09-4 氷の書の「禁断ページ」
「うおおおーっ」
叫ぶと、はっと気づいた。ここは転生先。現代日本生存研究会の部室だ。目の前に、追い込まれた仲間の姿がある。「思音、気をしっかり持って」と叫ぶ、あかねの姿がある。
俺は邪神に取り込まれかけていたようだ。左の掌に、邪悪なファイアーボールが出現しつつある。それはどんどん大きくなってゆく。パーティーに致命的な一撃を与えるには十分な威力で。
俺が攻撃してくるので四人は有効な手を打てず、追い込まれている。無力な空を護るように皆で固まり、あかねのヒトガタ結界に縮こまっている。心の迷いを表すように、陽菜の魔法陣は弱々しく顕れてはまた消え、明滅している。
本来は後衛の絵里が最前線で大きく両手を広げ、俺の攻撃を自ら総身に受け止めんとしている。瞳に迷いはない。死ぬ気だ。
俺の右では、ホムンクルスが唇を真っ青にして震え、俺の腕を強く握っている。傷ついた腹を押さえ、荒い息だ。どうやらパーティーの攻撃が、それなりにダメージを与えたらしい。
「こ、殺すのですか、至高神様」
ホムンクルスの言葉に答えるまでもなく、俺の左腕が勝手に動き、頭上に高くファイアーボールを掲げる。紅蓮のファイアーボールからは火花が弾けている。早く生贄が欲しいとでも言わんばかりに。
急に悟った。そう、俺は負けると。負けて体を乗っ取られ、喜びも苦しみも共にした仲間を殺し、そして世界を滅ぼす。
それは、俺が「終わった男」だからだ。前世で燃え尽きた自分は、当然のようにこの時空で負けてゆくのだ。前の宇宙の過酷な経験で、俺の心は死んだ。この次元で、みじめな「残り物」もすべて消える。俺は空っぽの空っぽになる。そして世界を道連れにする。
そのとき頭の中に、幻影のルーナが蘇った。――シオン、私のことは忘れて。そして、私のことを忘れないで。いつまでも……いつまでも、私たちは一緒よ……。
――わかったよルーナ。お前は俺に、道を指し示してくれたんだな。一緒に行くよ……。俺はここで完全に終わる。でも、ひとりでは終焉を迎えないさ。俺達は結局、戦士だ。戦わなければ、スローライフもないよな……。
「ルーナ……ルナ」
俺は、傍らのホムンクルスに話しかけると、今できるせいいっぱいの笑顔を作った。俺の意識がまだあると知り、ホムンクルスは驚きに目を見開いた。
「ルナ……ルーナ。俺はこれから、お前のところに行くよ。待っていて……くれ」
左手が、残酷な投擲を始めようとしていた。歯を食いしばって、残った意志をすべて動員した。俺の腕は、徐々に深く曲がってゆく。
「だめ……だめだよ思音。それだけはダメええっ!」
俺の意図を悟ったあかねが叫んだ。陽菜も空も。絵里は俺に向かい全力で走り込みながら千切れよとばかり腕を伸ばし、自らの命すら縮める最強のドーピングを施そうと試みている。
俺の左腕は今では強く屈曲し、ファイアーボールを自らの腹に向かい撃ち出さんとしている。今ならまだ……邪神に完全に取り込まれる前の弱い体なら、これですべて終わらせられるはずだ。俺は目を閉じた。瞼の裏に、笑顔のルーナが浮かんでいる。
ファイアーボールが発射される強い振動を感じた。それは狙いどおり腹に着弾し、衝撃で俺は吹っ飛び、床に倒れ伏した。……しかし……しかし、なにかがおかしい。これでは損傷が少なすぎる。
ルナが……いや、ホムンクルスが腕の中にいた。口から血を流し、苦しげに唸っている。
「お前……」
「ごめ……んなさい。自分の血を……見て、あなたを見て……、あの大事な日々を……思い出した。やっぱ……り血の同胞、真の仲間は裏切れない。私の……魂が……ニセモノだった……と……しても……」
瞳から光が消えてゆく。頭と腕が、俺の腕の中でがくりと垂れた。
そのとき、俺の中でなにかが起こった。眼前で血を流すホムンクルスが、あの世界で転送機の前に倒れたルーナに重なった。
「エ……、エ、エエルゴオオオ……、エエルゴオオイラエッセレエエエエエエエ」
俺の口から、意味もわからない呪詛の言葉が吐き出された。とたんに、体の内側からなにか凄まじい奔流が巻き起こる。内側からバーナーで焼かれているようだ。その炎に呼ばれたかのように、俺は右手で顔の組織を掴んだ。そのままベリベリと引き剥がしてゆく。
「な、なに、あれ……」
あかねの叫び声が、どこか遠くで聞こえる。
俺は、荒っぽく邪神を体から引き剥がした。そのまま放り出す。大量の粘性物質が、床にどさりと転がった。
しかし、それで決着ではなかった。邪神はすでに、俺の体から十分に復活の力を得ていた。かさぶたのような固まりと粘性の物質はゆらゆらと霧となって蒸発して行くと本来の邪悪な姿となり、ついにはおぞましい五つの目が、ゆっくりと開いた。闇の火山で相対したときより体ははるかに小さいが、醸し出すオーラの強さは変わらない。
――お前。お前たちを知っているぞ。眠る前に見た顔だ。そして私の目覚めの食事になる顔だ。
邪神の声が、全員の頭に響いた。
「食いしん坊は、おしおきよっ」
あかねが叫ぶ。
体の奥から突き上げてくる謎のパワーに応え、俺は肚に力を込めた。
「う、うおおおおおーっ」
びしっと音を立てて、俺の腕に血管が強く浮き出た。心臓の鼓動が反転し、太い血管に、赤い血でない、なにか別のモノが逆流する。血管がヒリヒリと熱く疼いて痛んだ。そして腕や脚に、その痛みが広がってゆく。
「……なによあれ。思音の髪が金色に輝いているわ」
背後であかねの声がする。
「体つきまで変わっているじゃない」
あかねが息を飲む。たしかにそうだ。腕も脚も太くなり、鎧のような筋肉で、体躯まで大きく膨満している。
「……伝説のウオーリアです、まるで」
陽菜の声が、エコーを伴って頭に響いた。鼓動はゆっくりで力強く、大量の体液を運搬している。そのたびに頭の奥がずきずきと痛むほどだ。
邪神がすっと腕を上げた。腐食性の飛沫が、大量に飛んでくる。飛沫からは刺激臭が漂い、息を吸うのも苦しいくらいだ。
「思音っ」
あかねのヒトガタが百も現れると、すべてを弾き防いでくれる。いくつか、防ぎ切れなかった飛沫が、俺の頬をかすめた。頬が焦げ、肉が焼ける臭いがした。
「あかね、部室が邪魔。ふっ飛ばして。あたしは、あのニセモノにヒーリングを施す」
「わかった、絵里」
別の折り紙をあかねが撒くと、大きな音がして、部室は内側から激しく崩壊した。夕方の陽が木々の影を長く伸ばしながら、裏庭を黄金色に染めている。
「……なにこれ。あたしの能力が賦活されてる。もしかして、思音の力……?」
「始めるよ、みんな。ルナの弔い合戦だ」
「絵里ちゃん、任せてっ」
陽菜を中心に魔法陣が発生した。十芒星。それも二重の。プールほどもある巨大な魔法陣が、轟音を立てて右と左に回転し出した。
「デカグラム……。あっちでだって見たことないよこんなの、陽菜」
「はいーっ」
邪神が醜く歪んだほうの腕をかざした。小さな魔物が多数顕れ、パーティーに殺到する。あかねがヒトガタで弾くが、魔物はオリガミを食い進み、すぐに破られてしまいそうだ。破られてしまえば、もうパーティーを護るものはなにもない。陽菜の魔法陣からは、無反動砲らしき物体がせり上がってきた。桃色で小さい。
「こんなに大きな魔法陣で、これだけ?」
せいいっぱい攻撃を防ぎながら、あかねが叫ぶ。
「これこれこれーっ」
陽菜が銃器に飛びつく。
「いっけえーっ」
小さな無反動砲といえども、小柄な陽菜が抱え込むと、それなりに大きく見える。引鉄を引くと、銃口からピンクのテディベアが発射された。クマのぬいぐるみは、くるくる回りながら邪神に向かうと腕に張り付き、かわいい足で締め上げた。邪神がぞっとする叫び声を上げる。
「今だよクマさん」
ベアは不思議な爆発の仕方をした。一瞬、爆炎が広がるのだが、すぐに周囲の空間を巻き込んで縮爆する。邪神の腕が一本落ちた。
「凄い……」
あかねが呟く。
「ルーナがいない分だけ不利だよっ。陽菜、その調子で頼むわ」
「わかってるよ、あかねちゃん。ルナちゃんをいじめた子は、許さないもんっ」
「空っ」
「ご主人様……」
危険も顧みず、空が最前線に飛び込んでくる。俺が抱きとめると、滞りなく氷の書へと姿を変える。まるで昔のようにスムーズに。もう時間がない。魔物が結界を破るのは目前だ。表紙に手を置くと、乱暴に頁を繰った。ある頁で指を止めると、その次の頁へと指を進める。
「あっだめっ。……ご主人様、そこは無理」
空が叫ぶ。禁断の頁だからだ。まだ誰も開いたことがない。しかし俺の指は止まらない。きつい空の頁に、乱暴に指を一本差し入れた。
「痛いよ、指を動かさないで。いやっ痛いっ。私、死んじゃう。うっ、ああああっ!?」
あまりの痛みに、空が大声を上げる。指の爪まで悪魔のように長く伸びた俺が、かまわず頁をむりやりに開くと、空の絶叫と共に、ベリベリと痛々しい音が戦場に響き渡った。




