第75話 銀狼の誓い
古鷲の砦跡での激戦から一夜が明けた。
帝国軍の追撃を巧みにかわし、俺たちエルム公国の面々とセレスティーナ率いるドラグニア抵抗軍は、森の奥深くにある隠れ家へと無事に帰還していた。
焚き火の煙と、血と汗の匂い、そして安堵のため息が入り混じった空気が、夜明け前の冷たい森に漂っている。
俺の目の前には、絶望的な状況下で救出された人質たちが、アリシアや抵抗軍の衛生兵から手当を受けている光景が広がっていた。
彼らの顔にはまだ恐怖の色が濃いが、生きて仲間と再会できたことへの微かな希望の光も見て取れる。この光景を守れたことに、俺は深い安堵を覚える。しかし、その代償もまた大きかった。抵抗軍の兵士たちは皆、満身創痍で、その疲労は極限に達しているように見えた。
やがて、副官であるバルトロメオ殿の案内で、俺たち――俺、カイル、アリシア、ティアーナ、そしてオリヴィアとイリス――は、作戦司令部となっている洞窟へと通された。松明の灯りが揺らめく洞窟の奥、広げられた地図を前に、一人の女騎士が静かに佇んでいた。
月光を浴びていた時よりも、その姿は遥かに生々しく、そして美しかった。銀色の髪は無造作に束ねられ、その身に纏う白銀の鎧は傷だらけで、所々が黒く煤けている。だが、その立ち姿は一本の剣のように真っ直ぐで、揺るぎない。
彼女は俺たちの姿を認めると、ゆっくりとこちらに向き直った。その鋼のように鋭く、しかし深い理性を湛えた瞳が、俺たち一人ひとりを射抜くように見つめる。
「エルム公国の皆さん、そしてレン殿。改めて、感謝を」
セレスティーティーナの声は、鈴が鳴るように美しいが、同時に鍛え上げられた刃のような冷たさと、指揮官としての重みを秘めていた。
「昨夜の戦い、あなた方の協力がなければ、我々は人質を救出するどころか、全滅していたでしょう。特に、あの『幻惑の濃霧』……予告通り、帝国軍の指揮系統を完璧に麻痺させてくれました。あれがなければ、我々に勝機はなかった」
彼女の言葉には、作戦が成功したことへの安堵と、俺たちの未知の力に対する純粋な驚き、そして警戒心が滲んでいた。俺たちの正体も、その目的も、彼女にとってはまだ謎なのだ。
「礼には及びません。俺たちにとっても、帝国は共通の敵ですから。それよりも、今後のことです」
俺は単刀直入に切り出した。感傷に浸っている時間はない。数千の民と兵を抱える彼女たちの状況は、一刻の猶予も許さないはずだ。
「セレスティーナ殿。俺は、あなた方抵抗軍の全員を、我々の拠点であるエルム公国へ一時的にでも迎え入れたいと考えています。そこで体制を立て直し、来るべき反撃に備えるべきです」
俺の提案に、洞窟内の空気が一瞬で張り詰めた。セレスティーナの隣に控えていたバルトロメオ副官や、他の幹部たちの顔に緊張が走る。
「……エルム公国、ですか」
セレスティーナは、俺の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。その瞳の奥で、激しい思考の火花が散っているのが分かる。
「あなた方が、我々の主君であるオリヴィア様を保護し、そして昨夜の戦いで見せてくださった力が、信頼に値するものであることは理解しています。その申し出は、今の我々にとって、抗いがたいほど魅力的なものです。ですが……」
彼女は、そこで一度言葉を切った。その声には、感謝とは質の違う、冷徹な響きが混じり始める。
「総長として、それはあまりにも危険な賭けと言わざるを得ません」
(……やはり、そう来るか)
俺の予想通りの反応だった。彼女はただの騎士ではない。数千の命を預かる指揮官だ。感情だけで動くはずがない。
「危険、ですか?」
「ええ」
「まず第一に、あなた方のエルム公国が、本当に数千もの民と兵を受け入れられるだけのキャパシティを持っているのか、我々には分かりません。食料は? 住居は? 医療体制は? 言葉だけで『安全な場所』だと言われても、民を率いる者として、やすやすと全てを委ねるわけにはいかない」
その指摘は、あまりにも正論だった。俺の隣で、カイルが少しむっとした表情を浮かべるが、何も言い返せない。
「そして第二に、これが最も重要ですが、我々の戦場は、この大陸です。帝国に故郷を奪われ、今この瞬間も圧政の下で苦しんでいる同胞たちが、大陸の至る所にいる。我々が揃ってこの大陸を離れることは、彼らを見捨てることに繋がりかねない。ドラグニアの騎士の誇りが、それを許しません」
彼女の言葉には、騎士としての、そして民を守る者としての、揺るぎない矜持が込められていた。その覚悟は、尊敬に値するものだ。だが、その誇りが、彼女たちを破滅へと導く可能性もある。
「セレスティーナ殿の誇りと民を想う気持ちは、痛いほど分かります」
俺は静かに、しかし力強く反論した。
「ですが、その誇りのために、今ここにある命を危険に晒すことが、本当に民のためになるとお考えですか? 帝国は、あなた方の存在を完全に捕捉している。このまま大陸に留まり続ければ、いずれは補給路を断たれ、兵は疲弊し、再び今日のような罠に嵌められることになるでしょう。それは誇りある戦いではなく、無謀な自決行為に他ならない」
「ならばどうしろと!? あなた方のように、森の奥で安穏と暮らせとでも!?」
セレスティーナの副官の一人が、激昂して声を上げる。だが、セレスティーナはそれを手で制した。彼女の瞳は、冷静に俺を見据えている。
(ダメだ……このままでは、ただの感情論になってしまう。彼女が指揮官として納得できる、現実的で、かつ希望のある道筋を示さなければ……!)
俺は、この数日間、頭の中で練り上げてきた作戦の核心を、ついに口にした。
「セレスティーナ殿、あなたの懸念はもっともです。ならば、エルム公国で一時的な休息をとった後、部隊を二つに分けてはいかがでしょう?」
俺の言葉に、セレスティーナと彼女の幹部たちが、訝しげな表情を浮かべる。
「部隊を二つに?」
「ええ。一つは、『祖国再建部隊』。今回救出されたアルバート卿をはじめとする文官や技術者、そして戦うことが難しい民や負傷兵を中心に編成し、まずエルム公国へ移住していただきます。彼らの使命は、戦うことではありません。エルム公国の民と共に、我々の新たな拠点となる場所で、将来、大陸から帰還する全てのドラグニアの民を受け入れるための、大規模な生活基盤と産業を築くことです。彼らの知識と技術は、そのためにこそ活かされるべきだ」
俺の提案に、洞窟内がざわめいた。それは、単なる避難ではない。明確な目的を持った「再建」という言葉が、彼らの心に新たな光を灯したのだ。特に、救出されたばかりのアルバート卿たちが、目を見開いて俺を見つめている。
「そして、もう一つは、『大陸解放部隊』」
俺は、セレスティーナの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「これは、セレスティーナ殿、あなたと、あなたの率いる精鋭部隊が担う。あなた方は大陸に残り、これまで通り、帝国への抵抗運動と、散り散りになった民の救出を続けていただきたい。ただし、これまでとは決定的に違う点が一つある」
俺は、そこで一度息を吸い込んだ。
「あなた方には、エルム公国という強力な『後方支援拠点』ができます。食料、武器、回復薬……必要な物資は、我々が責任を持って供給する。危険な時は、いつでも公国へ撤退できる安全な避難場所も確保される。もはや、補給に悩み、孤立無援で戦う必要はなくなるのです」
それは、現実的かつ、双方の誇りと実利を満たすための、俺が考え抜いた二正面作戦だった。抵抗軍が、ただの逃亡集団ではなく、確固たる拠点を持つ正規の軍隊として生まれ変わるための、唯一の道。
セレスティーナは、言葉を失っていた。その鋼の仮面の下で、彼女の心が激しく揺れ動いているのが分かった。俺の提案は、彼女が抱えていたジレンマ――民の安全と、騎士の誇り――その両方を満たす、あまりにも完璧な答えだったからだ。
だが、彼女が最後の決断を下すには、もう一つ、何かが足りなかった。指揮官としての、理性の壁。未知の勢力に民の未来を委ねることへの、最後の躊躇い。
その彼女の背中を押したのは、これまで静かに議論の行方を見守っていた、オリヴィアだった。
彼女は、救出された民衆、そしてセレスティーナの兵士たちが集まる場所へと、静かに歩みを進めた。その一挙手一投足には、もはや逃亡者の怯えはない。国を背負う者の、気高さと威厳が満ち溢れていた。
「ドラグニアの民よ。そして、我が騎士たちよ。皆、よくぞ生き延びてくれました」
オリヴィアの声が、静まり返った隠れ家に響き渡る。その声に、民衆の視線が一斉に集まった。
「わたくしが、オリヴィア・フォン・ドラグニアです。エルム公国の皆様に助けられ、今、ここに帰ってきました」
彼女は、救出されたアルバート卿の手を取り、涙を流す老婆の頬に優しく触れ、そして兵士たち一人ひとりの顔を見つめながら、力強く語りかけた。
「故郷は、帝国によって蹂躙されました。ですが、我々は全てを失ったわけではありません。見てください」
彼女は、俺たちエルム公国の面々を指し示した。
「ここには、我々の苦しみを理解し、共に戦ってくれる、力強く、そして心優しき仲間たちがいます。そして、我々が再起を誓える、エルム公国という安住の地が待っています。もはや絶望はありません」
彼女は、一度言葉を切り、民衆一人ひとりの顔を見つめながら、より一層力強い声で続けた。
「故郷を失った悲しみは、決して消えることはないでしょう。ですが、我々はここで立ち止まるわけにはいかないのです! レン殿が示してくださったこの道こそが、我々が再び立ち上がり、民が笑って暮らせる国を取り戻すための、唯一の希望の道だと、わたくしは信じます! わたくしと共に、このエルム公国という新たな大地で、もう一度、我々の国を、我々の手で築き上げるための第一歩を、踏み出していただけますか!」
オリヴィアの魂からの演説に、ドラグニアの民の目に、再び希望の光が灯った。彼らは、涙ながらに王女の名を呼び、再起を誓った。守られるだけだったか弱い姫は、もうどこにもいない。そこにいたのは、民を導き、未来を指し示す姿だった。
その光景を見届けたセレスティーナは、ついに俺の前に進み出ると、騎士として完璧な礼で、深く膝をついた。
「レン殿……そして、オリヴィア様。わたくしの、浅慮でした。あなた方が示す希望の光を、このセレスティーナ、疑うことなどありえません。謹んで、その作戦、拝受いたします。この剣、この命、あなた方と共に戦うために捧げましょう」
その言葉は、新たな同盟の、そして反撃の狼煙の始まりを告げる、力強い誓いだった。
「……しかし、レン殿。その公国とやらは、あの峻険な山脈の向こう側というではありませんか。数千もの民と兵を、どうやって……」
「道ならあります」
俺は、自信を持って告げた。
「では、皆さん。お見せしましょう。我々が、あなた方を導くための、希望の扉を」
俺は、隠れ家から少し離れた、開けた場所に全員を案内すると、ストレージから、あの星脈鋼で作られた巨大な門――【転移門】を取り出した。
突如として森の木々の間に現れた、星々の脈動を宿す鋼で作られた神秘的な門。その神々しい姿に、セレスティーナをはじめ、抵抗軍の兵士たちから、どよめきと畏敬の声が上がる。
「な……なんだ、あれは……!」
「門……? こんな森の奥に、なぜ……。いや、それよりもこの圧倒的な魔力は……!」
セレスティーナが、その鋼のような瞳を驚愕に見開いている。
「レン殿……これは、まさか……!」
「ええ」と俺は頷いた。
「大陸とエルム公国を繋ぐ、道です。これがあれば、数千の民であろうと、安全な場所へと移送できる」
俺は門の脇に設置された制御台座に手を置き、アリシアとティアーナに視線を送る。二人が頷くのを確認し、俺は魔力を注ぎ込んだ。
ゴゴゴ……と低い唸り声を上げ、門の内側の空間が、水面のように揺らめき始める。そして、眩い光と共に、門の向こうに、見慣れたエルム公国の広場の景色が映し出された!
「おお……!」
「繋がっている……! 空間が……! まさに伝説の……!」
その奇跡の光景を前に、誰もが言葉を失っていた。セレスティーナも、バルトロメオ副官も、ただ呆然と、光の門を見つめている。
「セレスティーナ殿。あなたの懸念はもっともです。ですが、我々にはこの力がある。まずは戦うことが難しい民や負傷兵、そしてアルバート卿たち『祖国再建部隊』をエルム公国へ移送し、体制を立て直しましょう。その後、あなた率いる『大陸解放部隊』への後方支援も、この門を通じて万全に行います」
俺の言葉に、セレスティー-ナはゆっくりとこちらに向き直った。その瞳には、もはや指揮官としての打算や警戒心はない。ただ、純粋なまでの驚きと、そして……民が救われることへの、深い感謝の色が浮かんでいた。
彼女は、俺の前に進み出ると、騎士として完璧な礼で、深く膝をついた。
「……レン殿。あなたという方は、本当に……我々の想像を遥かに超えていくお方だ。このセレスティーナ、そしてドラグニアの民の全ては、あなたとオリヴィア様、そしてエルム公国に未来を託します」
彼女は顔を上げ、決意に満ちた表情で言った。
「移送は、明朝より開始しましょう。」
俺は、彼女の力強い瞳を見つめ返し、静かに、しかし固く頷いた。
絶望の淵で交わされた誓いは、今、奇跡の扉を前にして、未来への確かな約束となった。俺たちの本当の戦いは、この門が開かれた、この瞬間から始まるのだ。




