36 氷姫の“ほんの、ちょっと”
放課後。
旧視聴覚室の前に立ち、静かにノブをひねる。重みのあるドアが軋むように開くと、そこには氷室玲奈が既にいた。
制服の襟元を整え、凛とした姿勢で座るその横顔。
相変わらず完璧な姿勢、冷静な表情――けれど、その目線は僕にではなく、どこか遠くの壁を見つめていた。
「こんにちは……今日もありがとう」
わずかに伏せたまつ毛が揺れ、玲奈が小さな声でそう言った。
音量としてはかすかでも、以前よりも柔らかさが宿っている。目を逸らされたままでも、それは伝わってきた。
「ううん、こっちこそ。……それで、今日の相談は?」
いつものように手帳を取り出し、ページを開く。
だけど、彼女の返事はいつもと少し違っていた。
「……今日は、特にないの。強いて言えば、前回……来られなかったこと、かな」
「忙しかった?」
僕が何気なく尋ねると、玲奈はすぐにかぶりを振った。
「……ううん、そうじゃなくて……その」
そう言って、彼女は口をつぐんだ。視線が下がり、指先がそっと制服の袖をつまむ。
迷っている――それが、はっきりと伝わってきた。
「……あなたと話すとき……うまく話せないことがあるの」
ぽつりとこぼされた言葉に、僕は思わず身じろぎする。
「え?」
「その……ちゃんと話そうとするほど、緊張して……」
玲奈は、口の端を少しだけ噛みしめるようにして言葉を探した。
「……嫌とかじゃなくて。迷惑でもなくて。……むしろ、逆なの。たぶん」
僕は黙って彼女を見つめる。
玲奈の頬が、ほんのりと桜色に染まる。
「……ちょっとだけ、恥ずかしいだけ」
その声音は、震えるようにかすかだけれど、嘘のない真摯さがあった。
僕の胸の内で、きゅ、と小さく締めつけられるような感覚が走る。
(避けられてると思ってたけど、違ったのか……)
少しの沈黙のあと、僕はふっと息をついて笑った。
「そっか。……ありがとう、教えてくれて。じゃあ、あんまり気にせず話しかけるようにするよ」
「うん……」
玲奈は、小さく頷いた。まるで小動物のように慎重に、でも確かに前よりも僕に向き合っている。
「……そうしてくれると、助かる。……ほんの、ちょっとずつなら、大丈夫だから」
その“ほんのちょっと”という言葉に、彼女の精一杯の勇気が込められている気がした。
僕はその心を傷つけないよう、そっと言葉を返す。
「……うん。ペースは合わせるから、安心して」
玲奈の表情が、ふとわずかに緩んだ気がした。目を伏せたままだったけれど、どこか安心したような空気が流れる。
僕は少しだけ冗談めかして話題を変える。
「じゃあ今日は、雑談でもしようか。……パンフレットの写真の件、聞いた?」
「……文化祭の展示に、なるかもしれないって言われたわ」
「うん。写真部の子が推薦したらしい。やっぱり、あの表紙の笑顔がとても素敵だったからね」
僕の言葉に、玲奈の肩がぴくりと小さく揺れた。
彼女は何かを飲み込むようにしてから、わずかにうつむいた。
「……あぅ。……え、えっと……ありがとう」
顔を上げることはなかったけれど、その耳までほんのり赤く染まっているのが見えた。
言葉にするのはまだ苦手でも、反応は嘘じゃない。
(……本当に、少しずつだけど)
もう、避けられてるわけじゃない。
踏み込めない距離はまだあるけど、たしかに前よりは――近い。
少なくとも僕にとっては、そう感じられる時間だった。
「それじゃ、今日はここまでにしようか」
玲奈は立ち上がり、静かに手帳を閉じた。
「……今日は、話せてよかった。ありがとう」
その言葉が妙に心に残った。
そう言って教室を出ていく玲奈の背中は、最初の頃のような“拒絶の背”ではなかった。
どこか、名残惜しさのようなものを滲ませているようにも見える。
僕はふっと小さく息をつきながら、その背を見送った。
(ほんの、ちょっとだけ。……だけど確かに、距離は縮まった気がする)




