55 エピローグ:あの日の声
夕焼けに染まる遊園地の空は、淡いオレンジから群青へとゆっくりと色を変えつつあった。
パレードが終わって人混みが少し落ち着いた頃、僕と星乃さんは、中央広場で榊と花園さんの姿を見つけた。
「おー! やっと合流できた!」
榊が手を振りながら駆け寄ってきて、僕の背中をぽんと叩いた。
「いやー焦ったよ。星乃さんとはぐれちゃってさ。ちゃんと合流できて良かった!」
「……うん、ごめんね、迷惑かけちゃった」
星乃さんは少しだけ頬を赤らめながら、でももう泣きはらしたような目ではなく、穏やかに笑っていた。
「心配したよ、ほんとに。でも……無事でよかった」
花園さんのその声は優しくて、心のどこかを撫でていくようだった。
「でさ!」と、榊が手を挙げた。
「せっかくだし、最後にみんなで観覧車、乗らね?」
「それ、言うと思った」
と花園さんがくすっと笑いながら答える。
そんな中、観覧車のチケット売り場の手前で、突然、花園さんが足を止めた。
「あっ、ちょっとごめん。靴紐、ほどけちゃった」
しゃがみ込んだ彼女は、なぜか榊に笑いかける。
「榊くん、悪いんだけどちょっとカバン持ってて。……それと、加賀崎くんとみゆは、先に行って並んでてくれると助かるな」
「え? いや、それくらい待ってるよ」
靴紐を結ぶ時間なら、先に並んだところであまり意味はない。だからこの場で花園さんを待っていようと思ったが――
「ほら、行こ?」
星乃さんに手を引かれて、僕らは二人で観覧車の列に並んだ。
しばらくして、後ろを振り返ると……来ていない。
花園さん、明らかにわざとだ。
「……花園さん、あれ絶対わざとだよね。まさか榊と二人になりたかったってこと? え、もしかして……いつの間にか進展してた?」
「え、ええと……」
星乃さんは視線を逸らしながら、少しだけ口をへの字にした。
「……そ、そういうのじゃないよ。たぶん。うん、たぶんね」
明らかに動揺しているあたりが、もう確信に近かった。
でもその話を深掘りする前に、観覧車のゴンドラが目の前に止まった。
「次、二名さまどうぞー」
係員に案内され、僕と星乃さんはゴンドラに乗り込む。
ドアが閉まり、ゆっくりと空へと昇っていく。
窓の外に広がる景色は、さっきまで歩いていた夢のような街を、どこか遠くに感じさせた。
「……夕陽、きれいだね」
星乃さんがぽつりとつぶやく。
その横顔は、淡い茜色に染まっていた。
「うん。今日一日、あっという間だったな」
「ほんとに。……すごく楽しかった」
そう言って、星乃さんはほんの少しだけ身を寄せた。
「……加賀崎くん」
静かな声に呼ばれて、僕はゆっくりと顔を向ける。
「ん?」
「……私ね、昔、好きな人に助けてもらったことがあるの」
その言葉のトーンは、不意に落ち着きすぎていて。まるで今、この景色ではなく、遠く過去を見て話しているようだった。
僕は自然と姿勢を正した。
「……助けてもらった?」
「うん。もう、ほんとにしんどくて。どこにも自分の居場所がないように感じて……息するのも、ちょっとだけ辛かった時期があったの」
彼女はゆっくりと語る。
声は静かだけど、その奥に確かに揺れているものがあった。
「周りには人がたくさんいたのに、誰も私のことを見てくれなかった。助けてくれる人なんて、一人もいなかった」
「……でも、その人だけは違ったの。ちゃんと私のことを見て、気づいて、声をかけてくれた。『大丈夫?』って、手を差し出してくれて……」
そこまで言って、彼女は小さく笑った。
「私、そのときも今日みたいに変装してたんだ。地味な服着て、髪型も変えて、眼鏡とかで目立たないようにしてて。……楽だったんだよね。誰の視線も集めずにいられるから」
「でも、そんな格好してると――助けてもらえることって、意外と少ないんだ。優しくされるのは“星乃みゆ”として見られてるときだけで、誰も“困ってる私”そのものを見てくれたりはしなかった」
「……でも、その人だけは違った。“星乃みゆ”だからじゃなくて、“困ってる一人の人”として、ちゃんと助けてくれたの」
僕の胸の奥で、何かが小さく引っかかる。
どこかで聞いたような感情、誰かの言葉――
(……ああ。榊も似たようなことを言ってたな)
“榊だから”じゃない。ただ、“誰かが困ってたから”助けただけ。
あいつも、星乃さんも、たぶん同じなんだ。
見た目で注目されることが当たり前の世界で、だからこそ――自分自身を見てくれる人に、惹かれるのかもしれない。
「……そっか。すごく、いい人なんだね」
そう言うと、星乃さんはふっと微笑んだ。
夕暮れの明かりを映したその瞳は、どこか潤んでいて――でも、優しかった。
「……うん。すごく……すごくね」
風が少し吹いて、ゴンドラがゆっくりと高みに差しかかる。
眼下に広がる遊園地は、まるで宝石箱のように光を散りばめていた。
「……それ以来、その人のこと、ずっと気になってるの」
星乃さんは小さく息を吸い、ほんの少しだけ視線を落とす。
指先が、スカートの裾をそっとつまむようにして揺れた。
それは言葉を探しているようでもあり、自分の気持ちを確認するようでもあった。
「ずっと……好きなんだろうなって、思ってる」
彼女の横顔を見つめながら、僕は何も言えなかった。
ゴンドラの中に、静かな時間が流れる。
風がふっと吹いて、窓際の飾りリボンがわずかに揺れた。
僕の手は膝の上で、ぎこちなく指を重ねたりほどいたりしている。
何かを言いたいのに、まだ言葉にならない。
言葉を探すほどに、胸の中が不思議とあたたかくなっていく。
――まるで、夕空に溶けていくような気持ちだった。
やがて観覧車は、地上へとゆっくり戻っていく。
小さく揺れるたびに、僕と星乃さんの肩がふと触れそうになる。
けれどお互い、どちらも動かず、そのまま――そっと、座っていた。
この一日が、そっと幕を下ろそうとしていた。
けれど、胸の中では、まだ余韻が消えそうにない。
誰かの想いが、きっとどこかで、静かに育っている。
それが今すぐ届かなくても――いつか、きっと。
夜の遊園地に、きらめく光がそっと浮かび上がる。
誰もが帰路につくなかで、僕たちだけが、まだ夢の余韻の中にいた。
――きっと今日という日は、なにかの“はじまり”だった。
そんな気がして、僕はそっと、目を閉じた。




