57 騒がしい休息
「行ってきま〜す。悠真、ちゃんと戸締まりしておくのよ〜!」
パタン。
軽やかなドアの音と共に、母がスーパーへ出かけていった。
残されたのは、僕と――来栖ほたる。
リビングには、蝉の声とエアコンの静かな吐息。
ソファに座るほたるが、クッションをぎゅっと抱えながら足をぶらぶら揺らしている。
「……」
「……」
ほんの数秒。沈黙が降りた。
(珍しいな。こいつが黙ってる時間があるなんて)
と思っていたら。
「……ふふ。やっと“二人の時間”になりましたね♡」
やっぱりこうなる。
「そういう言い方をすると誤解されるぞ」
「されてもいーですよ? “誤解を生む恋のはじまり”ってやつですしっ♡」
「言い方が軽いんだよ」
「じゃあもっと重めにします? “気になる後輩と、誰にも邪魔されないふたりきりの午後”――どうですかっ♡」
「タイトルみたいに言うな」
僕はペットボトルの水をひと口飲んで、ソファの反対側に腰を下ろす。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、部屋の空気はゆるやかに落ち着いていた。
「先輩、改めて思いましたけど……」
リビングのテーブルで麦茶を飲みながら、ほたるがしみじみと言った。
「先輩の家って、ほんと学校から近くていいですよね~。チャリいらずじゃないですか。いいなぁ……」
「まあな」
「わたしもここから通っていいですか? 朝、一緒に登校したいです♡」
「いいわけあるか」
即答で却下すると、ほたるは「ひどっ」とぷくっと頬を膨らませた。
でも、すぐに笑いながら肩をすくめる。
「でも本当に羨ましいです〜。私なんて、朝はいつも20分ちょっと歩いてますもん。夏は地獄ですよぉ……」
「たしかに、最近は早い時間でも暑いからな」
「でもでも、ちゃんと痩せますっ♡ “熱中症ダイエット”ってやつですっ」
「その痩せ方はやばいだろ……」
暑さと戦いながら笑う姿は、なんだかんだ元気そうだった。
ほたるはクッションに顔をうずめて、こちらをちらちら見てくる。
「……せんぱい、夏休みって、こういうのアリですか?」
「こういうの?」
「んーと……家で、ごろごろして、お昼ご飯食べて、気づいたら夕方になってて、宿題まだやってない~って焦る感じの夏休み」
「リアルな描写すぎて胸が痛いな……。でも、まぁ、のんびりするのは悪くないと思うよ。特に、予定がない日くらいは」
「わーい♡ じゃあ今日それでいきます!」
「“それ”って?」
「“先輩と一緒に、だらだら過ごす作戦”です! 略して、“ゆるダラ夏の陣”!」
「……命名センスが安定してブレないな」
「えへへっ♡」
ほたるはクッションを抱えたまま、くるっと横を向いて僕の方へ身体を倒す。
身体を預けるというより、安心して転がり込んでくる犬みたいな自然さだった。
「せんぱい、冷たい飲み物あります? 炭酸とか、アイスティーとか♡」
「あるけど、さっき紅茶飲んだばっかじゃなかったか?」
「うぇ〜い♡ “あれはマダムモードの私”なので、今は“夏仕様の私”です!」
「知らん人格が分裂しすぎなんだが……」
言いつつ、僕はキッチンへ立ち上がる。
「アイスレモンティーと、コーラがある。どっちがいい?」
「ん~~……両方っ♡」
「欲張り」
「先輩が淹れてくれるなら、なんでも美味しいんですもーん♪」
やれやれと苦笑しながら冷蔵庫を開け、グラスに氷を入れる。
(ほんと、休暇ってこういうことを言うんだろうな)
キッチンから振り返ると、ソファに沈んだほたるが、遠くで流れるラジオをぼんやり聞いていた。
さっきまでのハイテンションが少し落ち着いて、どこか静かな横顔だった。
僕はその横顔に、ふと問いかける。
「……なあ、ほたる」
「ん?」
「おまえ、ほんとはなんで今日来たんだ?」
クッションから顔を上げた彼女は、一瞬だけ、目をぱちぱちさせて――
「“なんで”って、理由いります?」
「そりゃ普通はいるだろ。突然家に来るのに」
「……じゃあ、秘密♡」
「おい」
「だって、先輩。夏休みって、会いたい人に会える時間じゃないですか?」
そう言って、彼女はいつものように笑った。
でも――ほんの少しだけ、照れたように、まぶしさをごまかすように視線をそらしていた。
「……ま、別にいいけどな。俺も暇だったし」
「えっ、じゃあそれってつまり“歓迎されてた”ってことでいいんですねっ♡」
「言ってない。言ってないからな」
「でも否定してないっ♡」
「……やっぱ帰るなら今のうちだぞ」
「はーい、じゃあ今から“帰らない覚悟”モード入りまーす♡」
僕はため息をつきながら、グラスをふたつ運ぶ。
夏の午後。
エアコンの風と、炭酸の音と、隣の少女の笑い声。
平和すぎて――ちょっとだけ、落ち着かない。
(……夏って、こんなもんだったっけ)
少しだけグラスを傾けながら、僕は“騒がしい休息”に身を任せていた。




