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第七話:祝祭の余韻、日常の黎明

 その日の朝、僕が微睡みの底から引き上げられたのは、いつもとは明らかに質の異なる「空気の振動」のせいだった。


 窓から差し込む秋の光は昨日までと変わらず琥珀色に透き通っていたけれど、家の中に満ちている気配が、まるで炭酸水が弾けるようにチリチリと落ち着きなく波立っていた。


 薄目を開けると、視界に飛び込んできたのは、部屋の中を右往左往する父ダリウスの姿だった。

 彼はいつもの農作業着ではなく、どこか糊の効いた、けれど着慣れない様子のごわついた麻のシャツに腕を通そうとして、何度もボタンを掛け違えては、もどかしげに溜息を漏らしている。

 その砂褐色の髪は丁寧に撫で付けられているものの、本人の浮ついた心を反映するように、毛先が数本、ピンと跳ねていた。


 一方で母マリアは、台所で鼻歌を歌いながら、今日のための特別な準備に勤しんでいる。彼女の背中は、まるで少女のように軽やかで、時折くるりと振り返っては、僕に向かって眩いばかりの微笑みを投げかけてくる。


「ーー、アレン。ーー、ーー、ーー」


 彼女が紡ぐ言葉の意味は相変わらず聞き取れない。

 けれど、そこに込められた高揚感は、僕の小さな胸を心地よく圧迫した。


 彼女は僕を抱き上げると、昨日の外出着よりもさらに手の込んだ、刺繍の施された柔らかな服を着せてくれた。


 ダリウスとマリア。二人の隠しきれない、子供のような「そわそわ」とした空気が、僕の全身に伝播していく。今日は、この村にとって、そしてアレンとしての僕にとって、忘れがたい一日になるのだと、目覚めた瞬間に確信した。


 家の外に出ると、村の様相は昨日とは一変していた。


 昨日の「静かな期待」は、今日という日に結実し、村全体が祝祭という名の熱病に浮かされているようだった。小道を歩けば、すれ違う村人たちの誰もが、ダリウスたちと同じようにどこか浮き足立った足取りで広場へと向かっている。


 いつもは厳しい顔で石臼を回しているはずの男たちは、今日は互いに肩を組み、大きな声で笑い合いながら、見たこともないほど立派な刺繍の入ったベストを纏っている。通りがかる女性たちは、編み込んだ髪に色鮮やかな野花を飾り、手に持った籠の中には、焼きたてのパンや色とりどりの果実が溢れんばかりに詰め込まれていた。


 広場に近づくにつれ、複数の楽器が奏でる土着的なメロディが、風に乗って僕の耳を叩き始めた。太鼓の重低音が地面を揺らし、笛の音が高らかに蒼天へと吸い込まれていく。昨日の「外界の発見」が静かな感動だったとするなら、今日のそれは、心臓の鼓動を強制的に早めるような、圧倒的な生命の咆哮だった。


 昼前。広場を埋め尽くした人々の視線が、中央の演壇へと集まった。


 そこに姿を現したのは、昨日のタナー老人だった。けれど、その姿は僕の知る「村の長老」とは決定的に異なっていた。彼は、代々の村長が受け継いできたのであろう、深い緑色の布地に黄金の糸で大樹が刺繍された、重厚な式典用の長衣を纏っていた。その長衣の裾が石畳を払い、白く長い髭が、秋の陽光を受けて神聖な光沢を放っている。


 彼がゆっくりと手を挙げると、あれほど騒がしかった広場が、まるで魔法をかけられたように一瞬で静まり返った。タナー老人は、大地の底から響くような、けれどどこか慈愛に満ちた声で演説を始めた。


「ーー、ーーー。ーー、アレン。ーーー、ーーー」


 彼の言葉の中に、僕の名前が混じる。それは、この土地で新しく生を受けた命に対する、祝祭の重みを伴った祝福だったのだろう。老人の演説は長くはなかった。

 彼が最後の一節を力強く叫び、杖を地面にドン、と突き立てた瞬間。


「ーーーッ! ーーーッ!」


 割れんばかりの歓声が沸き起こり、賑わいは最高潮に達した。収穫祭の始まりだ。

 堰を切ったように、人々は思い思いに祝いの言葉を掛け合い始めた。ダリウスはオーレンと抱き合い、マリアはナタやリリアンと手を取り合って喜びを共有している。僕はダリウスの広い肩に乗せられ、広場を見渡した。


 そこかしこで、人々が食べ物を分け合い、酒の入った大樽が次々と開けられていく。フィナとミア、リアの三人は、新しい遊びを考えついたかのように、僕の足元で手を繋いで輪になって踊り始めた。赤、金、黒の髪が、祝祭の渦の中で入り乱れる。


 人々が互いの名前を呼び、収穫の恵みを称え合う。その輪の中に、僕という「新しい命」が自然に組み込まれている不思議。前世では決して味わうことのなかった、個と個が溶け合い、大きな「共同体」という命の塊になる感覚。僕は言葉の分からないなりに、その熱狂の中に身を委ね、ただ笑い、掌を叩いた。


 太陽が西の空に沈み、琥珀色の光が深い藍色へと入れ替わる頃、祭りはその様相を少しずつ変えていった。


 広場の中央で焚き火が勢いよく燃え上がり、火の粉が星空に向かって舞い上がる。昼間の健康的な活気は影を潜め、辺りは酒と肴が主役の、濃厚な宴会場へと変貌を遂げた。

 至る所で焚かれた脂の滴る肉の匂いと、発酵した麦の芳醇な香りが混ざり合い、夜の空気を重く湿らせている。大人たちの笑い声は、酒気を含んでより一層大きく、野太くなっていった。


 そして、僕の目の前では、ある種の「異様な光景」が展開されていた。


 父ダリウス、隣村の友人オーレン、そして双子の父であるナタの夫。この三人の男たちが、焚き火のそばに陣取り、赤ら顔をさらに真っ赤に染め上げながら、壮絶な親バカ大会を繰り広げ始めたのだ。

 ダリウスは既に半分ほど意識を飛ばしているのか、呂律の回らない口調で僕の銀髪を指差し、誇らしげに胸を叩いている。


「ーー、ーー、アレン! ーー、アレン、ーーッ!」


 一方のオーレンも負けてはいない。

 彼は大きな手で、子供のいない自分たちの代理であるかのようにリリアンを引き寄せ、それから何かを大声で言い返している。


 双子の父に至っては、ミアとリアの両手を掴み、二人を交互に指差しては、「我が家の双子が世界一だ」とでも言いたげな剣幕でダリウスに詰め寄っていた。


 酒の勢いを借りたその「我が子可愛い自慢大会」は、周囲の笑いを誘いながら、夜が更けるまで延々と続いた。僕はマリアの膝の上で、そんな大人たちの滑稽で、けれど愛おしい姿をじっと見つめていた。


(お父さん、ちょっとお酒を飲みすぎだよ。それに、みんな、僕を指差して笑いすぎ……)


 微笑ましい羞恥心が、僕の心をくすぐる。けれど、その賑やかな声こそが、僕がこの世界に望まれて存在していることの、何よりの証明のように感じられた。


 だが、九ヶ月の肉体にとって、祝祭の刺激はあまりにも強すぎたようだ。

 夜が深まり、焚き火の炎がパチパチと爆ぜる音と、遠くで響く歌声が、心地よい子守唄のように僕を包囲し始めた。マリアの身体から伝わる温もり、彼女の衣服に染み付いた料理の匂い。それらが僕の意識を、ゆっくりと微睡みの淵へと誘っていく。


 祭りはまだ終わる気配を見せていなかったが、僕の瞼は鉛のように重くなっていった。


 ようやく祭りの喧騒が片付けへと移行し、人々が家路につき始める頃、僕は母の腕の中で、いつもよりずっと早い眠りの底へと沈んでいた。ダリウスの大きな笑い声も、火の粉が舞う音も、すべては遠い海の底の音のように、穏やかに消えていった。


 ふと、目が覚めた。


 窓の外から聞こえてくる規則的な音に、僕はゆっくりと瞳を開けた。

 そこにあったのは、昨日の狂騒が嘘のような、静謐な朝の光景だった。


 昨夜、あんなにも酒を飲み、顔を真っ赤にして騒いでいた村人たちの姿は、どこにもなかった。

 窓の外を覗くと、そこには既に農具を手にし、いつもの寡黙な表情で畑へと向かう男たちの背中があった。

 腰を曲げて収穫した後の整理を行う女性たち、荷車を引いて黙々と小道を進む老人の姿。昨夜のあの浮ついた、夢のような雰囲気は、まるで潮が引くように綺麗さっぱりと消え去っている。


 この村の人々は、祭りを心底楽しみ、そして一夜明ければ、また何事もなかったかのようにこの「大地」という冷徹な主人の元へと戻っていくのだ。


 その豹変ぶりとも言えるギャップに、僕は少なからず驚きを覚えた。


 前世の僕にとって、祝祭やイベントは「非日常」という特別なイベントであり、その余韻をいつまでも引きずるものだった。

 けれど、ここで生きる人々にとって、祭りはあくまで過酷な労働の一部であり、命を繋ぐための「句読点」に過ぎないのかもしれない。


 階下からは、いつものように朝食の準備を始めるマリアの足音が聞こえてきた。

 扉が開き、ダリウスが少し重そうな足取りで畑へと出て行く気配がする。

 

 僕は布団の中で、ぼんやりと天井を見つめた。

 

(……昨日のことは、本当にあったことなんだろうか)


 昨日見た、タナー老人の立派な長衣。ダリウスの真っ赤な顔。フィナたちの踊り。

 すべてが、遠い国のお伽話か、あるいは一晩だけ見た極彩色の夢のように思えてならない。


 けれど、僕の服の袖に残った微かな燻製の匂いと、昨日よりもほんの少しだけ高く、広く感じられる「世界」の感覚が、あれが現実であったことを静かに教えてくれていた。


 僕は再び、柔らかな眠りに誘われそうになりながら、窓の外の日常を眺め続けた。

 

 祝祭は終わり、また新しい日々が始まる。

 僕がこの足で歩き出し、あの地平線の向こう側へと進むための、長い、長い日常が。

 夢のような余韻と、揺るぎない現実の狭間で、僕は幸せな目眩を覚えながら、新しい朝の光を全身に浴びていた。


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