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第三話:喧騒の祝福と、小さなお姉さん

 産声を上げてから、この世界での暦でおよそ一か月という月日が流れた。


 僕の視界はさらに解像度を増し、当初はただのぼんやりとした光の塊だった世界は、今や輪郭を持った確かな実像として僕の瞳に映り込んでいる。首はまだ座っていないけれど、横を向くだけで飛び込んでくる情報の多さに、前世のあの閉ざされた病室では決して味わえなかった瑞々しい刺激を感じる毎日だ。


 この一か月、僕の小さな世界――この家という名の聖域――は、驚くほど騒がしかった。

 この村の人々は、どうやら新しい命の誕生を「奇跡」か「お祭り」のように捉えているらしい。僕が揺り籠の中でまどろんでいると、遠慮のない音を立てて扉が開かれ、知らない顔が次々と僕の視界に割り込んでくる。


(……ふぅ。今日も、始まったか)


「ーーー、ーーーッ!」

 

「ーー、ーーー……!」


 覗き込んでくる、シワの刻まれた顔や、日焼けした逞しい顔。彼らは一様に、蕩けるような笑顔で僕の頬を指先でつついたり、あやすような変な声を上げたりする。


 前世の僕にとって、これほどまでに他人から無条件の好意を向けられ、肯定される経験は一度もなかった。だから、最初はそれがたまらなく嬉しくて、僕は一生懸命に愛想笑いを振りまいていたのだけれど、さすがに連日の「よいしょ」攻勢には少しばかり疲労を感じ始めていた。


 僕はただの赤ん坊としての反応を求められている。手足をバタつかせ、あうあうと声を漏らす。そのたびに「なんて元気な子なんだ!」「将来は大物になるぞ!」といった意味の、熱烈な響きが部屋を満たす。彼らの善意は本物で、濁りがない。だからこそ、僕は「期待される完璧な赤ん坊」というロールを演じ終えるたび、心地よい脱力感と共に深い眠りへと逃げ込むのが日課になっていた。


 そんな賑やかな来客たちの中でも、特に頻繁に現れる「特定の音」を持つ存在がいる。


 「ーーーッ! ーー、ーーー!」


 ドタドタと元気な足音を響かせ、大人たちの股をくぐり抜けてやってくる小さな影。僕よりも少しだけ大きな子供。

 彼女の名前は「フィナ」というらしい。父や母が彼女をそう呼ぶ音を、僕は既に聞き分けられるようになっていた。

 フィナは、僕をまるで自分だけの大切なお人形であるかのように扱ってくれる。彼女の愛情表現は大人たちのような手加減がなく、いきなり僕の手を握って振り回したり、僕の顔に自分の顔を押し付けてきたりする。


(フィナ……。嬉しいけど、その小石は、やっぱりいらないよ)


 彼女は時折、どこかで拾ってきた平らな小石を僕の胸元に置いていく。彼女なりの「宝物」の共有なのだろう。マリアが困ったような、けれど慈しみ深い笑みを浮かべて彼女を宥めるけれど、フィナの情熱は止まらない。


 彼女が僕に何を求めているのか今の僕には分からない。ただ、彼女がこの家において、僕のことを「自分より小さな守るべきもの」として認識していることだけは、その不器用な手の温もりから伝わってきた。


---


 ある日の午後、家の中にいつもとは違う、少し「新しい」匂いが混ざった。

 玄関の方で、ダリウスとマリアがいつも以上に華やいだ声を上げている。やってきたのは、村の外の空気を感じさせる、二十代後半ほどの若い男女だった。


 「オーレン、ーー! ーー、リリアン!」


 ダリウスがそう呼ぶのが聞こえた。どうやら、男が「オーレン」で、女が「リリアン」という名前のようだ。

 二人は僕の揺り籠の横に膝をつき、まるで未知の宝石でも見るような好奇心に満ちた視線を向けてきた。


 オーレンは、ダリウスよりもさらに逞しく、その肌は太陽の熱を強く吸い込んだような褐色をしていた。


 「ーー、ーーーッ」


 彼が差し出した指は太く、ゴツゴツとしていて、表面には無数の小さな傷や吸い付くようなマメが刻まれている。日々、厳しい大地と対峙し、汗を流して生きている男の象徴。その指が僕の小さな手のひらに触れた時、僕はそこに圧倒的な「力」の残滓を感じた。


 その隣で、リリアンが柔らかな微笑みを浮かべている。


 彼女はマリアと親しげに肩を寄せ合い、時折僕の頬を、羽毛のような優しさで撫でる。

 リリアンからは、マリアの匂いとは違う、少しスパイシーで野性的な、花の蜜のような匂いがした。彼女が僕を抱き上げた時、はだけた胸元から覗く肌の質感はしなやかで、マリアとはまた違う「生の形」を予感させた。


 彼女は僕を見つめながら、どこか憧憬しょうけいを含んだような、熱っぽい瞳を向けていた。彼女が僕を抱く腕の、壊れ物を扱うような慎重さと震えには、純粋な祝福以外の何かが混ざっているような気がした。


(オーレン。リリアン。……素敵な名前だ)


 僕は二人の発する不確かな音節を、脳の隅に刻み込む。


 彼らはダリウスとマリアの、大切な誰かなのだろう。二人がやってきてからというもの、家の中の空気はより一層温かく、そして賑やかになった。ダリウスは誇らしげに鼻を膨らませ、マリアはいつも以上に手際よく、リリアンのために茶を淹れていた。


---


 やがて日が傾き、来客たちの賑やかな足音が遠のいていく。

 黄金色の夕闇がゆっくりと部屋の奥まで侵食し、僕の揺り籠を橙色の光が包み込む。

 村の人々の熱烈な祝福も、フィナの嵐のような抱擁も、オーレンたちの新しい風も、すべてが静寂の中に溶けていく。


 「ーーー……」


 マリアが僕を抱き上げ、衣服の紐を緩める。


 豊かな胸が露わになり、彼女の肌の熱が僕の顔に直接伝わってくる。一か月経っても、この瞬間だけは慣れることがない。


 彼女の乳房は、命を繋ぐための「器」として、どこまでも柔らかく、温かく、そして剥き出しの生々しさに満ちている。


 僕はその乳首に吸い付いた。


 温かな、ほんのりと甘い液体が口の中に広がり、空っぽだった胃を、そして魂を満たしていく。

 マリアは僕を抱きながら、僕の細い足の指を一歩ずつ、愛おしそうになぞっていく。その感触があまりに心地よくて、一日の来客疲れが、水に溶けるインクのように消えていくのが分かった。


 ダリウスは、仕事着の泥を落とさないまま、傍らに座り込んでその様子を眺めていた。


 彼は時折、僕の小さな手に自分の小指を握らせる。

 僕が力を込めてそれを握り返すと、彼はそれだけで「奇跡だ」と言わんばかりに目を見開き、マリアと顔を見合わせて声を出さずに笑い合うのだ。


 彼は相変わらず、僕を抱く時におどおどして、どこか頼りなげな部分がある。けれど、その不器用な手のひらには、僕をこの過酷かもしれない世界から守り抜くという、静かな、けれど絶対的な覚悟が宿っていた。


(お父さん、本当に優しい人なんだな...)


 僕はダリウスの少し情けないけれど、誰よりも優しい顔を見上げた。

 彼は決して、英雄や王様ではない。

 けれど、この小さな家という王国を、彼は自分のすべてを使って守ろうとしている。


 ふと視線を横に向けると、フィナがいつの間にか僕の揺り籠の横で、丸くなって眠っていた。

 騒ぎ疲れたのだろう、彼女の寝顔はさっきまで嵐を巻き起こしていたとは思えないほどに穏やかだ。彼女が置いていった「宝物」の小石は、マリアによって机の上に、大切に並べられている。


 夜の帳が、ゆっくりと村を包み込む。

 この場所には、国家も、歴史の闇も、勇者の呪いも届かない。

 ただ今日という一日を、大切な人々に見守られて過ごせたという、圧倒的なまでの充足感。


 「ーー……ーーー」


 ダリウスが僕の額に、慈しみのこもった口づけを落とす。

 マリアが僕を寝かしつける、優しい、透明な鼻歌。

 

 一か月前、僕は自分が「アレン」であることを音として受け入れた。

 そして今、僕はアレンという存在が、これほど多くの熱量を持ち、多くの人々に望まれてここにいることを、肌で、心で、実感している。

 

 来客たちの過剰な褒め言葉に疲れることもあるけれど、それはこの上なく幸福な疲れだ。

 前世の僕が、独りきりの病室で、神様にも見捨てられたような孤独の中で、死ぬほど欲しかったそのすべてが、今、この土の匂いのする小さな家の中に溢れている。


 僕は、幸せだ。

 心の底から、そう思った。


 明日になれば、またフィナがドタドタとやってきて、僕を振り回すだろう。

 村の人たちが、また僕の頬をつつきにやってくるだろう。

 けれど、そのすべてが、僕がこの世界で「生きている」証なのだ。


 僕はマリアの心音を子守唄代わりに聞きながら、静かに、深く瞳を閉じた。

 健康な肉体。温かな家。そして、僕を愛してくれる、不器用で、真っ直ぐな人々。

 それだけで、今の僕には十分すぎるほどだった。

 

 アレンとしての最初の一か月が、黄金色の静寂の中で溶けていく。

 僕は、前世の冷たい記憶を完全に振り払うように、深く、安らかな眠りに落ちた。

 明日、目が覚めれば、僕はまた少しだけ、この愛おしい世界を好きになっているはずだ。


 そう確信しながら、僕は新しい人生の、記念すべき最初の一か月を締めくくった。

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