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 ――……何時間も意識を失っていた気がする。だが、目を覚ました俺が見たのは、さっきまでと変わらない光景だった。瓦礫の山。流した血の痕。いなくなったガキ。いなくなった女。まだ瓦礫の下敷きになってないって事は、そう時間は経っていまい。

 失敗した。

 度重なる怪我と疲労とで重くなった体で、そんな事を考えた。


 いや、手は尽くしたんだ。あんな化け物みたいな野郎相手に俺はうまく立ち回った。あのままあいつが逃げ出してりゃ、少なくとも攫われる事だけはなかった。何で戻ってきやがったんだ。俺は、逃げろって言ったのに。だいたい俺は……

「俺は巻き込まれたんだ……」

 元々、俺には関係ない話だ。


 そっと、身を起こす。痛むところはない。案の定、俺の中のモンストロとやらが治癒したようだ。体力は尽きかけているが、歩くくらいは出来る。

 ゆっくりと起き上がり、俺は一歩を踏み出す。

 行こう。今ならまだ、ぎりぎり助かるかもしれない。出口はわからないが、もしかしたらどこかが壊れていて外へ出られるかも。


 それに、死ぬならそれはそれだ。今さら街に戻って何になる。生きてて、何だって言うんだ。どいつもこいつも俺の事なんか歯牙にもかけちゃいない。またあのねぐらのようなアパートに戻って、今までみたいな生活に戻るのか? それなら、いっそ……。

 一歩、二歩。俺は進む。

 瓦礫によって灰色になった床の上に、何かが転がっているのが見えた。ついさっき白王を殴って折れ曲がった、バールだ。俺もどうかしてる。あんなんであいつを止めようとしていたんだから。


 こつん、と爪先で何かを蹴っ飛ばした。

 黒い、小さな銃。あいつが持っていた銃だ。レベッカ。

 ――失敗した。

 見捨てられなくて、無我夢中でやって、俺は失敗した。元から無理だったのかもしれない。相手はガキだっていうのに、あんまりにも強すぎる。俺には無理だった。ろくでなしの、この俺には。


 逃げたってどうにもならない、と昔言われた。

 逃げを繰り返すなとも、同じく言われた。

 冗談じゃねえ。逃げるしかなかったんだ。あの終わった街の工場で、馬鹿にされながら生きて、俺に何があった? ナユタに行くしかなかった。俺は俺の生活を変えるしかなかった。逃げというなら、そう、逃げだ。戦略的撤退だ。

 変えられると思った。ここでなら。


 でも、何も変わりゃしなかった。この街に来ても、俺の力はどこにも届かない。いつか、何かのきっかけがあって、 俺の力が発揮されるその機会が来るのだと、そう思っていた。でも、そんなものは結局なかった。

 目の前の人間一人助けられず、今死ぬか、あとで死ぬかという未来しか見えない。

 俺には何もない。何も出来ない。力なんて持っていない、ただの、ろくでなしだ。何の価値もない、ただの。

「おい」

 いつの間にか座り込んでいた俺の頭に、誰かの影が差していた。俺は顔を上げる。その瞬間、横っ面をぶん殴られる。絞りカスみたいな、そんな情けない声が出て、俺は地面に倒れる。が、途端に胸倉を掴み上げられた。


 知らない男だ。ほぼ全裸だが、体中びっしりと鱗が生えている。興奮しているようだが顔色が悪い。

「あんた、は……?」

「俺に口を利くんじゃねえ。食い殺すぞ、ガキが」

 歯を剥き出しにして、男は言った。吐息に異様な臭いがする。歯に肉片や血がこびりついている。

「あんた……さっきの鰐か。あの、ばかでかい……」


「何わけわかんねえ事言ってやがる。鰐だと。このスガロ様に向かってそんな口を利いて生きていた奴はいねえ。いいか、ガキ。簡潔に聞くぞ、レベッカと白王はどこだ。さあ、言え!」

 消えたよ、そう言ってやりたかったが声にならない。暗い感情が俺の喉を封じたかのようだ。俺は助けられなかった。俺は、失敗したんだ。

 ――俺に怒鳴り返した必死な顔の女。俺を助けに来てくれた女。


 舌打ちとともに、スガロという男は俺を地面に投げ捨てた。

「ち。知らねえか。役に立たねえガキだ。せめて俺に喰われて死ね。この屑野郎が」

 スガロが顔の前に手をやった。逃げなきゃ。直感的にそう思う。このままじゃ殺される。

 いや、もういいか。どうせ俺には何も出来ない。死ぬのは、もうあまり怖くない。ここで終わりにしてくれるっていうのなら――……


「イクシー――」

 ――女の言葉が甦る。耳鳴りみたいに。

 ああ、くそ。

 こいつ……臭うな。

 次の瞬間、顔の前にやった掌ごと、俺は左拳で男を殴り飛ばしていた。完全に不意を突かれたらしいスガロはさっきの俺以上に情けない声を上げてよろめく。


「……っ、てめえ!」

「臭いんだよ、おっさん。あんたからは俺と同じろくでなしの臭いがしやがる」

 殴った左拳が痛む。下手にやると指の骨が折れそうだ。だが、俺の怪我はすぐに治る。幸か不幸か、そういう体になっちまった。

「そうかガキ。てめえ、苦しんで死にてえらしいな。いいだろう、てめえは食う前に全身の骨という骨をぶち折ってやるぜ。首は最後だ。最後まで痛い思いをしながら俺に許しを――」


「うるせえってんだ、おっさん。俺がどんなにろくでなしでもな、同じろくでなしには殺されてやらねえよ。つべこべ言わずにかかってきやがれ」

 スガロの額に血管が浮き上がる。瞬く間に蹴りが飛んできた。格闘家みたいな堂に入った蹴りだ。喰らったらやばい。それはわかる。だが、迫力不足だ。俺は後ろへ跳んでそいつを躱す。相手も手慣れたように、すかさず追って拳を放ってくる。俺は地面に落ちていたある物を拾い上げ、それを放り投げて相手の拳を迎撃する。


「うぐぁっ!」

 バールを殴ったスガロを俺は再び左拳でぶん殴る。骨の芯まで痛みが響く。それでもスガロは倒れない。

「てめえ、調子に乗るなよ!」

 再びスガロの拳が動く。胴体を狙われている。俺は咄嗟に身を引こうとして、直後に左足に衝撃を受ける。一発で立てなくなるほどの痛み。次いで腹部への大打撃。体がくの字に折れ曲がる。くそったれ。フェイントなんざかけてきやがって!


「馬鹿な野郎だ。そんなカスみたいなパンチしか出来ねえで、何でこんなところにいやがる。とっとと逃げ出しちまえば死なずに済んだのによ」

 スガロがバールを拾った。どうやらあれで殴ってくるつもりらしい。ずんずんと、こちらに近づいてくる。

 逃げときゃよかった、ね……。

「……あいつは、逃げなかったよ」


 そっと、ポケットに手を入れる。すぐ傍にまでやってきたスガロに、俺はそう言ってやる。

「ああ? 誰の話だよ」

 俺はポケットの中のそれを掴む。

「――あんたがお探しの彼女だよ、おっさん!」

 直後、投げつけた灰ブロックがスガロの頭部に命中し、


「な……このクソッ!」

 渾身の力で叩き付けた鳶の手の一撃が、スガロの顔を三度打ち抜いた。

「ぐう……っ、てめえ――」

 呻き声を上げたスガロはよろめき、足を滑らせ、瓦礫の散らばる床へと転倒する。

 そのまま、男は立ち上がらない。血は出ていないし、何よりこのおっさんもモンストロが体に入っている。気を失ったようだが、死んではいないだろう。


 呼吸が乱れた。俺は深く息を吸い、汗を拭う。

『貴方を置いて逃げられるわけないでしょ!』

 ……あいつは戻ってきた。俺を見捨てれば逃げられたのに。

「何を……馬鹿な事を考えていたんだ、俺は」

 自分が恥ずかしくなる。命を救ってもらっておいて、その相手を見捨てようとするなんて。


「逃げらんねえ。逃げちゃ駄目だ」

 連れ去られてから、まだそんなに時間は経っていない。今からでも追わなければ。たとえ、俺一人だったとしても。

「行かなきゃ」

 呟き、俺は歩き出す。しかし、どうする? 追うにしても、まずはここを出る方法を探さないと。それに、どうやって二人の跡を追えば。


 そういえば爆発音がしない。断続的だった震動も今は止まっているようだ。これは、もしや……。

 俺の思考は、しかし耳に届いたある音によって遮られた。もう嫌になるくらい聞いた放電音。次の瞬間、足を掴まれた俺はそのまま引きずり倒される。

「殺す、殺スッ……! 俺を侮る奴は皆殺してヤルッ!」

 重たい体が俺の上に伸しかかる。微弱な電流がスガロの体の上で弾けている。まだ動くってのか。くそ、何とかしなきゃ。これ以上、こいつに関わる時間はないってのに!


「死ネェ! その頭丸齧りだァッ!」

 血走った目のスガロが狂ったように口を開く。こいつ、まさかこのまま俺を喰うつもりか!? 反撃しようと腕を動かす。駄目だ。両肩を押さえつけられている!

 肉を目にした獣のように、スガロが俺に喰らい付く――

 いや、スガロの歯は俺には届かなかった。不意に脱力したスガロは何者かによって、俺の上からどかされる。


「お前……」

「大丈夫か、トビ」

 傷だらけ男はそう言いながら俺に手を差し伸べる。俺はそっと右手を上げる。左手は痛んでいて力が入らない。

 鳶の手を掴み、叉反は俺を引っ張り上げた。

 叉反の姿はさっきまでの変身したものではなく、普通のそれに戻っていた。


「状況は……聞くまでもないようだな」

「探偵、レベッカは……」

 言うべき事は決まっているはずなのに、言葉は上手く出てこない。

「あいつは連れて行かれた。……とても敵わなかった。でも」

 切れ切れに俺は続ける。気持ちがせり上がってくる。


「俺は行かなきゃならない。あいつを助けたいんだ。助けてもらったのに、このまま見捨てていくなんて、そんなのは絶対に駄目だ」

 俺は探偵を見た。その黒い両目がじっと俺を見返す。たとえ何を言われても、俺は俺の意志を示さなきゃならない。それが、俺のけじめだ。

「頼む、探偵。俺と一緒に来てくれ! 俺の命はどうなってもいい、だから、どうかあいつを! あいつを助けてくれ!」


 探偵が目を閉じた。言い様のない緊張が急にもたげる。いや、今更なんだ。失態を詰られようが、ぶん殴られようが、俺は――

「さっきの変身のせいで、俺もあまり余力がない」

 静かに、探偵は言った。

「白王相手に、お前を庇いながらレベッカを取り戻すのは不可能だ。自分の身は自分で守ってもらう事になる」


 覚悟の上だ。守ってもらう気なんてさらさらない。

「さらに言えば、手が足りない。俺一人で彼女の奪還と仁の捜索をするのは困難だろう」

 叉反が俺を見た。真剣な瞳で。

「俺を手伝ってくれ、トビ。今はお前が必要だ」

探偵は言った。血管の中で熱を帯びた、言い様のない感情が沸き立ってくる。これは、この感覚を何と言えばいいのか。心の底から力が湧いてくるような、この気持ちは。


――奮い立つ、だ。

「ああ。任せろ、探偵」

 叉反は頷いた。真剣そのものの顔が、どこか微笑んでいるようにも見えた。

 だが、それも一瞬だ。

「行こう。すぐにでも二人に追いつくんだ」


 

 途中の通路もまた天井が崩れ、床はそこら中亀裂が入っていた。それでも急いで乗り越えて、再び俺達は加工区画へとやって来た。灰をブロック状にする生産工場だ。

俺は左手にレベッカの小銃を、叉反は彼女がずっと持ち続けていたジェラルミンケースを持っている。

『これには、一体何が入っているんだ?』

『わからねえ。でもレベッカがずっと手放さなかった物だ。何かあるぜ、きっと』


 加工区画は半壊状態だった。コンベヤーのほとんどは倒れた機械によって潰されている。床は亀裂が入っていたり、灰ブロックや未加工の灰がぶちまけられていたりで真っ黒だった。洗浄槽への出入り口も塞がれているようだ。さっき俺を襲った黒服達も見当たらないが、逃げられたのだろうか。

 待てよ。そういえばさっき……。

「非常口……」


「何だって?」

「さっきレベッカが言ってたのを思い出したんだ。ここには、非常口があるらしい」

 たく、何でこんな事忘れていたんだ。レベッカは非常口を目指していた。当然、白王も知っていただろう。とすれば、二人がそこから出たのは想像に難くない。叉反も同意見だった。

 問題は、その非常口をどう見つけるかだ。区画内は滅茶苦茶だ。今は止まっているが、次の爆破がいつ始まるかもわからない。ぱっと見た感じ、それらしいものはないし……。


「くそ。だいたい非常口ってのはわかりやすくなってるもんだろう。案内さえないってのはどういう事だよ」

「さて。埋もれたのか、はたまた非常口というよりは秘密の抜け道だったのか。いずれにせよ、手がかりはあるはずだ」

「秘密の抜け穴って……。あんたなあ、こんな時にふざけてるんじゃ」

「偽装研究施設だ。万が一に備えた脱出路があっても不思議じゃないだろう。たぶん、俺の考えが正しければ、非常用エレベーターがあるはずだ。屋上階まで直通のな」


 言いながら、叉反は床に手をつき、じっとその先を見つめていた。俺もそれに倣って手がかりがないかを探す。駄目だ。ぶっ壊れた機械とぶち撒けられた灰しか見当たらない。

叉反はそっと立ち上がった。数歩歩いて、再び止まる。

「ここを見てみろ」

 叉反が示したそこは、やはり灰まみれの床だった。……いや。俺は目を凝らした。叉反の手が軽く灰を払う。

 血痕だ。しかし、ただの血痕じゃない。人の掌くらいの犬の足跡。乾いていない血を踏んだせいか、くっきりと残っている。


「さっきの野郎か」

「ああ。おそらく奴がここを通ったのは、建物が崩落を始める寸前――」

 言いながら、叉反は足跡の行く先を探す。

 一度発見してしまえば、同じ特徴は見つけ易い。足跡はそこから右へ曲がっていた。その先にあるのは、散乱した多くの梱包済み灰ブロックだ。かなりの高さまで積み上げられていたものが崩れたのだろう。小山のようになった灰ブロックの塊をどけるのは簡単ではない。


「あのおっさんがここを通ったとして、レベッカ達もここ通ったって証拠は?」

「……これだ。灰の上に血痕がある」

 かなり微妙な痕だった。ブロックに潰されていて、よほど注意して見なければ見落としてしまうだろう。

「灰の上にあるって事は、少なくともこの辺のブロックが散乱した後に落ちたって事か。だとしても、こういう風にブロックが散らばってるっていうのは変だろ。最低限、人が通れるだけのスペースがなきゃ……」


「そのスペースを隠した奴がいるんだ。――さあ、出てきたらどうだ」

 その声に応えるかのように、灰ブロックの山が噴き出すように崩壊した。迫ってくる灰ブロックを叉反が目に止まらぬ速度で弾き落とす。

 現れたのは、さっきの黒服二人組だ。だが、その様子はさっきまでとは明らかに違う。

「ァ……ヴァ……」


 白目を剥いた二人の頭部には電流の塊のようなものが取りついていて、そこからまるで蜘蛛の足のように緑電が脈走っている。さながらゾンビだ。意識がないのに、無理矢理体が動いているかのような。

「……もう何がどうなってんだ一体」

「待ち伏せがあるという事は、正解だという事だ」

 叉反がジェラルミンケースを床の上に置いた。


「トビ。お前は道を拓け。俺が二人を引き付ける」

「……動じねえんだな、あんた」

「そんな暇はない」

確かにぼやいている暇はなかった。即座に飛び掛かってきた黒服の片割れが、物凄い力で俺に組みついてくる。が、拘束は一瞬だ。力づくで小男を引っぺがし、叉反は叫ぶ。


「行け! 俺もすぐに追いつく!」

「……っ、わかった!」

 ブロックの山を蹴り飛ばし、どかし、俺は突き進む。所詮は散らばったブロックだ。時間稼ぎと言ったってたかが知れている。

 あらかたどかし終えれば、見えてきたのはエレベーターだ。叩き付けるように俺はスイッチを押す。大振りなスイッチだ。緑と赤で色分けされた上下のみのスイッチ……。


「くそ、これ運搬用じゃねえか!」

 積載量やらスイッチの注意書きやらを見つけて頭を抱えたくなる。阿呆か俺は。こんな時に! こいつは外れだ。一階までしか行かないだろう。

 くそ、どこだ。この辺りにあるはずだ。隠された脱出路だってんなら、むしろわかり辛くなっているのか? ああもう、時間がないってのに!


 落ち着け。俺は深呼吸して、もう一度辺りをよく見る。何か手がかりがあるはずだ。何か。何か。残ってはいないか?

 壁面に目を凝らす。――……これは、何だ。切れ目みたいなものがある。

 指がそれに触れると、切れ目は不意に隙間を空けた。壁がスライドし、電卓のような数字のキーが並ぶ。

 ……こいつは当たりだ。しかしここにきて、パスワードかよ。


「トビ、気を付けろ!」

 叉反の声が聞こえた気もしたが、確認する暇はなかった。猛牛のように突っ込んできた黒服の大男が俺を床へ叩き付け、頭を抑えつける。

「ァァ……ヴァア!」

 唾を吐き散らし、呂律の回っていない舌で何事か叫ぶ。とんでもない力だ。くそ、このままじゃここで……!


「タス……タスケ……」

「あ?」

 力が僅かに弱まる。俺はかろうじて黒服の顔を見た。ついさっきまで意識を失っていたような顔が、今は必死な目でこっちを見ている。

「体が……勝手ニ……コノママジャ……オレェッ!!」


 再び万力みたいな力が黒服の腕に戻る。足を拘束は緩い。俺は黒服の肘目がけて右手で攻撃する。僅かに生まれた隙間を逃さず、俺は男の下から抜ける。距離を取り、立ち上がれば黒服がまた迫ってくる。後頭部に取りついた緑電の塊。たぶんあいつが原因だろう。なら。俺は一か八か突進し、黒服に組みつきざま壁へと押し付ける。

「叉反! 早く来てくれ!」

 ちょっと油断すれば黒服がすぐにでも動き出してしまう。


 影が翻った。ボロボロになったコートの影。苦悶の表情を浮かべる探偵が渾身の力を振るうように右手に力を込めた。その瞬間、右手が赤い炎に包まれ、そのまま電流の塊へと触れる。

「はあ、はあ……」

 電流を掻き消した叉反は、すぐさまその場へ座り込んだ。遠くでは倒れたもう一人の黒服――いや、奴の服は俺が着ているから実質黒服ではないんだが――の足が見える。


「う……」

 巨漢の黒服が呻いた。意識はある。目も正気だ。

「すまねえ……。白王の奴が、俺達をあんな風に……。早く、非常エレベーターに乗せてくれ。屋上でヘリが迎えにくる手筈だ」

「あんた、パスワードがわかるのか?」


「ああ、だから早く……」

 俺は一度深呼吸して、それから言った。

「悪いがあんた達は乗せられねえ。上で待っているのは白王だ」

「な……そんな……」

 俺は、目で運搬用エレベーターを指し示す。


「あんた達はあっちで逃げろ。まだ動いているし、一階までなら行けるはずだ」

「馬鹿言え! この施設は爆破されるんだ。一階なんてとっくに滅茶苦茶に」

「……爆破は今、止んでいる」

 代わりに答えたのは叉反だった。

「白王が止めているんだろう。奴自身が脱出するためにな。今なら、たぶん逃げられる」


 一息入れて、叉反は立ち上がった。それから、もう一人の黒服のほうへと向かう。

「頼む。パスワードを教えてくれ。俺達は、あいつを追わなきゃいけないんだ」

 大男は頷いた。ふらふらになりながらも立ち上がり、壁のキーを叩く。

 音を立てて、壁が動き出す。自動ドアのようにスライドし、人一人が通れるくらいの通路が見える。

「……この先にエレベーターがある」


「ああ。ありがとうよ」

「お前……信じるのか?」

 大男が心底意外だというふうに言った。

「俺は一度お前を殺してるんだぞ?」

「……他に手はねえんだよ。何だ、罠なのか? ならさっさと罠だって言ってくれ」


 半ば苛立ち紛れに俺は怒鳴り返した。驚いたような男の顔が、しかしやがて弛む。

「ああいや、マジだよ。この先のエレベーターに乗れ。それで屋上まで一直線だ」

 たく、余計な事を言うんじゃねえ。

 叉反がジェラルミンケースを片手に、半裸の小男を運んでくる。そいつを担ぎ、大男は運搬用エレベーターに足を向ける。


「こんな事俺が言うのも何だが……お前が生きていて良かったよ、フュージョナー」

「うるせえよ。とっとと逃げろ、馬鹿野郎」

 ふん、と大男は笑い、そのまま運搬用エレベーターへと乗り込んでいく。

「さあ行こうぜ、探偵。目的地はこの先だ」

 言って、俺は通路を走り出す。時間が惜しい。白王達はまだ脱出しちゃいないはずだ。そうであってくれと、半ば祈るような気持ちだった。



 開放された秘密通路をトビが走り出す。叉反は呼吸を整えた。消耗が著しい。動けるのもそう長くはない。だがしかし、自身の体調を冷静に見極めながらも、叉反は士気を保つ。今はやるしかない。死んだあとでは後悔も出来ない。生きて後悔するような事態も御免だ。

 真っ直ぐに伸びた通路を走り、開いたエレベーターの扉へと入る。扉が閉まると同時にエレベーターは動き出す。小さな、一人か二人乗れればいいくらいのサイズ。


 お互い、無言だった。トビの表情には余裕がない。無理もないだろう。だが、軽口を叩いて緊張を和らげてやる時間はなかった。予想外のスピードで上昇したエレベーターは、口を利く間もなく、二人を最上階へと運んだ。

 エレベーターを出る。廊下は暗かった。だが、すぐに階段を見つけた。上へと昇る小さな階段。トビが走り出し、叉反がそれに続く。屋上へのドアが見えた。

 開けた途端、陽光が目を眩ませる。爆音が、上空から響いていた。ホバリングした黒いヘリ。軍用ヘリにも似たそれから救助用の梯子が伸びている。人影は二人だけだ。


「白王ッ!」

 トビが叫んだ。叫ぶと同時に走り出した。レベッカは梯子に括りつけられていた。その身体は緑電によって拘束されている。

 口元のインカムマイムに向かって白王が叫んだ。

「出せ」


 直後、ヘリからの梯子が巻き取られ始める。と同時に、白王が打って出る。すでに駆け出していた叉反は手に持ったジェラルミンケースを投擲する。トビの脇を掠めたケースを白王が払い落とした刹那、叉反の飛び蹴りが白虎の少年を追撃する。

「行け、トビ! レベッカを助けろ!」


 トビが頷き、走り出した。何事かを怒鳴った白王が直後にマイクを捨て飛び上がってからの蹴りを放つ。梯子に掴まったトビがそのまま空中へと浮き上がる。次いで襲い掛かって攻撃に、もうそれ以上はトビの姿を追えなかった。

蹴りを放った白王が少し離れた位置に着地する。絶妙な位置取りだ。叉反の間合いより半歩遠く、次の一手がどうしても遅くなる。


「あんな奴にレベッカを任せていいの? あいつにどうにか出来るとは思えないけど?」

「人の事より自分の心配をしたらどうだ。これでお前が脱出する術はなくなった。どうするつもりだ?」

「僕はいいんだよ。凡百の人間が死ぬような状況でも、僕は生き残る事が出来る。人間やフュージョナーという枠組みを、僕はすでに超越している」

 ぬいぐるみのような手袋を艶めかしく動かし、白王は笑う。


「お前もどうやら超人への仲間入りを果たしたようだ。……どうする? もしお前が今からでも結社に忠誠を誓うというのなら、生かしておいてやってもいいけど?」

「言いたい事はそれで終わりか」

 叉反は構えを取った。白王が呆れたように肩を竦める。

「そう。あくまでも実験動物として死ぬのがお望みか。ならば逝くがいい。蠍の心臓を残してね!」


 電光が尾を引く。白王が上空から飛び掛かってくる。白虎の姿だ。反応が遅れた。

 強靭な爪が腕を掠める。返しで放った蹴りは、しかし当たらない。獣との接近戦は圧倒的なまでに不利だ。地に伏せた姿勢から急反転、一気に後ろを取られる。尾を使い反撃するも、会心の一撃とはならない。

 足元を狙われ、叉反は地面を転げた。すかさず急襲する獣の影を下から蹴り飛ばす。浅い。躱された。起き上がって構えれば、余裕綽々といった面持ちで、小柄な白虎が着地する。


「ふう、危ない危ない。さすがに電影獣を退けただけはあるか。死にかけとはいえよく動く」

 構わず、叉反は攻める。斬り払うかのようなローキック。空を切る。白虎の影を追うように拳を繰り出す。白王は変幻自在に動いて見せた。姿勢の高低を巧みに変化させ、飛び掛かる姿勢のまま後ろに下がったかと思いきや飛び上がる。残像だけが掠れて――

「終わりだ!」


 背中を熱が一直線に駆けた。辛うじて、構えを保つ。治癒が遅い。内なる炎が弱々しく感じる。怪物が、俺の心に住まう怪物が邪魔をしているのか。

 血で足元が(ぬめ)る。踵が、ジェラルミンケースの取っ手に当たった。右膝から力が抜け、体が崩れ落ちる。

 白王が少年の姿へと戻った。

「全くしぶといね。そんな半真っ二つみたいな格好でよく生きていられる」


 白王の右腕に電流が巻き起こる。手袋が分解され、腕の骨格が変化していく。腕の形そのものは人のそれによく似ながら、指は虎そのものに。

「傷が回復しないね。なるほど、〝心臓〟が上手く動いていないみたいだ。いや、ひょっとしたら、やはりお前は超人の器ではなかったのかもしれない」

 獣化した腕を白王は槍のように引いて構えた。叉反は、動けない。血は失われていくままだ。


「お前は運命に見放された。せっかくチャンスを与えてやったのに。馬鹿な奴だよ、本当に」

 向けられた黒爪が陽光に光る。叉反は心中、奇妙な得心に頷いていた。

「なるほど。どうやらお前は、これまで運命が微笑んでくれるのを待って生きていたようだ」

 白王の顔が、一気に不快へと歪む。

「何だと……」


「超人だとかいうお前からすれば取るに足らない話だろうが、一つ教えておいてやる。運命っていうのは拝んで待つもんじゃないんだ」

 爪先を伸ばす。一瞬、あと一瞬だけ動く。動いてやる。

「黙れ……。この実験動物が!」

 白王の獣爪が一直線に繰り出されたその瞬間、叉反は動いた。

「運命っていうのは、自ら巻き込んで道連れにするもんだ! 超人坊や!」

 バク転。小さく弧を描きながら回転し、着地と同時に蹴り出したジェラルミンケースが白王の足元へ滑り込む。走る激痛。駄目だ。歯を食いしばれ。最後まで、足掻いてやる――……!


 ――ふん、いいだろう。


 声が聞こえた。怪物の声が。

 ――今回限りだ。あの小僧を黙らせるために力を貸してやる。

 直後、全身を赤い焔が包み込み、

「――超越!!」

 叉反は叫んだ。全身の骨が、内臓が、筋肉が、燃え盛る炎の中全て形を変えていく。


「……黙れ。黙れ黙れ。何が超越だこの実験動物が。お前はここで死ぬんだよ、無様にな」

 呪詛のような言葉を撒き散らしながら、白虎の掌で白王は自らの顔面を覆う。

「見せてやる。これが本物の超越だ。――イクシードッ!!」

 白王の内側から迸る、エメラルドの大電流。一瞬のうちに変ずる、叉反と同様の形態変化。


 それは人型であって人ではない。白虎の尾を持ちながらフュージョナーとも違う。小柄でありながら逞しく発達した全身の筋肉。肉質を感じさせる皮膚は緑に、鎧のような硬質の皮膚は表面に白虎の毛皮が生え揃う。顔は鼻も耳も口も消え、瞳の代わりに両の目には橙色の水晶が嵌め込まれたよう。表情の一切が消失した仮面の如き面貌でありながら、どこかに変身前の少年を思わせる気配。


「さあ、教えてやるよ。どちらが本物の超人か!」

 白王が地を蹴る。その瞬間、地面が爆ぜた。全く予期せぬ接近スピードに身動きが取れない。直後、叉反の体はペントハウスに激突する。攻撃された。腹部への痛みが遅れてやってくる。インパクトの瞬間が知覚出来ない。

 ――ケースの中身を使え。今、貴様が勝つにはそれしかない。

 怪物が囁く。ケース。叉反は目を凝らす。見つけた。かなり遠い。


 ――今の貴様なら一足だ。さあ、行け!

「ぐっ!」

 言われるがまま、叉反は跳んだ。自分でも思わぬ跳躍だった。五メートル以上あった距離は瞬く間に縮み、すぐさまジェラルミンケースの元へと着地する。

「貴様! 逃げるな!」


 白王が迫る。叉反は迷わずケースの上蓋を剥ぎ取った。中にある物を掴みざま跳ぶ。白王との距離はそう開かない。土煙が朦々と立ち込める。

「これは……」

 自らの手に収まったそれを、叉反は見た。


 一目見て、それは武器だと知れた。分厚くなった叉反の掌から少し飛び出すほど大きなグリップ。あらかじめかなり大きな人間が指をかける事を想定していたかのような、スペースの取られたトリガーガード。まるで大砲のような発射口。武器本体の両側から開きかけの扇のように展開されたフィンは放熱のためのものか。さながら竜の翼だ。

 銃だ。それもかなり巨大な銃。

 ――貴様ら超人態のために用意された武器の一つだ。その名をヴァーミスラックス・ペジョラティブ。〝造られた悪竜〟。


「ヴァーミスラックス……」

「ふん。まさかここで超人装備が出てくるとはね」

 白王が電撃を纏う。白に近くなるまで発光した緑電は雷雲のように轟いている。やはり槍のように引いて構えた右腕に、雷が巻き付く。

「いいだろう。使ってみるがいい。貫いてやるよ、お前ごとね」


 〝悪竜〟が俄かに熱を持った。銃全体に刻まれた溝が赤く発光を始める。まるで血が通い始めたかのように灯る赤いライン。右手に違和感を覚える。気のせいか……力が吸われているかのよう。

 ――そいつは貴様の超人態を形成するエネルギーを吸収、瞬間的に増幅して放つ。

 怪物が淡々と言う。

 ――放てば無事では済むまいな。


「……そうか」

 叉反は悪竜を構えた。左手を軽く引いてグリップをホールド。照準は、逆巻く雷電に合せる。

 ――奴が消えるか、貴様が消えるかの勝負だ。せいぜい見物させてもらおう。

 銃身にエネルギーが収束していくのがわかる。今や引き絞られた弓の弦。放つのに気負いはいらない。ただ無心であればいい――

「――消え失せろッ!! 探偵尾賀叉反!!」

 白王の叫びが耳に届いたその刹那、小さく引き金は引かれ――



 直後、眩く輝く雷電の大槍と大気を焦がす灼熱の熱線とが轟音を響かせて激突した。


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