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第四話:這い寄る好奇心と、重なる音節

めっちゃほのぼのしてます

 産声を上げたあの白銀の記憶から、季節は静かに、けれど確実にその色彩を変えていった。


  窓の外に広がる麦畑は、当初の瑞々しい青さから、太陽の光をたっぷりと蓄えた深い緑へと色付き、風が吹くたびに波打つような音を立てるようになった。僕がこの未知の世界に降り立ってから、およそ半年という月日が流れたのだ。


  この半年という時間は、僕にとって爆発的な「生」の拡張そのものだった。視界はもはや霧に覆われてはいない。

 色彩は鮮やかに、輪郭は鋭く僕の脳に刻まれる。そして何より、僕を最も歓喜させているのは、自分の意志でこの肉体を「移動」させることができるようになったという事実だ。


(……よし。あそこまで、あと少しだ)


  僕は、木のぬくもりが伝わる床の上に四つん這いになり、全身の筋肉を震わせながら、一歩、また一歩と前へ進む。


 そう、「ハイハイ」だ。


 両手で床を掴み、両膝で大地を蹴る。首を持ち上げ、行きたい場所を見据える。たったそれだけのことが、今の僕にとっては「大陸横断」にも等しい大冒険だ。床の木目は広大な地図のように見え、家具の脚は天を突く巨塔のようにそびえ立っている。


  僕の好奇心は、自分でも制御できないほどに旺盛だった。部屋の隅にある埃の舞う影、母が落とした刺繍糸の切れ端、暖炉のそばで鈍く光る鉄の道具。目に映るものすべてが、触れなければならない「未知」として僕を誘惑する。


 僕は必死になって、この小さな四肢を駆動させ、部屋中を這いずり回った。


「――ッ! ーー、ーーーッ!」


  背後から、悲鳴に近い情けない声が聞こえてくる。振り返らなくてもわかる。父、ダリウスだ。


  彼は、僕が移動を開始したその瞬間から、常に僕の後ろを、腰を屈めながらおどおどと追いかけてくる。僕が少しでも暖炉の火に近づこうとしたり、段差のある場所に手をかけようものなら、彼はこの世の終わりを目撃したかのような顔で僕を慌てて抱き上げるのだ。


  父の心配性は、僕がハイハイを習得してからというもの、どんどん加速を続けていた。


 彼は農作業から戻ると、泥も落とさずに僕の元へ駆け寄り、僕がどこか怪我をしていないか、変なものを口に入れていないか、隅々まで検品するように確認する。


 質素な衣服の下に筋肉質な肉体を隠した父だが、僕を扱う時は驚くほど繊細だ。その不器用な、けれど震えるほどに優しい手が僕を掬い上げ、胸の中に閉じ込める。


「ーー、ーー……。ーーッ!」


  彼の発する音の意味はまだ正確には理解できない。けれど、その響きには「危ないよ」「お願いだからじっとしていてくれ」という、切実なまでの親心が詰まっているのが、その表情から痛いほど伝わってきた。


(お父さん、ごめんね。でも、僕は動けることが、嬉しくてたまらないんだ)


  僕は彼の胸の中で、言葉にならない音を漏らす。最近、僕の喉からは意志を持った響きが漏れるようになっていた。


「だ……りゅ、ぅ……」


  未発達な舌と唇を懸命に動かし、僕を呼ぶあの「音」を真似てみる。父の名であるらしい、あの響きを。


 その瞬間、父の動きが止まった。


 彼は目を見開き、一瞬、呼吸を忘れたかのように静止する。そして次の瞬間、彼の顔はダムが決壊したかのように崩れ、鼻を赤くして僕を強く、けれど痛くない絶妙な力加減で抱きしめた。


「ーーッ! ーーー、ーーーッ!」


  彼は狂喜乱舞し、僕を抱えたまま、台所にいる母の元へ駆け込んだ。母もまた、父の興奮した様子に驚きながらも、僕の口から漏れた不完全な音節を聞き、その美しい顔を聖母のように綻ばせた。


「ま……ぃ、ぁ……」


 母、マリア。慈愛に満ちた、僕の母。

 彼女の名前を呼ぶと、彼女は僕の額に何度も何度も、柔らかな唇を押し当ててくれた。


 僕が発する「だりゅぅ」や「まぃぁ」といった音は、まだ大人の耳にはおぼつかない、滑稽な赤ん坊の鳴き声に過ぎないのかもしれない。

 けれど、その音節を交わすたびに、僕たちの間に透明な「絆の糸」がさらに太くなっていくのを感じる。


 他人の言葉を意味として聞き取るのは、まだ難しい。彼らの会話は、僕の耳には心地よい音楽の連なりのようにしか届かないけれど、そこに込められた感情の色だけは、驚くほど鮮明に理解できた。


---


  そんなある日の午後、家の中は一際賑やかな空気に包まれていた。ドタドタという、もはや聞き慣れた「嵐」の足音。


「ーーーッ! ーー、ーーー!」


 お姉さん気取りのフィナだ。


 二歳年上の彼女は、燃えるような赤毛を短く切り揃え、リスのように活発な瞳を輝かせている。丸い頬はいつも林檎のように赤く、僕の顔を見るなり、よだれを拭う間もなく駆け寄ってくる。


 彼女は半年が経っても、僕に対する熱烈な「弟愛」を微塵も衰えさせてはいなかった。

 いや、僕が動けるようになったことで、彼女のターゲットとしての面白さはさらに増したのだろう。彼女は床に這いつくばる僕の隣に並び、「ーー、ーー!」と自分もハイハイをしてみせたり、僕の行く手を阻むように立ち塞がったりする。


 彼女にとって僕は、守るべき対象であると同時に、最高の「遊び道具」なのだ。


「ーー、フィナ。ーーー、ーー」


  フィナの後ろから、穏やかで落ち着いた女性の声が聞こえた。母と親しげに話し、時折フィナを優しく、けれどしっかりと窘めるその女性。

 名前を「ナタ」というらしい。


 ナタは、母よりも少しだけ背が高く、その立ち居振る舞いには村の生活を長年支えてきた女性特有の逞しさが備わっている。

 焦げ茶色の髪を実用的に後ろで束ね、日焼けした肌には健康的な艶があった。


 彼女がフィナを慈しむように見つめる仕草は母が僕を見る時のそれと酷似しており、僕は彼女がフィナの母親だろうという推測を立てていた。


  彼女たちは台所でスープを煮込む火の音を聞きながら、何事かを延々と語り合っている。フィナが僕を無理やり抱きかかえようとして、僕がその腕からスルリと抜け出そうとする様子を、彼女たちは微笑ましそうに、時折楽しげな笑い声を上げながら眺めている。


(ナタさん……。お母さんの、とっても仲の良いお友達なのかな?)


  この二人の女性が醸し出す穏やかな空気こそが、この家を包む「平和」の象徴なのだということは、揺り籠の中から見ていた頃よりもずっと強く、肌で感じることができた。


---


 そして、この時期になると、もう一人、家によく顔を出す人物がいた。白く長い髭を蓄え、いつも大きな杖を突いて、ゆっくりと、けれど確かな足取りでやってくる老人。


「ーー、タナー」


 父や母が、彼をそう呼ぶ。タナー。それが彼の名前なのだろう。


 彼は深く刻まれた皺の間に、鷲のような鋭さと、泉のような深さを湛えた瞳を持っている。日に焼けて黒ずんだ皮膚は樹皮のようだが、杖を握るその手は驚くほど力強い。


 彼は家に来るたびに、部屋の真ん中にどっしりと腰を下ろし、僕のハイハイする様子をじっと眺めている。その視線には、他の村人たちのような「可愛い」というだけの感情とは異なる、何か深い慈しみのようなものが混ざっている。


 彼が一声発すると、父は少しだけ背筋を伸ばし、母はいつもより丁寧な仕草で茶を差し出す。その様子から、僕はタナーという老人が、この小さな集落において何か特別な役割――例えば、みんなをまとめ上げる立場にあるのではないかと、あやふやながらに理解し始めていた。


 タナーは、僕が彼の足元まで這って行き、その服の裾を掴むと、快活に笑い、その節くれ立った大きな手で僕の頭を撫でてくれる。


「ーー、ーーー。ーーー、ーー」

 

 彼の声は、古びた大地の響きに似ていた。

 

 彼は何らかの相談に乗ったり、父たちに指示を与えたりしているようだった。家の中から出られない僕にとって、タナーという存在は、この村という共同体を繋ぎ止める大きな柱のように見えていた。


---


 食事の時間。

 これまでは母の胸から直接、温かな乳を受け取るのが僕の食事のすべてだった。今でもそれは僕にとって最も安心できる至福のひとときだ。

 けれど、最近ではそれとは別に、母が木匙きさじで運んでくる「新しい味」が食卓に並ぶようになった。


 それは野菜や穀物をトロトロになるまで丁寧に煮込んだ、素朴な粥のようなものだ。


 母の膝の上で、僕は少しだけ緊張しながら口を開ける。乳の濃厚な甘みとはまた違う、大地の滋養を凝縮したような深い味わい。木匙が唇に触れる硬質な感触、温かい粥が喉を通っていく確かな重み。


 一口食べるごとに、僕の肉体はさらに頑健になり、ハイハイをするための筋力が内側から湧き上がってくるような気がする。母乳が「安らぎ」であるなら、この食事は「力」だ。


 父が育てた野菜を、母が丹念に潰してくれたもの。

 それを飲み下すたび、僕はこの家の、この土地の一部になっていく感覚を覚える。マリアは僕の口元についた粥を指で優しく拭い、僕が満足そうに声を上げると、これ以上ないほど幸せそうに微笑むのだった。


---


 夕暮れ時。

 ナタとフィナが帰り、タナーもまた「ーー、ーー」と穏やかな挨拶を残して去っていく。家の中に、いつもの三人だけの、親密で静かな時間が戻ってくる。


 父は、僕が今日一日、どこまで這って行ったかを母に熱心に報告している。その報告はまるで歴史的な大発見を語る冒険者のように誇らしく、そして同時に「次はあそこまで行くかもしれない」という怯えに満ちていた。母はそんな彼を笑い飛ばしながら、僕を抱き上げ、衣服を緩める。


「ま……ぃ、ぁ……だ……りゅ、ぅ」


 僕が交互に二人を呼ぶと、彼らは顔を見合わせ、この上なく幸せそうに微笑み合う。


 一か月前よりも僕の体重は増えた。腕には確かな力が宿り、足は大地を蹴る感触を覚えた。かつて願った「健康な肉体」が、今、僕の中に脈動している。


 父は、僕の足裏をくすぐり、小さな声を上げて笑っている。


 彼は時折、僕がハイハイする姿を見て、静かに、けれど幸せそうに涙を浮かべることがある。


 彼にとって、僕が自分の力で自由に動けるようになることは、何か信じられない奇跡を目撃しているような、そんな心境なのだろう。彼の不器用な、けれど世界で一番優しい手。


(お父さん。僕はどこにも行かないよ。今はまだ、この家が僕の世界のすべてなんだ)


 僕は父の小指をぎゅっと握りしめる。今の僕は、彼の手を、母の愛を、この不確かな「明日」を、その小さなてのひらでしっかりと掴み取ろうとしている。


 夜の帳が、ゆっくりと村を包み込んでいく。暖炉の火が爆ぜる音。遠くで聞こえる、夜を告げる虫の声。半年前にはただの「音」でしかなかったものが、今や豊かな「情景」を伴って僕の心に染み渡っていく。


 アレンとしての半年。それは、一人の無力な存在が、この大地の住人としてその根を下ろしていくための時間だった。這いずり回り、汚れ、泣き、そして笑う。そんな当たり前の営みが、僕にとってはどんな物語よりも眩しく、尊いものに感じられた。


  僕は母の心音を聞きながら、深い、深い眠りの淵へと誘われていく。

  明日になれば、僕はまた一歩、今日よりも遠くへ這って行くだろう。フィナに振り回され、父を慌てさせ、母の笑顔を独占しながら。


 一か月の静寂は過ぎ、半年の喧騒が僕を育てた。


 僕はもう天井を見上げるだけの存在ではない。自分の目で行きたい場所を見つけ、自分の力でそこへ辿り着く。そのささやかな自由が、僕にさらなる明日への期待を抱かせてくれる。


 一日の終わりの静寂。僕は確かな生命の予感と共に、静かに、深く瞳を閉じた。

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