第53話 本物は、約束した場所にいる
安全地帯の床へ浮かんだ影が、ゆっくりと起き上がった。
最初は人の形をした黒い染みにしか見えなかった。
頭。
肩。
腕。
足。
輪郭が整うにつれ、一夜と同じ体格へ変わっていく。
『上にいる者は、偽物だ』
一夜自身の声。
影には、まだ顔がない。
それでも、話し方まで一夜に似ていた。
『地下にいる私が、本物の泊一夜だ』
「名前を呼ばないでください」
一夜はダリウスへ告げた。
「俺のことも、あれのことも」
「同一人物として扱うなということか」
「はい」
一夜は説明書を開く。
【自己識別模倣体を確認】
【模倣対象:設営者】
【模倣可能情報】
【声・外形概略・短期記憶断片】
【不足情報】
【本人による応答】
【第三者による同一認定】
【警告】
【模倣体を本人として呼称・承認しないでください】
「俺が返事をするだけではなく、ほかの人が本物だと認めても接続が進みます」
「地下班が危険だな」
ダリウスが連絡用ロープを見る。
地下では、一夜と同じ姿をした何かが、すでに8人の前へ現れている。
「地下の者へ、すぐに伝えます」
一夜は木の板を取った。
だが、この世界の文字は書けない。
「団長。書いてください」
「内容は」
「地下にいる俺を、本人として扱わない。名前を呼ばない。予定通り撤退する」
ダリウスが素早く文字を書く。
板を連絡用ロープへ結ぶ。
「送るぞ」
騎士たちがロープをたぐり、地下へ板を送った。
影の一夜が、顔のない頭を傾ける。
『なぜ、私を偽物と決めつける』
一夜は答えない。
『地下に入った者が本物で、地上に残った影が偽物かもしれない』
ダリウスも反応しない。
『団長』
影が呼ぶ。
『地上の者を拘束しろ』
ダリウスは一夜だけを見る。
「設営者。あれへ返答するな」
「はい」
「呼び方に問題は?」
「今は大丈夫です」
影の輪郭が、少し揺らいだ。
本人として認められなければ、形を保つことも難しいらしい。
第0貯水槽。
地下班の前に立っていた男は、泊一夜と同じ顔をしていた。
額の傷。
アウトドア用の上着。
バックパック。
疲れたような目。
細かな部分まで、地上に残った一夜と同じだった。
「リディアさん」
男が呼びかける。
「俺です」
リディアは答えない。
「どうして黙ってるんです?」
男は困ったように笑った。
「その言い方は禁止でしたよね」
リディアの眉が、わずかに動く。
男は見逃さなかった。
「コーヒーも持ってきました」
バックパックから、見覚えのあるドリップバッグを取り出す。
「濃い方です」
テオが小声で言う。
「話していた内容と一致します」
「記憶を読まれている」
ガレスが即座に答えた。
「一致することは、本人の証明にならない」
「でも」
「事前の計画を思い出せ」
ガレスは剣を構えたまま、男を見る。
「設営者は地上へ残ると決めた」
「計画が変わったんです」
男が答える。
「地下から呼ばれたので、団長の許可を得て来ました」
「ならば、帰還ロープを使ったはずだ」
「別の入口を見つけました」
「誰と来た」
「1人です」
ガレスの目が細くなる。
「設営者を1人で地下へ送る判断を、団長がすると思うか?」
男の笑顔が、一瞬だけ消えた。
「緊急でしたから」
「その男は、緊急時ほど役割を分ける」
リディアが初めて口を開いた。
ただし、名前は呼ばない。
「それに」
リディアの視線が、男の足元へ向く。
「靴が2つある」
男は両足を見た。
「地上で替えを用意してもらいました」
「片方は革の簡易履きだった」
地下に立つ男は、左右とも同じアウトドアシューズを履いている。
「細かいところまで覚えていたんですね」
「必要な確認だ」
「では、履き替えたと言えば?」
「何を言っても同じだ」
リディアは男へ剣先を向けた。
「本物は、地上で待つと約束した」
「約束より、目の前にいる俺を信じてください」
「信じている」
リディアは迷わず答えた。
「だから、お前を信じない」
男の顔から、一夜らしい表情が消えた。
唇だけが不自然に広がる。
「相棒を見捨てるんですか?」
「相棒は地上にいる」
「それを確かめたんですか?」
「帰還標識が示している」
リディアは胸の奥にある感覚を確かめる。
地上。
中庭。
緑色のテント。
そこに帰る場所がある。
「標識も、偽物かもしれない」
「ならば」
リディアは親指を立てた。
「地上へ戻って、自分の目で確かめる」
男の表情がゆがんだ。
連絡用ロープが動いた。
地上の一夜とダリウスが、同時に身構える。
短く3回。
「接触対象を確認」
続いて、長く1回。
「全員無事」
その後、短く2回。
「停止中」
ダリウスが同じ合図を返した。
影の一夜が、その動きを見ている。
『地下にいる私へ、地上の状況を伝えなくていいのか』
一夜は無視する。
『副隊長は迷っている』
反応しない。
『お前より、私を選ぶかもしれない』
一夜は連絡用ロープだけを見た。
「団長」
「何だ」
「撤退の合図を送ります」
「地下班は、まだ接触対象を確認している」
「確認する必要はありません」
一夜は説明書を閉じる。
「予定にない俺が地下にいる時点で、偽物です」
「話を聞かなくても?」
「はい」
「本物である可能性が、わずかに残っていても?」
一夜は少し考えた。
地下にいる者が本物で。
自分が偽物。
そんな可能性を、完全には否定できない。
自分自身の記憶が作られたものだと言われれば、証明する方法は難しい。
だが。
「俺は、ここへ残ると決めました」
一夜はテントへ手を置く。
「地下へ入らないと、全員で確認しました」
「それを基準にするのか」
「今、どちらが本物かを考え続ければ、相手の思う通りです」
記憶。
顔。
声。
どれも模倣される。
「だから、決めた手順を守ります」
「分かった」
ダリウスは連絡用ロープをつかんだ。
連続して強く引く。
即時撤退。
地下班へ、帰還命令を送った。
地下のロープが激しく動いた。
「撤退命令だ」
ガレスが告げる。
「全員、戻るぞ」
「待ってください」
一夜の姿をした男が、両手を広げる。
「第0貯水槽を調べるんでしょう?」
「次の機会にする」
「地上接続まで時間がありません」
「だから戻る」
「今なら止められます」
「止め方は?」
「俺が説明書を読みます」
男は懐から、1冊の冊子を取り出した。
一夜のテントについてきた説明書と同じ物。
「俺にしか読めません」
ローレンが眼鏡を直す。
「そこには、何と書かれている」
「第0貯水槽の中央へ、設営者が触れれば接続を止められる」
「行く必要はない」
リディアが答える。
「なぜです?」
「地上にいる本人が、説明書を読める」
「上の影に読めるはずがない」
「ならば、地上へ戻れば分かる」
男の手から、説明書が黒い液体となって崩れた。
床へ落ちる前に霧となって消える。
「戻らせると思うか?」
声が変わった。
一夜と同じ声。
低い男の声。
女の声。
子供の声。
いくつもの声が重なっていく。
「帰還ロープを守れ!」
ガレスが叫ぶ。
模倣体の腕が、黒く伸びた。
帰還用ロープへ指先が届く。
リディアが剣で払う。
手首が切断された。
断面に血はない。
空洞の中で、無数の口が動いている。
『リディア』
『ガレス』
『テオ』
模倣体が1人ずつ名を呼ぶ。
「返事をするな!」
ガレスが部下たちへ命じる。
『ローレン』
記録官の肩が跳ねる。
それでも答えない。
『あなたの名前を知っている』
模倣体の切断された腕が再生する。
『名前を呼ばれた者は、自分が自分だと答えたくなる』
地下の壁に、8人それぞれの影が浮かび上がった。
『返事をすれば、安心できます』
リディアの影が口を開く。
『私はリディア・アルクライトだ』
本物のリディアは歯を食いしばる。
自分の影が、自分の代わりに名乗っている。
「本人が答えなくても、影が……」
「無視しろ!」
ガレスが帰還ロープを引く。
「撤退する!」
地下班は来た道へ走り始めた。
模倣体が、その後ろを歩いてくる。
急がない。
追いかける必要がないと知っているように。
「地上へ戻れば、本物を決めなければならない」
完全に一夜の声へ戻っている。
「2人の泊一夜を前にして、どちらを選ぶ?」
リディアは振り返らない。
「もう選んだ」
「顔を見ずに?」
「約束した場所で待っている方だ」
連絡用ロープが、連続して動いた。
「撤退を開始しました」
一夜は帰還用ロープへ手を伸ばす。
地下班をつないでいる長いロープ。
張りが強くなっている。
「こちらから引きます」
「まだ距離がある」
ダリウスが止める。
「今、引けば動きにくくなるぞ」
「分かっています」
一夜はロープを、中庭の石柱へ回した。
力で引くのではない。
緩みを取る。
地下班が進んだ分だけ、少しずつ地上へ回収する。
「帰る方向を保つだけです」
騎士4人もロープへつく。
影の一夜が、一夜の動きをまねる。
同じ姿勢。
同じ手の位置。
輪郭が、さらに鮮明になっていた。
【模倣完成度:58%】
【第三者による本人認定:未成立】
「見られているだけでも、少しずつ覚えられるみたいです」
「目を閉じるか?」
「ロープが見えなくなります」
「ならば、影を見ない」
「はい」
地面の下から、強い衝撃。
帰還用ロープが一気に引かれる。
騎士の1人が前へ倒れかけた。
「何かにつかまれた!」
一夜はロープを石柱へ1周追加する。
「直接引き合わないでください!」
「では、どうする!」
「進める分だけ戻します!」
地下班が走る。
地上班が緩みを回収する。
地下からの力が増す。
ロープがきしむ。
繊維の一部が切れ、細い音を立てた。
「予備ロープを重ねます!」
一夜は短いロープを結び、負担のかかる部分を補強した。
影の一夜が隣へ立つ。
『その結び方では切れる』
一夜は無視する。
『監視塔でも、同じ失敗をした』
事実ではない。
あの時、ロープは帰還を助けた。
『お前の判断で、地下班が死ぬ』
一夜の手が止まりかける。
「設営者」
ダリウスが呼ぶ。
「手順を続けろ」
「はい」
「地上で待つと決めたのだろう」
「はい」
一夜は結び目を締めた。
「ここで待ちます」
本部棟の地下入口から、足音が聞こえた。
「戻ってきます!」
騎士の1人が叫ぶ。
最初にテオが姿を見せた。
続いて騎士。
ローレン。
ガレス。
全員が走って中庭へ向かってくる。
「安全地帯へ!」
一夜が呼ぶ。
境界へ入った者から、地下との呼名接続が弱まっていく。
【帰還者:5人】
【帰還者:6人】
【帰還者:7人】
最後にリディアが地下入口から飛び出した。
その背後。
一夜と同じ顔の男が、ゆっくり階段を上がってくる。
「来るな!」
リディアが安全地帯へ飛び込む。
【帰還者:8人】
模倣体が中庭へ出た。
額の傷。
服。
表情。
一夜とまったく同じ。
違うのは、両足に同じ靴を履いていることだけだった。
「リディアさん」
模倣体が手を伸ばす。
「俺を置いていくんですか?」
安全地帯の境界へ触れる。
透明な波紋が広がった。
手は中へ入らない。
【保護領域への侵入を拒否しました】
【侵入対象:自己識別模倣体】
【現在の意図:設営者の置換】
一夜は説明書を読み上げた。
「入れません」
模倣体が、一夜を見る。
「安全地帯が、お前を本物だと認めたと思うか?」
「少なくとも」
一夜は片方だけ違う履物の足で立つ。
「俺が設営者である間は、ここへ入れません」
模倣体の顔が笑う。
一夜と同じ顔で。
一夜ならしない笑い方をした。
「それで十分だ」
「何が?」
問い返しかけて、一夜は口を閉じた。
返事をしてはいけない。
模倣体は満足そうにうなずく。
「今、私を見た」
体が黒い霧へ変わり始める。
「声も聞いた」
足元から、地面へ沈んでいく。
「次に会う時は、靴も合わせよう」
「逃がすな!」
ガレスが安全地帯の外へ出ようとする。
ダリウスが止めた。
「追うな!」
模倣体の姿が完全に崩れる。
黒い染みだけが残り。
それも地下へ吸い込まれた。
説明書へ、最後の表示が浮かぶ。
【自己識別模倣体:離脱】
【模倣完成度:61%】
【次回接触時、外見による識別は推奨されません】
一夜は、自分の顔へ触れた。
「次は、もっと似てくる」
リディアが一夜の前へ立つ。
顔を見る。
額の傷。
服。
片方だけ違う履物。
「何です?」
「確認している」
「外見では見分けられなくなるそうです」
「知っている」
「では、どうやって?」
リディアは親指を立てた。
「約束した場所にいる方を信じる」
一夜も親指を返す。
「それで間違えたら?」
「その時は、一緒に間違える」
「それは困ります」
「ならば、間違えないための方法を考えろ」
一夜は少し笑った。
「はい」
名前。
顔。
声。
記憶。
そのすべてを奪われても。
自分たちが交わした約束まで、相手へ渡す必要はない。
次に備えるため。
まずは、本物だけが知る秘密ではなく。
偽物がまねできても破れない手順を作らなければならなかった。




