第36話:癒しの光と騎士の目覚め
空間が悲鳴を上げるような強烈な浮遊感の後、俺たちの足元に確かな地面の感触が戻ってきた。
「…………! なんとか、着いたか……」
俺は、六人もの人間を連れての長距離転移の反動に、激しい眩暈と吐き気を感じながらその場に膝をついた。
目の前に広がっていたのは、見慣れたエルム村の、月明かりに照らされた頑丈な木の門だった。
「あれは……レンさんたちだ!」
門の見張り台から、ボルグの驚きに満ちた声が響き渡る。すぐに村の中に警鐘が鳴り響くが、それは敵襲を告げるものではなく、俺たちの帰還を知らせる、どこか喜びに満ちた音色だった。
「レン! 大丈夫か!?」
「レンさん、無理を……!」
カイルとティアーナが、ふらつく俺の体を両側から支えてくれる。
だが、俺には休んでいる暇はなかった。
「それより、二人を! アリシア、容態は!?」
俺たちの腕の中には、ボロボロの騎士装束を纏い、意識を失った二人の女性がぐったりと身を預けていた。
「うん、川岸で応急処置したから、傷口は全部塞がってる! でも、二人とも体力を使い果たしてて、すごく衰弱してる。早く安全な場所で休ませてあげないと……!」
アリシアが、二人の顔色を窺いながら迅速に答える。
すぐに門が内側から開き、ドルガン補佐をはじめ、ボルグや村人たちが松明を手に駆け寄ってくる。
「おお! レン殿! 無事……いや、その方たちは一体!? いったい何が……」
村長が、俺たちに抱えられたオリヴィアとイリスの姿を見て絶句する。
俺は、朦朧とする意識の中、盟主として最後の力を振り絞って指示を飛ばした。
「説明は後だ! 緊急事態だ! この二人を保護した。命に別状はないが、極度に消耗している。アリシア、回復に効く薬草の準備を! ティアーナ、アリシアの補助を頼む! カイル、ボルグ! 二人を家に運ぼう。あそこが一番静かで休める。」
俺の鋭い声に、村人たちは一瞬戸惑いながらも、即座に行動を開始した。エルム村が培ってきた、危機に対する迅速な対応力。それが今、二人の見ず知らずの女性を保護するために、最大限に発揮されようとしていた。
◇◇◇
俺の家の会議室は、瞬く間に静かな療養施設となった。
ベッドには、消耗が激しい二人が寝かされている。二人の体にあった無数の傷は、俺とアリシアの回復魔法によって綺麗に塞がってはいるものの、その顔色は蒼白で、深い眠りから覚める気配はなかった。
「傷は癒せても、失った体力や精神的な疲労は、魔法だけじゃすぐには戻らないから……」
アリシアはそう言うと、ティアーナと協力し、薬草を調合し始めた。滋養強壮効果のある根菜をじっくり煮込んだスープ、安眠効果のあるハーブを焚いた香炉、そして体力の回復を助けるための薬湯。それは、魔法という奇跡の力だけでなく、地に足のついた、生活の知恵に裏打ちされた献身的な看護だった。
先に意識を取り戻した金髪の女性は、毛布の中から、静かに、しかし驚きに満ちた目で見つめていた。
(……傷が、完全に塞がっている……? あれほどの深手だったのに、痕さえほとんど残っていない……。)
彼女がいたドラグニアの王宮では、治療は神官の祈りか、高名な薬師の秘薬に頼るものだった。
「気がつかれましたか?」
アリシアが、金髪の女性の視線に気づき、優しく微笑みかけた。
「気分はどうですか? お腹が空いていませんか? 消化に良いスープがありますよ」
その屈託のない優しさに、金髪の女性は戸惑いながらも、小さく頷いた。差し出されたスープは、素朴だが、体の芯まで染み渡るような、温かい味がした。
一口、また一口と、温かいスープをゆっくりと喉に流し込む。空っぽだった胃に、そして凍えていた心に、確かな熱が灯っていくのを感じた。目の前の少女――アリシアの純粋な善意に、何日も張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩む。
「……申し遅れました。わたくしはオリヴィアと申します」
その声はまだ弱々しかったが、凛とした響きと、育ちの良さを感じさせる優雅な響きがあった。
「あちらで眠っているのは、わたくしの護衛のイリスです。……あなた方には、命を救われました。何と……お礼を申し上げてよいか……」
オリヴィアは、イリスが眠る寝室の方へ視線を送り、そしてアリシアに向かって深々と頭を下げようとした。
「あっ、だめです! まだ安静にしていないと!」
アリシアは慌ててその肩を優しく支え、首を横に振った。
「お礼なんて、いいんです。大変でしたね、オリヴィアさん。イリスさんも、今はとにかくゆっくり休んでください。ここはもう安全ですから」
「オリヴィアさん……」
アリシアがごく自然に自分の名を呼んだことに、オリヴィアは胸を突かれた。敵意も、探るような視線もない。ただ、目の前の相手を気遣う、温かい眼差しがあるだけだった。
「……はい。ありがとうございます、アリシア……さん」
王族としての癖で敬称をつけそうになり、オリヴィアは慌てて言い直す。
「ふふ、さん付けもなんだか照れちゃいますね。アリシアでいいですよ」
アリシアはいたずらっぽく笑うと、再びスープのカップをオリヴィアの手に持たせた。
「さあ、スープが冷めないうちに、たくさん食べてくださいね。体力をつけないと、元気になれませんから」
その言葉に、オリヴィアは再び小さく頷き、黙ってスープを口に運んだ。その味は、先ほどよりもずっと、温かく感じられた。
◇◇◇
数日後、イリスもついに長い眠りから目を覚ました。
最初に彼女の視界に映ったのは、自分の手を握ってうたた寝をしている主君、オリヴィアの姿と、薬草を取り替えに来たアリシアの姿だった。
「……オリヴィア……さま……?」
掠れた声。その声に、オリヴィアとアリシアが、同時にハッと顔を上げた。
「イリス!気がついたのですね!」
「よかった……! 目が覚めたんですね!」
オリヴィアは涙ぐみ、アリシアは心からの笑顔を見せる。
イリスは、混乱した頭で自分の体を確認し、そして驚愕した。あれほど深手を負ったはずの自分の体が、傷跡一つなく、完全に治癒している。信じられない、という表情で自分の腕を見つめる彼女に、アリシアが優しく説明した。
「レンさんと私の回復魔法で、傷は塞いでおきました。でも、体力が戻るまで、まだ安静にしてくださいね」
「回復……魔法……? これほどの治癒を……?」
イリスの常識では、到底ありえない奇跡だった。
◇◇◇
動けるようになったオリヴィアを家に閉じ込めておくのもいけないので、アリシアはオリヴィアの村の案内役を買って出た。
「こちらが、皆が食事をしたり、集まったりする広場です。あちらに見えるのが、ゴードンさんの鍛冶場ですよ」
「まあ……」
オリヴィアは、目に映るものすべてに驚きを隠せなかった。石畳が敷かれた清潔な道、魔力レンガで建てられた頑丈で美しい家々、そして何より、人間、エルフ、ドワーフ、獣人といった多様な種族が、ごく自然に挨拶を交わし、協力し合って暮らしている光景。それは、種族による差別が少なからずあったドラグニア王国の常識からは、かけ離れたものだった。
「オリヴィアさん、こっちです! 村で一番、私が好きな場所なんですよ」
アリシアが、嬉しそうに手招きをする。
案内されたのは、畑に隣接して建てられた、数棟の巨大な建物だった。木材の骨組みに、ガラスのように透き通った板が全面に張られており、そこから差し込む太陽光を浴びて、内部では青々とした植物が瑞々しく茂っている。建物の外にいても、ほんのりとした暖かさが伝わってきた。
「ちょうどよかった。ティアーナさん!」
アリシアが声をかけると、温室の中から銀髪のエルフ――ティアーナが出てきた。彼女は、故郷から持ってきたという珍しい薬草の生育状況を確認していたようだ。
「アリシアさん。それに、オリヴィアさんも。ようこそ、私たちの温室へ」
「ティアーナさん、この温室のこと、オリヴィアさんに説明してあげてもらえませんか? 私より、ティアーナさんの方がずっと詳しいですから」
「ええ、お任せください」
ティアーナは、研究者としての知的な輝きを瞳に宿し、オリヴィアに向き直った。
「オリヴィアさん。まず、この壁面に使われているのは、正確にはガラスではありません。これは……クリスタル・ビートルという魔物の羽を加工したものです。ガラス以上の強度と光透過性を持ち、これ自体が魔力を帯びているため、保温効果も高いのです」
「魔物の羽を……!? 信じられませんわ……」
「そして、この温室が冬でも作物を育てられる秘密は、床下にあります」
ティアーナは、温室の内部を指し示した。中では村人たちが、一緒に楽しげに会話しながら野菜の収穫作業を行っている。
「床下には、レンさんの発想と私の魔道具技術を組み合わせて開発した、【微温魔石ヒートプレート】という熱源魔道具が敷き詰められています。僅かな魔力で安定した熱を長時間供給し、土壌そのものを温めることで、外の季節に関わらず、植物が育つ環境を維持しているのです」
オリヴィアは、絶句した。
魔物の素材を利用した新素材、魔法と技術が融合した環境制御システム、そして、それを運用する多種族の協力体制。一つ一つが、国家レベルの事業だ。それが、この森の奥の小さな村で、当たり前のように実現している。
「この村は……一体……」
オリヴィアの呟きに、ティアーナは誇らしげに、そして穏やかに微笑んだ。
「この村は、レンさんが築いた、希望の場所ですから」
その言葉は、オリヴィアの胸に深く、そして重く響いた。
◇◇◇
その夜、村を案内されて戻ってきたオリヴィアは、混乱と驚きで頭がいっぱいだった。ちょうどそこへ、一日の仕事を終えた俺が、二人の様子を見るために顔を出した。
「体調はどうだ? アリシアから、もうかなり動けるようになったと聞いているが」
俺の問いに、オリヴィアは居住まいを正し、真っ直ぐな瞳で俺を見つめ返してきた。
「ええ、あなた方のおかげで。……レンさん、単刀直入にお聞きします。この村は……一体何なのですか?」
その問いは、俺の意表を突いた。
「異常です」
彼女は続けた。
「今日一日、アリシアさんと共に村を拝見しました。堅牢なレンガ造りの家々、計画的に整備された水路と農地、冬でも作物が育つというガラス張りの温室……。そして、人間、エルフ、ドワーフ、獣人が何の隔てもなく協力し、笑い合っている。辺境の森の奥にある一集落が、これほどの文明レベルと組織力を持つなど、常識では考えられません。」
彼女の言葉は、淀みなく、そして的確にこの村の本質を捉えていた。
「そして、その全てを、あなたが中心となって築き上げたと聞きました。レンさん……あなたと、この村は、一体何者なのですか?」
その紫色の瞳が、答えを求めて俺を射抜く。
俺は、彼女の鋭い観察眼と分析力に内心で舌を巻きながらも、静かに答えた。
「ここにいるのは、それぞれ違う場所で、違う生き方をしてきた者たちの集まりだ。ゴブリンに脅えていた人間、故郷を滅ぼされたエルフ、頑固だが最高の技術を持つドワーフ、むらを魔物に滅ぼされた人たち……。皆、決して強くはなかった。だが、それぞれが持つ知識と力を出し合い、互いを認め、一つの目標のために協力した結果が、今のこの村だ。俺は、その手助けを少しだけしたに過ぎない」
俺の言葉に、オリヴィアは何かを考え込むように黙り込んだ。彼女は、俺の答えに完全に納得したわけではないだろう。だが、その言葉に嘘がないこと、そして、この村の強さが、個人の力ではなく「絆」にあることを感じ取ってくれたようだった。
「……君たちのことも、いずれ聞かせてほしい。」
俺がそう言うと、彼女の肩が微かに震えた。
「だが、無理強いはしない。君たちが話したいと思う時まで、俺たちは待つつもりだ。今は、心と体を完全に回復させることだけを考えてくれ。ここは、もう安全な場所なんだから」
俺はそう言って、彼女に考える時間を与えることにした。
◇◇◇
その夜。
家の窓から、活気のあるエルム村の夜景が見えた。家々の窓からは温かい光が漏れ、広場からは子供たちの笑い声が聞こえてくる。
オリヴィアは、その光景を、窓辺に立ったまま、じっと見つめていた。
彼女は、あの滝壺に、絶望だけを覚悟して飛び込んできた。そこにあったのは、容赦のない、死の世界のはずだった。
だが、現実はどうだ。
ここには、驚くべき技術と、豊かな生活、そして何よりも、種族を超えて互いを尊重し、支え合う、温かい共同体が存在した。
その全てを、レンという、謎めいた、しかし不思議な魅力を持つ若い盟主が、中心となって築き上げているという。
(レン……あなたとは、一体何者なのですか……?)
彼女の胸に、感謝と、畏敬と、そして……これまで感じたことのない、強い好奇心が芽生え始めていた。
オリヴィアは、静かに決意する。この村の、そしてレンという人物の真実を、この目で見極めなければならない、と。
そして、もし彼らが信じるに足る存在ならば……。
彼女の瞳に、亡国の王女としての、新たな希望の光が灯った。
「……あるいは、この予期せぬ場所こそが、我が民の、ドラグニアの再起の礎となるのかもしれない……」
その呟きは、始原の森の静かな夜の闇に、静かに溶けていった。
◇◇◇
数日後、外に出て歩けるまで回復したイリスを、今度はカイルがリハビリを兼ねて村の案内役に買って出た。
「ここは訓練場だ。朝と夕に、防衛隊の連中が汗を流してる」
「……見事な練度ですね。村の自警団とは思えません。装備も統一され、動きに迷いがない……」
「ここは、ゴードンさんの鍛冶場。村の武器も農具も、全部あの人が作ってる」
「ドワーフの……! 彼の打つ鋼は、私の知る一級品にも劣らない輝きをしていますね……」
イリスは、村の其処彼処で、驚きに目を見張った。高度な建築技術、温室や水路といったインフラ、そして何より、多様な種族が当たり前のように協力し合い、笑い合っている光景。それは、彼女が知るどんな国とも違う、理想郷のような場所だった。
「……カイル殿」
「ん? なんだ?」
「あなた方は……なぜ、見ず知らずの我々を、ここまで手厚く助けてくださるのですか?」
イリスの純粋な疑問に、カイルは少し照れたように頭を掻いた。
「……理由なんて、大したことじゃねえよ。レンが、助けるって決めたからだ。あいつが決めたんなら、俺たちはそれに従う。ただ、それだけだ。それに……」
カイルは、真剣な目でイリスを見つめた。
「お前さんを見つけた時、自分の身を挺して、あんたの主君を守ってたのを見たからな。そういう奴を、俺は嫌いじゃねえ」
その真っ直ぐな言葉に、イリスは初めて、厳格な騎士の仮面の下で、頬が少しだけ熱くなるのを感じた。
◇◇◇
イリスほぼ回復し、オリヴィアも心身ともに落ち着きを取り戻してから数日が過ぎた、ある晴れた日の午後。
俺の家のリビングでは、アリシアとティアーナが、オリヴィアとイリスを囲んでお茶を飲んでいた。アリシアが温室で育てたハーブを使ったお茶は、心を落ち着させる優しい香りがする。
「オリヴィアさん、イリスさん。もうお体の調子はすっかり良いのですね! 本当によかったです」
アリシアが、心からの笑顔で言う。
「ええ。あなた方のおかげです。この御恩は、決して忘れません」
オリヴィアは、まだ少し硬さはあるものの、以前よりずっと柔らかな表情で微笑み返した。イリスも、隣で静かに頷いている。
「それでね、お二人にお勧めしたい場所があるんです!」
アリシアは、何か素晴らしいことを思いついた子供のように、目をキラキラと輝かせた。
「お勧めしたい場所、ですか?」
「はい! 村の西側にある、温泉です! きっと、お二人の残った疲れも、綺麗さっぱり吹き飛んじゃいますよ!」
「おんせん……?」
オリヴィアとイリスは、聞き慣れない言葉に、不思議そうに顔を見合わせた。
「温かいお湯が湧き出ている泉のことです」
ティアーナが、冷静な口調で補足する。だが、その青い瞳の奥には、どこか楽しげな色が浮かんでいた。
「私も最初は驚きましたが……レンさんが建設を指揮された、この村自慢の療養施設です。体を温め、清潔にするだけでなく、精神的なリフレッシュ効果も絶大ですよ」
「熱いお湯に……浸かるのですか?」
イリスが、わずかに眉をひそめた。騎士である彼女にとって、湯浴みは体を清めるための義務的な行為であり、楽しむという発想がないのだろう。
オリヴィアもまた、王女としての品位を保つためか、少し戸惑った表情を見せた。
「わたくしたちの世界では、湯浴みは個室で行うのが一般的ですわ。その……大勢で、というのは……」
その反応を予測していたかのように、アリシアは悪戯っぽく笑った。
「ふふ、最初は皆そう言うんですよ。でも、大丈夫です! あの頑固なゴードンさんでさえ、今では毎日通うほどの常連さんですし、お兄ちゃんだって、訓練で疲れた日は必ず入っていますから!」
「あのドワーフの鍛冶師殿や、カイル殿までもが……?」
イリスの目が、少しだけ見開かれる。
ティアーナも、楽しそうに言葉を続けた。
「ええ。鍛冶や訓練で疲れた体を癒すのに、とても効果的だそうですわ。ゴードン殿もカイル殿も、すっかり虜になっているようですよ。私たち女性には、肌がすべすべになる効果もあると評判です」
「肌が……すべすべに……」
その言葉に、オリヴィアの瞳が微かに揺らめいた。
「さあ、行きましょう! 論より証拠、です! 一度入れば、きっと分かりますから!」
アリシアは半ば強引に、しかし有無を言わせぬ笑顔で二人の手を取った。オリヴィアとイリスは、その勢いに気圧され、戸惑いながらも、どこか好奇心をそそられている様子で、アリシアとティアーナの後に続くのだった。
◇◇◇
【エルムの湯】と書かれた暖簾をくぐると、そこは木の香りと湯気が満ちた、別世界のような空間だった。
「わぁ……」
オリヴィアは、その清潔で落ち着いた雰囲気に、思わず感嘆の声を漏らした。脱衣所の籠や棚も綺麗に整頓されており、隅々まで手入れが行き届いているのが分かる。
「こちらが女湯ですわ。さあ、どうぞ」
アリシアに促され、四人は脱衣所で服を脱ぎ、体を隠すための麻布(タオル代わりだ)を一枚ずつ手に取った。
浴場へと続く扉を開けると、湯気がもうもうと立ち込める中、大きな湯船が姿を現した。磨き上げられた花崗岩の縁から、透明な湯が静かに溢れ出ている。檜に似た木の香りが、湯気と共に鼻腔をくすぐった。
「……これが……温泉……」
オリヴィアとイリスは、その光景にしばし言葉を失っていた。
「さあ、まずは『掛け湯』ですよ。いきなり入ると、心臓がびっくりしちゃいますから」
アリシアが手本を見せるように、洗い場の桶で湯を汲み、足元からゆっくりと体に湯をかけていく。
「ひゃっ……! あ、温かい……!」
オリヴィアも、恐る恐るその作法に倣う。熱い湯が肌に触れる感覚は初めてだったが、それは不思議と心地よく、体の緊張がじんわりと解けていくようだった。イリスも、最初は硬い表情だったが、温かい湯が戦いで凝り固まった筋肉を優しくほぐしていくのを感じ、わずかにその表情を和らげた。
体を清め、いよいよ湯船へと向かう。
「どうぞ、オリヴィアさん、イリスさん」
アリシアとティアーナに促され、二人はゆっくりと湯船へと足を入れた。
「……っ!!」
最初に感じたのは、肌を包み込むような、圧倒的な熱と浮遊感だった。
「あ……あたたかい……! なんという心地よさ……! 体が、とろけてしまいそうですわ……!」
オリヴィアは、うっとりとした表情で、湯の中にゆっくりと体を沈めていく。王宮のどんな豪華な浴場でも、これほどの安らぎを感じたことはなかった。体の芯から、じわじわと温もりが広がっていく。
「……これは……」
イリスもまた、驚きに目を見開いていた。
「戦いで受けた古傷が……凝り固まっていた筋肉が、内側からゆっくりと解れていく……。こんな感覚は、初めてです……」
騎士としての常に張り詰めていた緊張の糸が、湯の中で静かに、そして優しく解きほぐされていくのを感じていた。
「ふふ、気に入っていただけてよかったです」
アリシアが、嬉しそうに微笑む。
「レンが言っていた通りでしょう? この温泉は、ただ体を温めるだけじゃないんです。心まで、温かくしてくれるんです」
「ええ……」
ティアーナも、心地よさそうに目を細めた。
「この湯に浸かっていると、故郷の森にあった月の泉を思い出します。とても、心が落ち着きますね……。レンさんの発想と、それを実現させる力には、本当に驚かされます」
ティアーナの言葉に、オリヴィアは湯船の縁に腕を乗せ、湯気の向こうに広がる森の景色を見つめた。
「レン盟主……。彼は、本当に不思議な方ですね。あの若さで、これほどの村を築き上げ、私たちのような者まで救ってくださる……。一体、どのような人生を歩んでこられたのでしょう」
「私たちにも、分からないんです」
アリシアは、少し寂しげに、しかし誇らしげに言った。
「レンは、記憶がないって。でも、彼がこの村に来てくれて、本当に良かったって、皆が思ってます。彼がいれば、どんなことだって乗り越えられるって」
その言葉は、オリヴィアの胸に深く響いた。
絶望の中で逃げ延びてきたこの森で、彼女は今、確かに希望の光を見出していた。それは、レンという謎めいた盟主と、彼を信じ、支える温かい仲間たちが作り出す、新しい時代の光だった。
「……本当に、素晴らしい場所ですね。このエルム村は」
オリヴィアは、心の底からそう呟いた。その声には、もはや警戒心や戸惑いの色はなく、ただ純粋な感動と、この村への確かな好意が込められていた。
隣では、イリスもまた、カイルから聞いた「仲間を守る」という言葉の意味を、この温かい湯の中で、改めて噛み締めているようだった。
湯煙の中で、四人の少女たちの間に、種族や身分を超えた、穏やかで温かい絆が生まれようとしていた。
エルム村の温泉は、ただ人々の体を癒すだけでなく、傷ついた心をも癒し、そして繋いでいく、不思議な力を持っているのかもしれない。
その日の夜、オリヴィアとイリスは、生まれて初めてと言っていいほど、深く穏やかな眠りについたのだった。




