくるが、それまで少しでもこの世界のことを知っていかねばならない。
アンリには家庭教師もいるらしいが、今日は来ていないため一人で学園の教科書をパラパラと捲っていく。
(知らないことだらけだ…)
杏里は大学受験の時を思い出した。これは、あの時よりも勉強しなければいけないだろう。
何度も何度も読んで書いて覚える。案外楽しいもので、気がつくとお昼になっていた。
昼食をとってしばらくすると、クレイグとシリルが杏里の家に来た。
「こんにちはぁ。」
「アンリ、こんにちは。僕がシリルだよ」
杏里と同じ髪の色をした少年――青年と言うべきだろうか?今の杏里よりもいくらか歳上に見える。
「こっちの黒いのがクレイグ。」
「黒いのってなんだ…」
「覚えやすいでしょ?髪も瞳も黒だからね」
ため息をつきながらも本気で嫌がってはいないクレイグに、心底楽しそうなシリル。
少しのやり取りだけで、二人が仲の良い友人だということがわかる。
「俺はアンフレッドさんに挨拶に行ってくる。」
「分かった。じゃあ僕はアンリに屋敷を案内しようかな。まだ何も分からないでしょう?」
「いいんですかぁ?」
「勿論。まあアンリの家を僕が案内するっていうのもおかしな話だけどね。じゃあ行こっか」
「はぁい」
シリルは迷うことなく部屋を案内していく。よく来ていたのだろうと杏里は思った。
「アンリ、僕やクレイグに敬語は使わなくていいよ。」
「そうだよねぇ。幼なじみだもんね。わかったぁ。」
そんなことを話ながら、一歩先を歩くシリルの手を、杏里はさりげなく自分の手と絡めさせる。
「ちょ、アンリ?!どうしたの?」
「杏理と手を繋ぐの、いや?」
「嫌じゃないけど…」
そういいながらシリルはそっぽを向いてしまう。
顔が真っ赤になっているのを見て、杏理は驚いた。
杏理にとって、男の人と手を繋ぐのなんて日常だったのだ。
(そんな反応されたら、なんだか私まで照れちゃうな)
「と、とりあえず、たくさん歩いたし庭のベンチで休もうか」
手を繋いだままベンチに腰かける。
庭にはいろんな種類の花が咲いていた。
「お花、綺麗だねっ!」
「そうだね。リリー様はお花が大好きだから。」
「杏里も好きだよぉ」
「へえ、なんの花が好きなの?」
「うぅーん、お花ならなんでも好きっ。だってどれも綺麗だもん」
杏里の答えにシリルは苦笑いする。
「ちょっとぉ!馬鹿にしてるでしょ?」
「まさか。アンリらしいなと思っただけ」
「それって…」
「記憶を失う前の君と同じ答えだったから。」
杏里はゴクリと唾を飲み込んだ。きちんと話しておかなければならない。
「…ねえ、杏里ね、、アンリじゃないの。」
「アンリはアンリだよ」
「違うの。そうじゃなくて…。記憶をなくしたりなんてしてない。私は別の世界の杏里なんだ。」
「別の世界?」
「うん。多分、アンリが階段から落ちたからとか、何がきっかけかは分からないけど、入れ替わってしまったみたい」
「…そっか。分かった。」
「信じてくれるの?」
「だって、アンリとまるで口調が違うから。僕の知ってるアンリはこんな器用な真似できないし。」
そう言われて、杏里はハッと気が付いたように口元をおさえた。
それを見てシリルは笑う。
「ね、どうしてアンリのフリをしているのか知らないけど、僕の前ではそのままの君でいてよ。」
「別にアンリのフリはしていないんだけど…。」
「本当の名前は何て言うの?」
「読み方は一緒で、杏理。漢字って言うのがあって…」
時間も忘れて二人は話した。
純粋に自分を見てくれるシリルに、杏里も飾ることなく自分のままで居ることができた。
夜になってシリルとクレイグは帰ってしまったが、また会う約束をした。
もっとも、学年が違うだけで学園は一緒のため約束しなくとも明日にはまた会えるのだが。
杏里の中には、喜びと、期待と、それから不安が渦巻いていた。
声が、頭のなかで響く。
(何かを得るなら、何かを捨てなければいけない)
(凛、助けて!!)
深夜、もう街の明かりも一つもついていないような時間。
クレイグは一人の少女と話していた。
「それで、「主人公」はどうだったの?」
「ああ。ハッキリと自分の口で、アンリではないと言っていた。異世界の存在も話していた」
「やっぱり!ついに始まってしまったのね。「主人公」はどういう子?」
「俺や両親の前ではアンリと全く同じ口調で喋っていた。」
「じゃあ、記憶持ちね…。どうなるのかしら…。不安だわ。」
「大丈夫だ。何があってもお前は俺が守る」
「クレイグ…。私は「悪役令嬢」なのよ。それでもいいの?」
「何回確認する気だ?その質問は聞き飽きた。お前はセイラだ。それ以外の何者でもない。」
クレイグの言葉にセイラはにこりと笑ってつり目がちの目を少し垂れさせた。




