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第六話:碧天の洗礼、約束の丘

 意識がこの新しい身体に馴染んでから、九ヶ月という月日が流れた。

 

 木村陽平として病室の天井を見上げ続けていた前世の時間は、今や遠い霧の向こう側の出来事のように感じられる。


 僕の身体には、ようやく垂直の重力に抗うだけの力が宿りつつあった。

 木机の脚を支えにして立ち上がり、不器用な足の裏で床の木目をなぞる。そのわずかな感触を確かめていたとき、僕の鼻腔をいつもとは違う鮮烈な「外」の香りがくすぐった。


 窓という四角い額縁に切り取られた空を眺めるだけの毎日は、唐突に終わりを告げた。


 マリアが、いつもの薄手の中着ではなく、丁寧に編み込まれた厚手の毛織物を僕に着せ始めたからだ。彼女の指先は僕の白銀の髪を優しく整え、顔を覗き込んで柔らかく微笑む。彼女の唇が動き、いくつかの音節が溢れた。


「ーー、ーーー。ーー、アレン」


 語られる言葉の意味は、依然として僕の脳には届かない。けれど、その響きの中に混じった僕自身の名前――アレンという響きだけは、宝石のように鮮明に聞き取ることができた。


 彼女の声に含まれた弾むような期待感と、慈しみの熱量は、言葉の意味を越えて僕の胸を静かに震わせた。マリアは僕をしっかりと片腕に抱き、空いた手で使い込まれた重い木製の扉を押し開けた。


 ギィ、という低い軋みとともに、暴力的なまでの色彩と光が、僕の全感覚を叩き起こした。

 

 思わず、瞼を細める。

 

 最初に僕を迎えたのは、室内とは比較にならないほど力強い、秋の冷涼な風だった。


 それはただの空気の移動ではなく、世界のあらゆる情報を運ぶ運び手のようだった。

 乾いた麦の粒、遠くで燃やされる焚き火の煙、湿った土の生命力、そして名もなき野花の微かな芳香。それらが混ざり合い、圧倒的な密度で僕の脳を揺さぶる。


 マリアに抱かれ、一歩、外の大地へと踏み出す。

 視界が、どこまでも、どこまでも突き抜けていた。


 土壁を基調とした家々が立ち並ぶこの素朴な村は、僕が家の中から空想していたよりも、ずっと複雑で、生気に満ち溢れていた。

 道の両脇には、生活用水を運ぶための細い灌漑水路が走り、さらさらと流れる水が陽光を反射して、まるで動く銀の糸のように輝いている。

 家々の壁には、乾燥させるために吊るされたトウモロコシや赤い木の実が彩りを添え、軒先では大きな樽や籠を整理する人々の影が動いていた。


「アレン! ーー、ーーーッ!」


 広場へ向かう道すがら、石を叩くような小気味よい足音とともに、赤毛の小さな嵐が駆け寄ってきた。

 

 フィナだ。

 彼女の頬はいつにも増して林檎のように赤く、瞳は興奮に満ちている。


 彼女の背後からは、同じくらいの背丈をした二つの小さな影が、はにかむように顔を覗かせた。


「ーー、ミア。ーー、リアッ!」


 フィナが弾んだ声で名前を呼ぶと、双子の姉妹、ミアとリアが歩み寄ってきた。


 ミアは、マリアに似た輝かしい金髪を、活発そうに二つのお団子にまとめている。

 彼女は僕を見つけるなり、言葉にならない高い声を上げ、僕の頬に手を伸ばそうと身を乗り出した。


 対照的に、リアは夜の帳を溶かしたような艶やかな黒髪を切り揃え、ミアの服の裾を掴んで隠れるようにしている。

 けれど、その深い色の瞳は、僕の白銀の髪を不思議そうに、そして熱心にじっと見つめていた。


 フィナの赤、ミアの金、リアの黒。三色の髪が秋の陽光に透け、村の風景の中に鮮やかな彩りを与えている。


 そこへ、彼女たちの両親も姿を見せた。

 ミアとリアの隣に立つ屈強な男は、父ダリウスと同様に日に焼けた肌を持ち、その腕には厳しい収穫を支えてきたであろう無数の小傷が刻まれている。

 

 彼はマリアに対して、言葉を交わしながら丁寧な会釈を送り、それから僕を見て優しく目を細めた。マリアとナタは、お互いの名前を呼び合いながら、何事かを囁き合っている。


 村を歩くほどに、新しい音が僕の耳に飛び込んでくる。

 鍛冶場から響く鉄を叩く規則的な重低音。水車小屋が奏でる、唸るような回転音。そして、すれ違う人々が僕を見て発する、温かな音の数々。


「アレン! ーー、ーーー!」

「ーー、ーー、アレン!」


 何を言っているのかは分からない。

 けれど、誰もが僕の名を呼んでいることだけは、はっきりと理解できた。


 この村は、ただの建物の集まりではない。一つの巨大な生き物のように、互いに補い合い、脈動している。


 広場の中心では、ダリウスが他の男たちと共に汗を流していた。


 男たちは大きな樽を運び込み、女たちは色鮮やかな布や干し草の飾りを吊るしている。村全体が、明日へ向けて静かな、けれど確かな熱を帯びているのが肌で感じられた。


「アレン! ーー、ーーー!」


 ダリウスが僕たちに気づき、顔を輝かせて駆け寄ってきた。

 

 彼は僕をマリアの腕から受け取ると、高く抱き上げた。

 彼の衣服からは、濃厚な「大地と汗」の匂いがした。ダリウスは周囲の農夫たちに僕を見せびらかし、胸を張って僕の名前を何度も口にしている。


 そこへ、杖を突く重厚な足音とともにタナー老人が現れた。白く長い髭が風に揺れ、鷲のような鋭い瞳が僕を射抜くように見つめる。


「ーー、アレン」


 タナー老人は節くれ立った大きな手で僕の頭をそっと撫でた。

 その掌は驚くほど熱く、分厚い。彼が発した低く重い声は、大地の底から響く振動のように、僕の胸を心地よく震わせた。


 一通りの挨拶を終えたあと、ダリウスとマリアは静かに目配せをし、僕を連れて村の端へと歩き出した。

 賑やかな広場の喧騒が背後へ遠ざかり、代わりに草を踏み締める柔らかな音が耳に届くようになる。緩やかな傾斜を登りきった先、村の北側に位置する小高い丘に僕たちは辿り着いた。


 そこは、村で最も空に近い場所だった。

 

 そして丘の中央には、天を衝くほどに巨大な一柱の大木がそびえ立っていた。

 何百年、あるいはそれ以上の歳月を、この地で見守り続けてきたのだろう。その幹は大人数人がかりでも抱えきれないほど太く、樹皮はタナー老人の手のように深く刻まれた皺を湛えている。

 広大に広げられた枝葉は、秋の陽光を複雑に透過させ、地面に美しい木漏れ日の模様を描き出していた。


 ダリウスが僕をさらに高く掲げ、その枝葉の向こう側を見せるように身体を向けた。


 その瞬間、僕は息をすることさえ忘れた。

 視界を遮るものは、もう何もない。眼下には、僕たちが暮らす村の全景が、精巧な箱庭のように広がっていた。黄金色に染まる麦畑が風に撫でられて波打ち、人々の営みが小さな色彩の点となって動いている。だが、驚きはそれだけではなかった。


 視線をさらに遠くへ向ければ、深い森を挟んだ先に、オーレンたちの住む隣村の家々から立ち上る細い煙が見える。


 そしてそのさらに先、地平線のかなた。霞の向こう側に都市の影が、蜃気楼のようにうっすらと、けれど確かにそこに存在していた。石造りの塔の先端だろうか、何かが陽光を反射して、星のようにキラリと輝いている。


 広い。なんて、広いんだ。 


 僕がこれまでの九ヶ月間、「世界」だと思っていたあの家が、どれほど小さく、愛おしい箱庭だったかを思い知らされる。

 頭上に広がるのは、吸い込まれるようなコバルトブルーの蒼穹。地平線まで続く、圧倒的な空間の質量。前世の僕を閉じ込めていたあの「白い天井」など、この広大さの前では無に等しい。


 僕は今、この果てしない世界の上に立ち、生きている。

  

 その事実が、極大の感動となって、僕の全身の細胞を激しく震わせた。

 指先にまで熱い血が巡り、魂が「もっと遠くへ」と叫んでいるような錯覚さえ覚える。


 僕は、自分の白銀の髪が風に煽られるのも構わず、精一杯に手を伸ばした。


 あの輝く地平線の先には、一体何があるのだろう。いつか、この健康な足であの街まで、いや、そのもっと先まで、自分の意志で駆けていくことができる。


 マリアとダリウスが、僕を間に挟んで寄り添い、穏やかな眼差しで景色を眺めている。

 

 彼らは懐かしさと深い愛情が滲む顔で、お互いの名前を呼び合っていた。

 ここが二人にとって、そしてこれからの僕にとって、かけがえのない約束の場所になるのだという予感があった。この巨大な大樹が見守る丘の上で、僕の冒険は静かに、けれど決定的な産声を上げたのだ。


 夕暮れが近づき、村は深い橙色の静寂に包まれ始めた。


 丘を降り、家に戻る頃には、広場では明日の何らかの祝典に向けた準備が最終段階に入っていた。

 焚き火のための薪がうず高く積まれ、家々の窓からは、特別な料理を仕込む香ばしい匂いが立ち上っている。


 以前は母の温かな乳だけが僕のすべてだったけれど、最近では木匙で運ばれる離乳食がその役目を受け継ぎつつある。

 今夜の夕食は、収穫されたばかりの滋養豊かなカボチャと穀物を丁寧に潰した粥だ。木匙で運ばれるその温もりを飲み下すたび、今日見たあの広大な景色が、僕の血肉へと変わっていく感覚があった。


 僕はアレン。名もなき村の、あの大きな木が見守る丘で、世界の広さを知った少年。


 窓の外では、明日への予感を含んだ風が、麦の海を優しく撫でている。僕はマリアの心音を聞きながら、瞼の裏に残るあの地平線の輝きを道標に、深い、深い眠りの淵へと誘われていった。


 一日の終わりの、最高に瑞々しい余韻。明日はきっと、今日よりももっと輝かしい音が村に響き渡るだろう。僕はその正体を知らぬまま、幸せな重力に身を任せて、深い微睡みの中へと堕ちていった。

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