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 ――焼け焦げた街を遠くに見る。いつもと変わらない光景。生まれてから、ずっと。

「馬鹿野郎! 何してやがる!」

 白髪の工場長が間近で怒鳴った。小柄で皺だらけ。目は鋭いというよりは始終怒気が漲っているようで、身内はおろか客でさえ萎縮させる。歳はもう七十半ばのはずだが衰える様子はない。誰も逆らえないし、逆らわない。

「すんません!」


 条件反射のように俺は頭を下げる。この動作は体に染みついているかのようだ。怒鳴られたら、まず謝る。そうすれば相手の機嫌を損ねる事はない。

 良くなる事もないが。

 注文書を挟んだボードが勢いよく俺の頭を叩く。容赦はない。頭皮の痛みに涙が出てくる。

「塗装の時は下地作りからしっかりやれって言ったろうが。お前、同じ事何べん言わせんだ!」


 怒声が工場に響き渡る。だが、周りの作業が止まる様子はない。誰も気にしちゃいないのだ。頭を下げたまま、俺はもう一度、すんませんと言う。

「もういい。これは他の奴に任せる。裏行ってタイヤの片付けでもしてろ、馬鹿野郎が!」

 怒り心頭といった罵声。俺は道具を手早く置き、再度頭を軽く下げて素早く歩き出す。誰とも顔を合わせないように。先輩の工員とすれ違う。俺は自然足早になる。


 夏を目前に控えた午後の空は晴れていた。雲と、青い空。それだけだ。他には何もない。飛行機はこの辺りを通らないし、鳥もほとんど見かけない。

 工場の裏側にはパーツが外れたままの車体や、捨てられたように放置されたタイヤがいくつも転がっている。片付けても意味はない。ようするに邪魔だったのだ。仕事が出来ない俺が。

 別に手を抜いているつもりはない。だが、ミスは起きる。


 出来ないわけじゃないと、苛立ちが腹の底から湧き上がる。

 ただ向きじゃない。いわば『ヒトの手で行う』作業って奴は。俺の右手は人間の物じゃない。不必要に大きな鳶のそれだ。俺はこいつを器用に使っている。十分器用に。工場長だろうが誰だろうが、最初からまともに生まれついた奴に、本来俺を叱る資格はない。怒鳴り声や嘲笑を聞く度、いつもそう言ってやろうと思う。

 条件が違うんだ。生きる上での条件が。壁にもたれかかり、俺はアシユビの関節で何度も膝を叩く。苛々する。耐えられない。


『だからお前は――』

 あいつの言葉が脳裏によぎる。くそ野郎。生まれた時から俺を嫌って、見下していた男。

「俺は……」

 こんなままで人生終わりはしねえ。あいつの言う通りになんてなりはしねえ。

 俺は、俺は……。


「何してやがる」

 不機嫌そのものの声が、思考の連なりを断ち切った。顔を上げる。声を聞けば誰が来たかはわかる。工場長だ。

「片付けとけって言ったろうが」

「……すんません」

 頭を下げて、俺は三度謝罪する。本当に、体が覚え込んでしまっている。


「……ったく、お前はよ」

 工場長は呆れたような口ぶりで言い、戸口の前の小さな段差に腰掛けると、ポケットから赤いパッケージの煙草を取り出して一本口に銜える。 深々と吸い込んだ紫煙を吐き出しながら、工場長は言った。

「もうちょっと集中しろや。仕事なんだからよ」

「すんません」


「いや謝んなくていいからよ」

 顔をしかめながら、工場長は煙を吸い込む。

「そんなんじゃお前、どこ行っても通用しねえぞ。まあ確かに、つまんねえ仕事かもしんねえけどさ。自分でやりてえって言ったんだから」

「……すんません」


 腹の中で苛立ちが煮えている。あんたにそんな説教をされる謂れはねえ。俺は、これでも立派にやっている。俺と同い年の他の奴なんかは働きもしねえで、大学に行きやがった。親の金で。綺麗な服を着て。そのくせ勉強はしねえで酒ばっか呑んで。あんな奴等に比べたら、俺は十分立派にやっている。こんな体だっていうのに。

 ああ、くそ!

「……まあ、お前もよ、言いたい事もあるだろうがな」

 吐き出された紫煙が、瞬く間に空へと消えていく。


「まずは頑張ってみろよ。何でもいいんだ、頑張れるなら。頑張れなきゃ人生終りだ。一つの事を、力入れてやり切る。それが出来りゃ上等よ」

「……はあ」

 何でもいいんなら、別にこの仕事じゃなくたっていいわけだ。苛立ちがそんな言葉を浮かばせる。

「別に失敗したっていい。同じ失敗を繰り返さなきゃいいんだから。やり直すってのも手の一つだし……つまり、あー何だな」


 老人は頭を掻いた。何が言いたいのか、さっぱりわからない。

「大事なのは、自分が『逃げた』と思わない事だ。自分が、こいつは『逃げ』だ、と思うような事をしない事だ。いいか、誤解のないように言っておくが、別に危ない事や辛い事を無理して続けろって意味じゃねえぞ。戦略的撤退ってのは常に重要だ。自分の人生を大切に出来る奴は、結局のところ自分しかいねえ。自分の命や人生が危なくなるのに、頑張り続ける必要は全くない」


 センリャクテキテッタイとは、ずいぶん似合わない言葉を使うもんだ。ただの、自動車工のくせに。

「そういうところとは別にして、生きていく上で、生きている実感の中で、自分が『逃げ』だと思うような事をしない。そういう『逃げ』は一回ごとに積み重なっていって、いずれは戦う気概さえなくしちまう」

 短くなった煙草を工場長は段差に押し付ける。

「そういう『逃げ』のツケはでかい。行き着く先は今の新宿にいるような連中と同じだよ。チンピラ、ゴロツキ、またはろくでなしだ」


 最後の言葉が、否応なく心を掠める。耳障りだ。その言葉が。

「……失礼します」

 頭を下げて、俺は転がったタイヤのほうへ足を向ける。やれと言ったのは工場長だ。

 後ろからため息が聞こえた。それがまた、俺を苛つかせる。

「『逃げ』を繰り返すなよ。多少無茶に見えても、頑張れそうならやってみろ。何一つ頑張れなきゃ、結局辛いのはお前だよ、陣内」


 あんたに言われるまでもない。あんたらからはそう見えていないだけで、俺は本来、頑張れる奴なんだから。

 遠くに、黒焦げになった街が見える。青空の下に広がる過去の爪痕。内戦によって破壊された、かつて関東で最も賑わいを見せた街、新宿。

 そして、あの焼野原の先には、新しい世界が広がっている。


 俺は行く。いずれ、そう遠くないうちにそこに行く。この仕事で金を溜めて、新しい街でやり直す。そこで初めて、俺は俺の人生を生きる事になるだろう。もう誰にも、俺の事を馬鹿にさせたりなんかしない。俺の力を、世の中に見せつけてやる。

 ――俺は、飛ぶんだ。


 物凄い力で灰の中へ引きずり込まれた拍子に、どこかでひどく頭を打った気がする。だが、そんな事に頓着する暇もなく、灰が口と鼻とに流れ込み息が出来なくなる。灰の流れの中へ押し込まれ、意識が遠のいていく。体が、ジェットコースターに乗ったように勢いに乗ったまま滑って行き、苦しみが頂点に達する瞬間、俺は流れから解放された。

 同時に落ちた。水の中へ。

「……がはッ!!」


 慌てて顔を上げた拍子に口の中の灰を吐き出す。目が開く。岸が見えて、俺はそこへ向かって必死に泳いだ。何かを考える余裕はなく、ただ無我夢中に。水には流れがあって、気を抜くと流されそうだ。鼻に詰まった灰と水とがせり返って苦しい。

力を振り絞って岸に上がった途端、水を吐き出す。息が苦しい。まだ灰が詰まってやがる。たまらず背後の水を掬い、鼻を洗う。薬臭い。絶対に体には良くないだろうが、このままではいられない。


 灰を洗い流すと、ようやく息が楽になってきた。寒気がする。全身ずぶ濡れだ。

「勘弁してくれよ……」

 何度落ちりゃいいんだよ。もう。

 辺りを見回す。薄暗く大きな部屋の中心で、つい今俺が落ちたプールの水が青く光っている。底にスクリューらしい物があり、緩やかではあるが水とその中に混じった灰が回流している。対岸の壁際には、泡立って音を立てるタンクが六つあり、その中には黒い粉のような物が見える。ここが探偵の言っていた洗浄槽だろう。


 ここから出口まで、どれくらいあるのかは見当もつかない。そもそもここから出られるのかさえも。

 ああ。

 ああ、くそ。

 もう、いっその事早く終わりに――。

「――っ、びゃっくしょん!」


 くしゃみが出て、悪寒がする。

 ……くそったれ。

 いっその事ぶっ倒れてしまいたいくらいに体は疲弊しているが、寒いのには耐えられない。とりあえずは着替えがほしいところだが、そう都合よく手に入るだろうか。


 左手には何もない。行き止まりだ。振り返って反対側を見ると、出入り口らしい自動ドアが見えた。進むならあそこしかないらしい。だが俺は、さらに何かないか探す事にした。何度も殺されそうになったっていうのに、このまま丸腰でいるのは考えられない。

と、行き止まりの壁に、用具入れらしいロッカーと工具箱を見つけた。滑らないように気を付けながら、俺はそれらの傍へと近付く。


 ロッカーの中にあったのはモップ、バケツ、洗剤らしい物と、ビニールに入った未使用の真っ白な雑巾だ。ひとまずそれで足や顔を拭く。

 工具箱を開ける。こちらも中身は少ない。数種の特殊ネジ用ドライバー、バール。主に武器として使えそうなのはそれくらいだ。俺はドライバーを全てポケットに入れ、バールを手に取る。銃や、俺を屋上から落とした白虎のガキみたいなのに太刀打ち出来るとは思わないが、何もないよりマシだ。


 タンクの中で泡立つ音が聞こえる。意を決し、俺は足を出入り口のほうへと向ける。

 体が冷える。早く着替えてしまいたい。俺は無理矢理にでも足を進める。早く、早く。

 ドアが開く。

 足を踏み入れたのは、それなりに大きな空間だった。工場の生産ラインのような。うるさいくらいの駆動音が聞こえてきた。大型の機械がスペースのほとんどを埋め尽くしているため、通路は異様に狭い。右手側にあるベルトコンベヤーが濡れた灰の塊を運んでいく。そうして灰は、がたがたと震える大きなコンテナの中へと入る。灰は長くコンテナの中を進み、やがて震えとともに煉瓦のように整ったブロックとなって吐き出される。


 俺は流れていくブロックに触ってみる。薄い膜のようなものでコーティングされブロックとなった灰。固いようで思ったより柔らかい。ある程度力を掛ければ潰れそうだ。

 辺りを見回してみるが、役に立ちそうなものは見当たらない。服も、館内図もない。当たり前だ。気分が悪い。冷えたせいで、次第に体調が悪くなってきている気がする。

 ふと駆動音に混じって、小さな音がした。どこかで聞いたような音だ。たぶん、つい今。


 ――ドアの開閉音だ。

 音がしたほうを見る。マシンガンを構えた男が二人、遠くに見えた。どちらも揃いの黒服を着ている。一人は俺くらい、もう一人は二メートルくらいの大男だ。俺は慌ててしゃがみ、コンテナの影に隠れる。たっぷりと水分を吸った服が重たい。

 黒服の男達がゆっくりと通路を進んでくる。俺に気付いた様子はないが、姿を見せれば終わりだ。二挺の銃から発射された銃弾が俺の体をズタボロにするだろう。


 男達は何も喋らない。この空間の通路は、俺から見れば逆Lの形で、奴等は今横棒の中を歩いている。順調に歩けば縦棒の終点間際にいる俺に出くわす。動かなければ。

 幸い、コンテナ型機械へと続くコンベヤーの下は、這えば何とか通れそうなだけのスペースがある。音を立てないように左手のバールを置き、慎重に腹這いになる。ポケットに仕舞ったドライバーはぎりぎり床に触れていない。

 さながら匍匐前進のように、俺はコンベヤーの下へと潜る。腕の力だけで、何とか前に進む。


「おい」

 唐突な声に、俺はその場で身を竦ませる。体はコンベヤーの下に入り切っているから、向こうからは見えていないはずだが。

「何か聞こえなかった?」

「機械の音じゃないのか」

 片方は勘が鋭いらしいが、片方はそうでもないらしい。


「どうだろうな。お前はそのまま進め。俺は機械のほうを見る」

「わかった」

 機械のほう見る、だって? 確かに機械やコンベヤーの間にも隙間はあるから、L字通路以外にも道はあるようだ。

 やばい。

 バールは手を伸ばせばすぐ届く位置にある。同様に、男達の様子も見えた。黒服の一人、巨漢のほうは足早に入り組んだ機械へとやってくる。コンベヤーを跨ぎ、辺りを見回している。


 下手な移動は危険だ。ポケットからドライバーを取り出し、影から顔を出すか出さないかまで体勢を変え、俺は息を潜める。黒服の片方、L字を進んでいる奴の足音が徐々に近づいてくる。心臓が高鳴っている。緊張でどうにかなりそうだ。

「うん?」

 L字を進んでいた黒服が小さく唸り、小走りにすぐ傍までやってきて止まった。足がすぐそこにある。まだ俺に気付いてはいない。だが、立ち止まって何かを考えている。


「……濡れている?」

 微かな呟き。

「どうした。何かあったか」

 黒服の雰囲気が一変した。

「近くにいるぞ!」


 瞬間、鳶の手で俺は相手の足を掴み、爪を食い込ませながら力尽くに引っ張った。

 男が悲鳴を上げた。無理矢理狭い隙間に入ったせいで、その足が奇妙に曲がる。バランスを崩しざま男の銃が乱射される。が、そんな事に構ってはいられない。相手の足の甲にドライバーを突き刺し、俺は隙間から転がり出ながらバールを掴む。コンベヤー越しに目の前の黒服を殴りつけた時、けたたましい銃声が後ろから響いた。

 思わずコンベヤーを転がった俺の上をいくつもの銃弾が通過していく。ぶん殴った黒服が呻きながら身を起こす。銃弾は飛んでこない。俺は銃に詳しくないがもう片方が撃つのをやめた理由はわかる。目の前のこいつに当たるからだ。


「てめえ、ぶっ殺してやる!」

「おいどけ、馬鹿野郎!」

 二人の男が同時に叫んだ。俺は再びバールを振るった。目の前の男の手からマシンガンを叩き落とし、返すバールで男の頭部を狙う!

「ぐほッ!」


 腹部への深い衝撃。声を上げたのは俺のほうだ。腹を蹴り飛ばされ、体勢を崩した俺はコンベヤーに躓いて仰向けに倒れる。男の拳が頬を殴り飛ばした。今度は声を上げる暇もない。すかさず反対側が殴られ、頭がくらくらとしてくる。くそ、駄目だ。今隙を見せたら殺される。

「死ね」

 黒服の手に光る物。ナイフだ。素早くその手が動く。くそ、くそ――!


「このッ!」

 先に動いたのは足だった。無造作に前へと蹴り出した足が刹那男の動きを妨害した。男の舌打ち。跳ね起きざま振るった鳶の爪が男の頬を掠め、すかさずバールを横薙ぎする。俺と男の間に距離が生まれた。マシンガンは黒服の後方、少し遠くに転がっている。

 喧嘩は慣れちゃいない。だが、今はやらなきゃ殺される。俺は左手のバールを構えた。


「そうかい。あくまでやる気だってんだな」

 黒服が笑った。ナイフを構え直し、大声を出す。

「おい、こいつを撃つなよ! 俺が殺してやる!」すかさず後ろから怒鳴り声が返ってきた。

「馬鹿か! 時間がねえんだぞ!?」

 ……時間? 一体、何の?


「心配するなよ。すぐ片付けてやるさ」

 黒服が凶悪に笑った。電灯に照らされた両刃ナイフの切っ先が同時に襲い掛かってきた。咄嗟に身を動かすが、その瞬間頬に一抹の痛みが走り、次いで血が噴き出す。ナイフはまだ動いている。俺は再び奴の手を狙った。ナイフを撥ね飛ばしてやる!

 だが、振り抜いたはずのバールは空を切っていた。


「はん!」

黒服はくるりと身を翻し、連続してナイフを閃かせる。体は狙ってこない。握りを揺るがすかのように、ひたすらバールだけを狙ってくる。

「くっ……!」

「ほら、指が取れちゃうぜえトリちゃんよお!」


 切りつけが徐々に指へと迫ってきた。バールは、動かせない。絡みつくように斬撃を繰り返すナイフによって動きを制限されている。急激にナイフが軌道を変え、目の前にまで迫る。思わず身を固めれば、その瞬間にナイフはまた左手を狙ってくる。

 遊ばれている。駄目だ。何とかしないと!

 連撃を繰り返していたナイフが、一瞬離れた。また狙いを変える気だ。バールを大きく横に払い、俺は入り口のほうへ跳ぶ。とにかく近付かなきゃいい。こっちのバールのほうが間合いは広いんだ。切りつけられないように距離を取ればいい。振り返ってバールを構え――


 音がした。背中を何かが貫いた。肉の中に何かが侵入してきたのがわかった。

「がぁっ!?」

 思わず膝をつく。刺されたのは腰の近くだ。頭の中が痛みで埋め尽くされていく。

「へへ。痛いか、トリ野郎」

 黒服が近づいてくる。手からはナイフが消えていた。いや、正確に言えば両刃の刀身だけが。


「スペツナズナイフって聞いた事あるだろ。串焼きの肉にされた気分はどうだ? ええ、トリ野郎」

 罵倒に反応する余裕はない。動こうとするたびに刃が肉を抉る。痛え。尋常じゃなく痛え。

「けっ。お喋りも出来ねえのかよ」

 チンピラの足が左手ごとバールを蹴り飛ばす。呻く暇もなく、右肩を踏みつけられる。壁に跳ね返ったバールを黒服は拾った。


「ライムント博士にゃ悪いが、お上の御命でお前はぶっ殺せとの事だ。確実に死ぬまでやるからな、まあ、腹くくってくれや」

 下品な笑い声。痛みと恐怖が俺の心を侵食する。ふざけんな。勝手に巻き込んでおいて、勝手に殺すって言うのか――

 言い返す暇もない。脳天に重い一撃が下った。声が漏れる。潰れた喉から。

「まあ、一回じゃ死にゃあしないだろ。念入りにやらないとな」

 可笑しそうにそう言いながら、黒服がバールを振り下ろす。頭蓋骨が割れるかのような痛み。首筋にぬめりを感じる。きっと、血だ。


「まぁだ生きてやがんな? そら、何発耐えられる!」

 三発目。視界が揺れる。頭が真っ白になる。体の力が徐々に抜けていく。

 もう、無理だ。やっぱり、ここで死ぬのが――

「そろそろ終わりかあ? ええおい!」

 肌に何かが触れた。ポケットに入れたドライバーだ。意識が朦朧とする。俺は死ぬ。ここで。もういい。もういいんだ。これでやっと楽になれる。黒服がバールを振り下ろしただろう――俺は荒野を思い出す。行く果ての見えぬ荒野。捻じくれた樹に止まる猛禽。俺を見つめる二つの目玉。飲み込まれていく。俺が鳥か、鳥が俺か――


 ――――ばちり。

「――ぐうァッ!?」

 体の上から重さが消える。ばたばたと音がした。頭はまだくらくらする。ナイフも刺さったままだ。だが、痛みは遠ざかっている。俺はゆっくりと体を起こし、立ち上がる。

「今のは、モンストロの……!」


 黒服が驚いたように言う。心なしか、足が動き辛そうだ。電流。今しがた俺の体を走った電流に触れたからか。だが、別にこっちも余裕綽々ってわけじゃない。そっと背に刺さった刃を引き抜く。またばちばちという音が聞こえる。

「ストーンが起動したのか。くそ。てめえもバケモンになる気か」

「……バケモン、だあ?」

 左手の指で刀身を摘む。体が重い。息が整えられない。


「ち、そうはさせるか!」

 黒服の手からナイフの柄が飛んだ。バレバレの囮だ。動かない体を動かして俺はそいつを躱す。どうせ本命はバールでの一撃だ。ぶん、と風を切る音。俺は攻撃に備えそして……即座に前へ転がった。

 がん、と投擲されたバールが壁に激突する。足をもつらせながら黒服がマシンガンのほうへと倒れ込む。その手がグリップに届いた。やばい。咄嗟に俺は後方へ転がるように飛び込んだ。


「死ねやあ!」

 叫び声を上げる黒服のマシンガンから銃弾が放たれる。閉まりつつある洗浄槽室の自動ドアが甲高い音を立てた。すかさずドアから離れ、俺は脇へと隠れる。マシンガンの音は止まない。

 どうする、どうする。次はどうする!

 ドライバー、ナイフの刀身。持っているのはそれくらいか。あとは――……


 マシンガンの音が止んだ。黒服が向こうで何か怒鳴っている。仲間と話しているのか。くそ、時間がない!

 俺は策を実行に移す。一か八か、だ。

 ドアが開いた。その瞬間、俺は手に持った刀身をドアの向こうへと投擲する。ドアの前には誰もいない。途端、笑い声とともに銃撃音が響き渡る。

「はっはっははは! 馬鹿かお前、そんなんに引っ掛かるアホがどこに――」


 ドアから見えたのは銃身だけだ。俺は手に持ったそれを銃の上方へと向けて思いっきり叩き付けた!

 ぐお、とくぐもった声がしてばたりと銃を持ったまま黒服が倒れた。俺はすぐさま持っていた武器ごと腕を引っ込める。再び、ドアが閉まっていく。

 ――俺と黒服は壁を挟んでお互い背中合わせの格好で、壁に張り付いていたのだ。相手の位置取りを当てるのは、考えてみればそう難しくはない。俺の待ち伏せを回避するためにはまずドアの正面から離れなければならないし、そうすると位置としてはドアのすぐ近く、左右どちらかの壁に張り付く事になる。さらに言えば、黒服のいた空間から見て左側はコンベヤーのあるせいで身を隠し辛い。となれば右手側、つまり俺と同じ側に来るだろう。


 俺の攻撃を先に躱せば、安心したこの男は必ず攻撃を仕掛けてくる。身を隠したまま銃を撃ってきたのも俺にとっては好都合だった。おかげで位置がほとんど完璧にわかり、俺は攻撃に成功した。十本近くあったドライバーを上着で包んで振り回せるようにした、いわばフレイルだ。濡れているから重みもある。

さて、まず一人は片付けた。あとはもう一人だが、こいつはどうすればいいか。

 そんな俺の逡巡は轟音とともに破られた。洗浄槽のドアが吹っ飛び、太い蹴り足が伸びる。回避を考えた時にはもう遅い。俺は首根っこを掴まれ、無造作に部屋の隅に投げつけられる。


 床に叩き付けられ、全身をひどく打った。とにかく立たなきゃ、今度こそ殺され――――

 かちりという音。連続する爆音。

 何十発かという銃弾が俺の体を貫いていった。衝撃で体がぐらぐらと揺れる。痛い。痛いなんてもんじゃない。体のそこら中が切り裂かれ、破裂していく。

 溢れ出た自分の血の海へ、俺は倒れ込む。……何故意識があるのだろう。神経が直接ぶち切られたかのような痛みだったのに。何故俺は、まだ生きている……?


 脳内にあるビジョンが見えた。暗闇の中を走る、一筋の稲妻。緑電。

 ――……ばちり。

「あ、あああ、あァアアああ…………!!」

 体中の血管の中を、緑の電流が駆け巡っていく。次々再生していく肉、骨、皮膚。脳内の処理が追いつかない。頭の中を様々な情景が駆け巡る。記憶は乱雑に再生され、イメージは混濁する。荒野の鳥が俺を見つめる。俺は、俺は――――……


 全身が瞬く間に、まさしく瞬時に元通りになる。知らず、絶叫が迸っていた。俺の体は、もはや俺の意志などおかまいなしに傷を癒し、再び俺を立ち上がらせようとする。

「あァああああッ!!」

 一分とかかっていない。大量の汗をかきながら、再び俺は明確な意識を呼び戻された。

「はあ、はあ……」


 今しがた銃弾によって『殺された』はずの体が完全に治癒した事を俺は知った。だが、それだけだ。さっきよりも疲労の増した体はたちまち床へと突っ伏す。息は乱れたままだ。

「ほう。すげえなお前。治癒速度だけならゴクマ並みか」

 巨漢の黒服は一人ごちた。俺にはもう、反応する体力さえ残されていない。巨漢はマシンガンに弾を装填し、再び俺に銃口を向ける。


「だがまあ、これで終わりだ。さすがに頭撃たれて平気ではいられねえだろ。今度は一瞬であの世へ行け」

 ぴたりと頭頂部に銃口が当たる。俺はそれを振り払う事さえ出来ない。もう、もう、いい加減限界だ。これ以上は、俺には……。

 がん、がん、がん、と。

 やけにうるさい音が聞こえたのはその時だった。


「……何だ?」

 黒服が訝しむように言った。銃口が僅かに頭を離れる。が、まだ安全圏というわけじゃない。俺はそれでも音がするほうへ目を向けた。黒服の注意もまたそちらに逸れているようだ。

 音は、奥の壁からだった。ロッカーの横。まるで壁の中から聞こえてくるような。いや、違う。まさに壁の中から、誰かが音を鳴らしている。


 がん、がん、がん! 音がするたびに壁の一面が歪んでいく。間違いなく、誰かがいる。がん、がん、がん!

 直後、凹んだ壁の一部が、甲高い音を立てて吹っ飛んだ。黒服の銃口は今や完全に壁へと向けられていた。

 暗闇のような壁の中から最初に見えたのは足だった。次いで肩、頭。長身だ。焼け焦げ、そこら中が傷だらけの暗茶のコート。口に銜えた火のついていない煙草。するりと闇の中から抜け出した、蠍の尾。

「お前は……」


 黒服の口からそんな言葉が漏れた。壁の中から現れた男は、それには構わずに言った。

「――なあ、あんた」

 低い、平坦な調子の声。

「煙草の火、持ってないか?」

「探偵尾賀叉反ィいい――――ッ!!」


 咄嗟に黒服は引き金を引いた。爆音とともに吐き出される数多の銃弾。時同じくして探偵は駆けた。巧みに銃弾を躱しながら走り、壁を蹴って中空に跳ぶ。たちどころに黒服へと接近。その拳を男の顔面へと叩き込んだ。

くぐもった声とともに、探偵より重そうに見える巨漢の肉体は、衝撃のまま吹っ飛び、床を転がる。

「大丈夫か、トビ」

 探偵が俺を見た。やはり、ひどい格好だった。俺も人の事は言えない。半身は服を着ていないし、下も穴だらけ。おまけに周りは血の海だ。


「一体何があったんだ」

 言いながら叉反は自分のコートを放って寄越した。傷だらけ、灰にも汚れていたが背に腹は代えられない。俺は質問には答えずに軽く頷いてコートを纏う。その時、呻き声が聞こえて巨漢の影が身を起こした。

「ゴクマのガキども……何をやっていやがった」

 マシンガンを捨て、黒服は空手家のように構える。叉反もそれに応じた。左拳を前に、右手を開き気味に顎のあたりまで上げる。


 睨み合うのも一瞬。

 交錯した二人の影が数撃の攻防を見せた。全てを目で追う事は出来ない。はっきり俺に見えたのは一撃。間隙を縫って繰り出された探偵の蹴り足が黒服の頭部へと命中する。今度こそ、ダウンだ。黒服の巨体が再び床へ倒れ込む。

「……やったのか」

「伸びているだけだ。少しすれば目を覚ますだろう」


 倒れた男の首筋に手を当て、叉反は煙草をケースに仕舞う。

 ようやく少し体力が戻ってきていた。とはいえ、正直まだ動くのは辛い。

「無事だったとはな。あの状況で大したものだ」

「どこがだよ。見ろ、この体たらくを」

 感心したような物言いに苛々して、俺は憎まれ口を返す。


「そうだな。確かにそのままじゃ動きづらいだろう」

 叉反は入り口の前で倒れているもう一人の黒服に気が付いた。おもむろにそいつの体を起こし、服を脱がせ始める。

「お、おい」

「着替えろ。サイズはたぶん合う」

 そう言いながら、叉反は黒服のジャケットや、シャツ、靴を放ってくる。まあ、確かにそうだ。いつまでも裸コートってわけにはいかない。俺は黒服のシャツに袖を通す。


 人間用のシャツだ。フュージョナーではない普通の人間用の。俺は慎重に、爪でシャツを破かないように袖を通る。元々、この右手は大きい。袖口は狭いから腕を通すだけも大変だ。

「下着も必要か?」

「いらん!」

 そう言いながら、何とか俺は身支度を整える。これで何とかさっきよりは動きやすくなった。


 叉反は落ちているマシンガンを点検していた。どちらも床に置いたところを見るに残弾はないようだった。それから、叉反は倒れている巨漢に近付いた。俺はくるんでいたドライバーをポケットに仕舞う。

「銃は撃てるか?」

 不意に叉反が言った。

「馬鹿言うな。銃なんて見た事もなかったよ」


 とにかくここから出られりゃいいんだ。銃が撃てるかどうかなんて、どうだっていい。

 叉反の手には黒い物体が握られていた。拳銃だ。この国では免許があれば拳銃の所持、携帯を認められている。無論使用する事も。黒服どもが免許を取るために試験を受けたかどうかは定かではないが。

「左利きか。なら、やめておいたほうがいいだろうな」

「右利きだろうがいらねえよ、そんなもん。何だってんだ」


「こんなところにまでマシンガンを持った連中がうろついているからな。銃があったほうが安心だと思っただけだ」

 ひとしきり手の中の拳銃を点検して、叉反はあらためて俺のほうを向く。

「で、何があった?」

「……」

 わからない。答えようがない。

 確実に、死んだと思った。自分が流した血の量を見ればわかる。だが俺は生きている。


 ひとまず俺はありのままを話した。致命傷だったはずの傷が瞬く間に治癒した事。俺の体を駆け巡った、あの緑の電流の事。

「治癒力の異常亢進。それに緑電……モンストロか」

 一人呟きながら、探偵は何かを考えていた。

「とんだ実験に巻き込まれたものだな。あんたの体に埋め込まれたモンストロの結晶――モンストロストーンか。そいつは今や完全に動作しているようだ。この出血量でさえ回復させたのを見ると、そうそう死ぬ事さえないのかもしれない。ストーンが動き続ける限りは」


 淡々と、とんでもない事を探偵は言う。

「死なないって?」

「過信は出来ないし、してはいけない。が、とにかく俺達の体に埋め込まれたこの妙な物は、俺達の機能を強化し、生かそうとする。生きてここを出る確率が少しは上がったな」

「俺にはとてもそんな風には思えねえよ。死なないなんて化け物じゃねえか。おまけに連中は勝手に埋め込んだこのストーンとやらのせいで俺を殺そうとしているんだろ? 滅茶苦茶だ。支離滅裂だ。一体何がしてえんだよ」


「大きく分けて、二つの思惑が動いている。そう考えていいだろう。〝俺達を使って実験をしたかった派閥〟と、〝今回の実験そのものを望んでいなかった派閥〟。実験を望まなかった派閥は、とにかく結社の情報が世に出るのを嫌った。


レベッカを追っていたのも、一つにはそういう理由だろう。一方でレベッカは、実験を望む側にも追われていた。結局、レベッカは捕まり実験は行われた。そのまま実験は続けられるはずだったが、こうして脱走を試みたおかげで混乱が生じた。兵隊である黒服達が俺達を殺そうとしているところを見ると、おそらく今、指揮を執っているのは実験を望まない秘匿派閥だ。そうだとすれば容赦はない。全力で消しにくる。たとえば……この施設ごと俺達を葬る、なんてのも考えられる」


「おいおい」

「俺ならそうする。建物ごと破壊すれば証拠も消せる。ゴミ処理場を丸ごと偽装して使うような連中だ。事後に余所からの介入を防ぐ手立てもあるだろう。黒服連中をうろつかせているのは俺達を確実に殺すためかもしれないが、関わった人間の口を封じるためでもある。ぎりぎりまで施設内に留まらせて、一気に消すために」

 俺は思わずため息をついた。俺の話や黒服達の動きから、よくもまあ、そこまで考えられるものだ。


 だが、そう言えば、さっき黒服は気になる事を言っていた。時間がない、と。俺はその事を探偵に伝える。

「当たりだな。奴等は焦っている」

 俺が差し出したコートを纏い、叉反はドアのほうを向いた。

「急ごう。仁とレベッカを連れて脱出しなければ」

「ああ」

 殺すのも殺されるのも御免だ。死んでしまうのも――あんな痛い思いをするくらいなら――願い下げだ。

 しばらくは一緒に行動するしかない。この探偵と。

「行こう。とっとと出るんだ。こんなところから」


 バールを片手に、俺は探偵に続いて通路を進んだ。人影はない。体調も良くなってきている。靴があるおかげで走りやすい。

 モンストロストーン。俺の体に埋め込まれたこの異物は、俺の体を完璧に調整してくれるらしい。さっきまでの疲労感は嘘みたいに消えている。気分も――実に奇妙だが――少し上向きな気さえする。とにかく動かなければ、というような気分が渦巻いているのだ。たぶん、生き残るために。


「探偵、まずはどうするんだ?」

「二人を探したいところだが手がかりが少ない。レベッカとは地下一階、仁とは屋上で別れた。そうだったな?」

「ああ」

「ではまず地下一階に向かおう。ここからそう遠くはないはずだ」

 建物の配置的に、俺達の今いるこの階層も地下だろうが、ここからさっきの地下一階までどう行くかは見当もつかない。順当に行けば階段くらいはありそうだが……。


 突然、建物が大きく揺れた。足元のバランスが崩れ、俺は転びそうになる。

「爆発か!?」

「かもな」

 叉反がそう答えた瞬間、目の前が暗闇に覆われる。一瞬の事だが、電灯は明滅を繰り返している。何かが聞こえた気がした。人の叫び声のような。

「聞こえたか? 今の」


 叉反は頷いた。

「少し遠いな。行ってみよう」

 言うが早いか、探偵は走り出した。あっという間だ。ったく、こっちの事も少しは考えてくれよ! 

 大急ぎで俺は探偵の後を追う。幸い通路はほぼ一本道だ。俺と叉反の靴音だけが響いている。

 それなりに走ったところで、探偵が不意に足を止めた。


「待て」

 俺を制止し、探偵は一人で進む。前に何かある。俺はそっと、探偵の歩く先を覗き見た。

 ――血だ。

 さっきの俺のように大量の血がぶちまけられた床の上に、人影が転がっていた。

 いや、俺はそいつに見覚えがあった。黒犬の耳。最初に俺達をコンビニで襲ってきた二人組の片割れだ。


「死んでるのか……?」

 叉反は答えなかった。慎重に近づき、そっと手を伸ばす。突然、叉反の薄汚れたコートの袖が、黒い手に掴まれた。獣のような体毛が血で濡れている。

「触るな……」

 絞り出すような声で、はっきりと男はそう言った。


「誰にやられた?」

「ガキだ……。小さな、ガキ。たぶんフュージョナーだ。腕に鋏を持っている……」

 男の体から、弱々しい緑の電流が弾けている。

「あの女。連れて行かれたぞ……」

「この先か」


 男は頷く。

「譲ってやるよ。行きやがれ。俺は少し休ませてもらうぜ。傷の治りが、遅え……」

「……ありがとう」

「うるせえ。いずれお前も殺してやる」

 最後のほうはほとんど小声だった。叉反は立ち上がり言った。


「この先だ。行こう」

 俺は頷き、叉反に続く。男の傍を通る時、情けないが少しばかり怖気が走る。

 血まみれで倒れながら、男は俺をじろりと見た。何を言うわけでもない。俺を見ていたわけではなく、たまたま目が合ったのだろう。何を言われるでもなく、俺は男の前を通り過ぎる。

 その目に、奇妙なぎらつきがあったのが心に引っ掛かった。満身創痍のはずなのに、怖さを感じるような執念めいた光。


 だが、それ以上を読み解く暇はない。俺は叉反に続き走り出す。緩やかなカーブを描く通路に入ると、もう男の姿は見えない。

 通路の終わりが見えてきた。エレベーターの表記が見えたのだ。と、同時に視界へ人影が映った。どういうわけだが、力づくでこじ開けられたような、壊れたエレベーター扉の前に立っている。ざっとだが判別出来る。小さい、灰色のマントを纏った子供。そして……赤い髪の女。


「レベッカ!」

 俺は思わず口に出していた。視界の先にいた二人が同時にこちらを振り返る。俺のせいか。それとも二人して立てていたこの足音のせいか。いや、もうそんな事を言っている場合じゃないようだ。表情を崩さない子供。驚いたようなレベッカの顔。

 銃を構えた叉反が、間髪入れず言った。


「動くな。彼女を放してもらおうか」

 叉反の銃口は灰マントの子供に向けられていた。あいつが、さっきの男に深手を負わせた子供なのか。

 子供はしかし、叉反の言葉にすぐには答えなかった。何かを言おうとしたレベッカを吸倍動作で制する。鋏――昆虫の顎のようなものが付いた右手がレベッカに向けられる。そのままマントの中からでかいトランシーバーを取り出し、子供は誰かにへ向けて喋り出す。


「……ああ、リッキィ。探偵が来た。こっちには降りず、上でボクの到着を待て」

 そうしてスイッチを切ると、トランシーバーをマントの中に仕舞い、言った。

「探偵尾賀叉反、さっきは妹達が世話になったみたいだね。ボクはトウカツだ」

 俺には目もくれない。子供――トウカツは、ただ探偵にだけ話しかけている。


「この女を取り戻しにきたのかい? やめておきなよ。ボクはお前が撃つ前にこの女の首を掻き切る事が出来るし、その後でお前の命を奪う事も出来る。妹や弟を退けたからといって、ボクまでどうにか出来ると思うのはお門違いだよ」

 身動ぎしたレベッカにさらに切っ先を突き付けながら、トウカツは続ける。

「それに、知らないかもしれないけど、ここはもうすぐ爆破されるよ。焼却炉の炎を使って丸ごと焼き払われる。早く逃げたほうがいいんじゃない?」


 叉反の予想は当たっていたようだ。やはり、もう時間はない。だが、叉反は平然として言い返した。

「能書きはいい。俺の言う通りにするかどうかだ」

「随分と威勢がいいね。だいたい子供に銃を向けて、恥ずかしくないの?」

「大の大人一人を斬り伏せるような奴じゃなければ、俺だってこうはしない。さあ、彼女を放せ。撃たれて無事で済むと思うか」


 そう言った直後、一瞬叉反の目が俺を見た気がした。やはり、目が合った。メッセージだ。何を言いたいのかは、この状況から判断するしかない。

 俺は左手から右手へバールを持ち替える。

「最後の警告だ。撃つな。この女を殺したくないのなら」

「同じく警告しよう。手を引け。怪我をしたくないならな」


 俺はタイミングを計る。出来る事は一つだ。探偵は俺にそれをやれと言う。だが、やるしかない。出来なきゃ、目の前で人が死ぬ。

 叉反とトウカツが睨み合う。レベッカが緊張した面持ちで二人を見る。俺は、事が動くその一瞬を逃さない。

 ――再び、建物が揺れた。

 その瞬間、俺は動いた。雄叫びを上げながら、一直線にレベッカへと向かっていく。トウカツの目が僅かに俺を見た刹那、銃声が轟いた。灰マントが翻り、レベッカの傍を離れる。俺は彼女の手を掴んだ。


「逃げろ、トビ! 彼女を守れ!!」

 叉反が叫んだ。返事もしないで、俺は走り出す。背後から銃声が聞こえてくる。死にもの狂いで足を動かす。

「加工区画まで行って! 非常口がある!」

 同じく走りながらレベッカが叫ぶ。加工区画。さっきのコンベヤーがあった空間か。くそ、あんなところに非常口があったなんて!


 油断すれば今にもトウカツが追いついてきそうだ。そんな思いが、俺の心を逸らせる。あっという間に、俺は犬の男がいた通路の辺りまで戻ってきた。ついさっき目にした血痕が再び視界に入る。が――

「いない?」

 男の姿はそこになかった。

「トビ、何してるの! 早く!」


 一瞬、足を止めたレベッカが俺を追い越していく。まずい。今は逃げないと。血痕から目を離し、前を見る。また建物が揺れた。そうして俺は見た。天井から欠片のような物が落ちてくるのを。白い天井に亀裂が入っていくのを。その下をレベッカが走り抜けようとしているのを。

「止まれ!!」

 叫ぶと同時に俺は駆ける。レベッカが振り返ったその瞬間、天井がパズルのピースのように抜け落ちる!


 バールを捨て飛び込むように彼女の腕を掴み――ずっと手に持っていたケースがその手から離れる――引っ張りながら覆いかぶさる。目を閉じた瞬間、轟音が響き渡る。天井が落ちた。何が落下したのか、とてつもない衝撃波が建物中に響き渡った。俺は身を屈し、必死にレベッカを自分の影に隠す。通路は塞がれただろう。降り注ぐ無数の破片を背中に感じる。わかるのは生きている事だけ。自分が潰れていないという事実だけ。


 ――ゥウウォグォオオオオ…………


 奇妙な音。何かの唸り声のような。耳をつんざく大きな声。地鳴りのような振動。まるで歩いてくるかのような。

 歩いてくる……?

「トビ」

 レベッカの声に俺はようやく目を開ける。すぐ近くに、彼女の青い目があった。慌てて俺は身を起こし、辺りを見る。灰褐色の土埃が舞い、どうなったのかすぐにわからない。目の前には瓦礫が積み重なっていて、すぐに動くのは難しそうだ。


「大丈夫?」

「あ、ああ。……俺は平気だ」

 あんたは、と言おうとした。だが、地響きがそれを遮った。


 ――……ズシン、ズシン。


 靄のような埃の中を何かが歩いていた。巨大な、とてつもなく巨大な影。何だ。映画か何かで見るような光景が、実際に今、俺の前に現れている。

 陽光が差し込んできた。地上階からここまで一気にぶち抜かれたのだ。光が、土埃の幕を照らす。影が、俄かに動きを止める。その体から聞き覚えのある放電音と、緑の光が発せられる。


 グァアアアアアアアアアアッ!!

 咆哮とともに迸った緑の稲妻が、瞬く間に土埃を払った。

「な……っ」

 俺は見た。長い、まるで橋のように長く、大きなその体を。土気色の鱗が全身にびっしりと生え揃い、大きく、牙を覗かせる口は悪魔のように禍々しい。木の幹のような四肢、それ自体が大蛇のようにしなる尾。

 鰐。それも、巨大な鰐だ。緑電を体中に纏わせた、竜のような鰐。


「デイノスクス……」

 レベッカが呟いた。俺はそっと瓦礫の影に身を隠す。まだ、奴に見つかってはいない。

「何だよ、あれは! ここにはあんな化け物までいたっていうのか?」

「――いえ、あれは超獣態。モンストロの超過摂取があそこまでの回帰を引き起こしたんだと思う。でも、だからってあんな……」


 レベッカは納得出来ないといった素振りで一人何かを呟いている。今はどうでもいい。また太陽の下に出られたはいいが、あんなもんどうやって切り抜けろって言うんだ。

 遠方で爆発音がした。巨大鰐デイノスクスの向こうに炎の柱が見えた。あの位置。焼却炉だ。ついで、俺達が今いる建物のどこかからも爆音が轟く。爆弾か。どうやらついに向こうの作戦が実行に移されたようだ。施設の放棄。そして徹底的破壊。


 デイノスクスが爆音に反応して、頭を左右に振る。俺とレベッカは瓦礫の影でただひたすらに身を潜める。攻撃。逃走。いずれも選べはしない。ただひたすら、脅威がこちらに牙を剥かないよう祈るばかり。

 ふと、上空を影がよぎった。軽やかな音を立てて、人影が目の前に着地する。

 ――息を呑んだ。

「あれ。これはこれは」


 猫の手のような手袋を振りかざし、そいつは言った。

「失敗野郎と裏切り者じゃないか。こんなところで仲良くどうしたの?」

「白王……ッ!」

 レベッカが言いざま、手に持った小さな銃を構える。褐色の肌の少年は、嘲笑うように白虎の尾を揺らした。

「どうやら、面白い時に来たみたいだね」

 屋上から俺を落とした時のような、冷酷な笑み。背後からは、鰐の鳴らす足音が響く。

 最悪の状況だった。


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