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第二話:微睡みの境界と、黄金の静寂

 眩い。


 瞼の裏側を、優しく、けれど抗いがたい力強さで押し広げてくるような、柔らかな光の重なり。

 僕は意識の底からゆっくりと浮上しながら、かつての僕を四六時中縛り付けていた、あの無機質な電子音を無意識に探していた。規則正しく、僕の命の終わりを嘲笑うかのように響き続けていた、あの冷徹なメトロノーム。けれど、そこにあるのは完全な静寂ではなかった。


 代わりに聞こえてきたのは、もっとずっと不規則で、生々しい「世界の呼吸」だった。

 どこか遠くで鳴く、野太い動物の声。

 風が建物の隙間を通り抜ける際に鳴らす、低い口笛のような音。

 そして、すぐ近くで聞こえる、誰かの穏やかな、そして深く確かな寝息。


(ああ……夢じゃなかったんだ)


 僕はゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。

 前世で、末期の病に侵されていた頃、僕にとって「目覚める」という行為は、ただ苦痛が継続することを確認する儀式でしかなかった。目を開けた瞬間に襲いかかる刺すような激痛と、自分の意志では指一本動かせない四肢の絶望感。けれど、今の僕を包んでいるのは、そんな冷たい拒絶ではない。


 身体が、驚くほど軽い。

 ただそこに横たわっているだけで、指の先、爪の裏まで新鮮な血液が巡っているのが、熱として伝わってくる。

 肺が、誰に強制されるでもなく、僕の意思で大きく膨らんでいる。

 酸素という名の生命力を存分に吸い込み、全身の細胞が歓喜に震えているのが分かった。

 視界はまだ、水の中にいるようにぼんやりとしているけれど、昨日見たあの藁の混じった土壁の天井が、朝日を浴びて黄金色に輝いているのがはっきりと見えた。


「……ッ、ーー……」


 不意に、視界が遮られた。

 ぬう、と大きな影が僕を覗き込んできた。

 昨日、僕を抱きかかえて、壊れ物を扱うように震えていた、あの細身の男――父だ。


 朝の逆光を背負った彼のシルエットは、どこか不思議な威厳があるようにも見えたけれど、その顔は相変わらず情けなく崩れている。

 彼は僕と目が合うと、はっとしたように息を呑み、それから恐る恐る、僕の頬に手を伸ばした。


「ーー、ーー……。ーーー、ーー!」


 何を言っているのかは、全く分からない。

 けれど、彼の声は昨日の夜よりもずっと明るく、弾んでいた。

 父の指先が、僕の頬を、まるで壊れやすい薄氷をなぞるように滑る。

 その指は少しザラついていて、独特の土の匂いがした。前世の病院で僕に触れていた、清潔だが無機質なゴム手袋の冷徹な感触とは正反対の、泥臭い命の匂い。彼は僕をゆっくりと抱き上げると、あどけない少年のように破顔した。


「ーー……、ーー」


 僕を抱く彼の腕は、細身に見えて驚くほど力強く、そして安定していた。

 麻の服の上からでも伝わってくる、節くれ立った筋肉の躍動。

 それは、大地を耕し、家族を守るために日々積み上げられた「生きていくための力」の結晶だ。

 父は僕を抱えたまま、窓際へと歩み寄った。

 そこで僕は、初めてこの世界の「色」を本当の意味で目撃することになる。


(綺麗だ……)


 窓の外には、朝露に濡れてきらきらと輝く麦畑が、地平線の向こうまで続いていた。

 空は驚くほど高く、澄み切った青。

 そこには空を切り裂くビル群も、排気ガスの層もない。ただ圧倒的な自然の営みだけが、そこにあった。


 空気が、甘い。

 土と、青い草と、朝の冷気が混じり合った、最高級の香辛料のような匂い。

 僕は思わず、その景色をさらに深く、この新しい瞳に焼き付けようと見開いた。


「ーー? ーーッ、ーー!」


 父は、僕が外の景色に興味を示したと思ったのか、さらに嬉しそうに声を弾ませた。

 彼は僕をあやしながら、部屋の中をゆっくりと、一定のリズムで歩き回る。その揺れが心地よく、僕の未発達な感覚を優しく刺激した。


 母はベッドの上で、まだ深い眠りについていた。

 朝の光に照らされた彼女の横顔は、神殿の彫刻のように美しかった。出産の疲れがまだ残っているのだろう。はだけた胸元を隠すこともなく、穏やかな呼吸を繰り返している。


 彼女の趣味だという裁縫道具が、机の上に無造作に散らばっているのが見えた。色とりどりの刺繍糸。それは、僕が前世の白い世界で一度も目にすることのなかった、鮮やかな日常の断片だった。


「――……、――」


 父の囁くような呼びかけに、母がゆっくりと目を開けた。

 彼女は眠たげに目を擦り、それから僕たちの姿を見つけると、世界中の光を凝縮したような微笑みを浮かべた。彼女はベッドに横たわったまま、父の手から僕を受け取る。その瞬間、僕の身体は柔らかい、圧倒的な「母性」の熱に包まれた。


「ーー……。ーーー……」


 母は愛おしそうに僕の頭を自身の胸に押し当て、その豊かな乳房を僕の口元に運んだ。

 剥き出しの生命のやり取り。乳首から溢れ出る温かな液体は、単なる栄養素の塊ではない。僕をこの世界に繋ぎ止めるための、熱い、血の通った「契約」だ。


 彼女の柔らかな肌の質感、浮き出た細い血管の生々しさ、そして命を吹き込むような乳の濃厚な甘み。

 僕はなりふり構わず、夢中でそれに吸い付いた。

 飲めば飲むほど、僕の身体の芯が、凍えていた魂が、じんわりと温まっていくのが分かった。

 前世で鼻から管を通され、冷たい液体を無機質に流し込まれていた頃の、あの惨めな絶望はもうどこにもない。僕は今、自分の口で、自分の胃で、誰かの無償の愛を直接受け取っている。その根源的な喜びに、僕は視界が滲むのを感じた。


 母は僕を抱いたまま、窓の外の麦畑を見つめ、何事かを優しく呟いた。

 彼女の声は、朝の光に溶けていく透明な旋律のようだった。何を言っているのかは分からないけれど、それはきっと「おはよう」とか、そんな当たり前の言葉に違いない。そして、その「当たり前」が、今の僕にとっては奇跡そのものだった。


 産後二日目の朝。

 僕の新しい人生は、こうして穏やかに、けれど確かな生命の躍動と共に動き出した。


---


 それから一週間ほどが経過した。

 僕の視界は少しずつ明瞭になり、この「家」という世界の解像度が上がっていく。

 わかったことがいくつかある。


 まず、父――後に「ダリウス」という音で呼ばれるその男――は、本当に、呆れるほどに優しいということだ。

 彼は農作業の合間を縫っては、土にまみれた姿で家に戻ってくる。そして僕の顔を覗き込んでは、「ーー、ーー」と、壊れやすい宝物を検品するかのように語りかけてくる。


 どうやら彼は、初めての子育てに対して、驚くほどの恐怖と責任を感じているようだった。僕が少しでもぐずれば、彼はこの世の終わりかのような悲痛な顔で慌てふためき、僕を抱き上げる手がガクガクと震えている。

「僕なんかが、こんなに柔らかいものを抱いていいのか」とでも言いたげな、その頼りなげな背中を、母が呆れたように、けれどこの上なく愛おしそうに宥める。それが、この家の午前中の、決まった風景だった。


 母――「マリア」と呼ばれるその女性――は、慈愛そのものを擬人化したような人だった。

 彼女は家事の合間に、僕を膝の上に乗せて裁縫をするのが好きだった。色とりどりの糸が、彼女の驚くほど器用な指先によって、柔らかな布の上に花や動物の形となって踊り出す。

 彼女は刺繍をしながら、時折僕の顔を見つめ、慈しむように特定の音を繰り返す。


「ーーー……」


 それが僕に与えられた名なのだということを、僕は音の響きとして理解し始めていた。


(ア……レン。アレン、なのかな?)


 前世の名前は、もう遠い霧の向こう側へと追いやられている。今の僕はアレン。この、優しい土の匂いと焼きたてのパンの香りがする家の一員。


 家の中は、決して広くはない。

 けれど、そこには生活のすべて、生きるためのすべてが詰まっていた。

 壁に無造作に掛けられた父の農具。母が毎日磨き上げている木製の食器。そして、僕のために用意された、歪なほどに丁寧に縫われた産着。

 どれもが、誰かの手が、誰かの時間が、直接かけられたものだ。無機質なプラスチックや冷たい金属に囲まれていた前世とは、あまりにも手触りが違う。


 この一週間で、僕は家の中に「自分たち以外の誰か」が来ることも知った。

 一度だけ、白く長い髭を蓄えた老人が家を訪ねてきたことがあった。彼は父と親しげに話し、僕の頭を大きな、節くれ立った手で撫でた。


「ーーー、ーーー」


 老人の声は、古びた楽器のように低く、深い響きがあった。

 父が誇らしげに、けれど少し気恥ずかしそうに僕を掲げるように抱え上げると、老人は快活に笑い、僕の瞳をじっと覗き込んだ。

 その時、僕は初めて「家族以外の大人」という存在を間近で観察した。老人の顔に深く刻まれた無数の皺。それは、この場所で何十年もの冬を越えてきた歴史そのものだった。


 老人が帰った後、父は僕を抱いたまま、いつまでも玄関に立ち尽くしていた。

 彼にとって、僕を誰かに見せることは、何かとても重要な、一種の「誇り」を意味していたようだった。彼の背中から伝わってくる温かさが、僕の小さな背中を包んでいた。


---


 一週間が過ぎ、僕は家の中から聞こえてくる「音」を、ある種の心地よいパターンとして認識できるようになっていた。


 早朝、一番鶏が鳴き、世界が始動する。

 外から聞こえる、水を汲み上げるような規則的な音。

 誰かが道を通り過ぎる際に交わす、飾り気のない、けれど陽気な声。

 それらすべてが、大きな調和となって、この小さな場所を包み込んでいる。


 この場所には、争いというものが存在しないように見えた。

 少なくとも、僕の届く範囲の音の中には。

 皆がお互いを気にかけ、誰かが困っていれば当然のように助け合う。そんな空気感が、二人の穏やかな表情からも伝わってくる。

 ただ今日一日を無事に終え、愛する人と食卓を囲み、明日の収穫を祈る。

 それだけのことが、どれほど純粋で、貴く、そして難しいことか。前世で「当たり前」をすべて奪われていた僕は、誰よりもその価値を知っている。


 僕は、母の腕の中で微睡みながら、自分の「現在地」を噛みしめた。

 この世界は、きっと広い。

 窓から見える麦畑の向こうには、まだ見ぬ景色が無限に広がっている。

 けれど、今の僕にとって、この温かな土壁の家と、少し頼りない父、そして慈愛に満ちた母。それだけが、世界のすべてだった。


(もし……僕がいつか、ここから踏み出す日が来るとしたら)


 ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。

 けれど、僕はそれをすぐに打ち消した。

 今の僕には、まだ自分の身体さえ支えられない、か細い足しかない。自分一人では何一つできない、無力な赤ん坊だ。

 けれど、それが堪らなく誇らしかった。


 誰かに助けてもらわなければ生きていけないということ。

 それは、裏を返せば、これほどまでに誰かに守られ、全肯定され、愛されているということなのだから。

 それは、前世の孤独な病室では、逆立ちしても手に入らなかった「無敵の特権」だった。


 僕は、自分の小さな、けれど血の通った手を見つめた。

 母の指を、ぎゅっと、今の僕にできる限りの力で握りしめてみる。

 彼女は驚いたように目を見開き、それから蕩けるような笑顔で、僕をさらに強く抱き締めてくれた。


(今度こそ……僕は自分の足で、この大地に立つんだ)


 前世で叶わなかった、たった一つの、けれど最大の願望。

 大地を蹴り、自分の意思で行きたい場所へ進める肉体。

 そのためには、まずこの優しい家で、母の豊かな乳を飲み、父の不器用な抱擁を全身で受け止めなければならない。僕は、母の一定の心音を聞きながら、再び意識を幸福な微睡みの淵へと沈めていった。


 空腹を感じれば、誰かが駆けつけてくれる。

 不快を感じれば、誰かが温もりを与えてくれる。

 なんて、暴力的なまでに、理不尽なまでに幸せな特権だろうか。


 一週間の終わり。

 僕は自分の新しい名前――「アレン」であることを、確かな魂の響きとして受け入れた。

 父ダリウスが仕事に出る際、僕の額にそっと口づけをして呼ぶ、その名前。

 母マリアが僕を寝かしつける際、耳元で愛おしそうに囁く、その名前。


 夕暮れ時。

 窓から差し込む橙色の光は、一週間前よりも少しだけ長く、部屋の奥まで伸びていた。

 僕を抱いたまま、母が静かに鼻歌を歌っている。

 それは、どこか懐かしく、慈しみに満ちた子守唄。


 僕はそのメロディに身を委ねながら、この一週間で得た確かな「命の手応え」を反芻していた。


 身体が動く。

 呼吸ができる。

 愛されている。


 ただそれだけのことが、かつての僕にとっての、唯一無二の、そして最後の祈りだったのだ。その祈りが通じた今、僕はもう何も恐れるものはない。


 今の僕には、関係のない、遠い世界のこと。

 僕は、この土の匂いのする場所で、一人の人間として、アレンとして生きていく。


 明日が来れば、また父が少し頼りない顔で僕を覗き込み、母が温かな乳を与えてくれるだろう。

 その一日の繰り返しが、いつか僕を、遥か彼方へと運んでいくための「力」になると信じて。


 アレンとしての七日間が、黄金色の静寂の中で、ゆっくりと、けれど確かに溶けていく。

 僕は、前世の重い影を完全に振り払うように、深く、安らかな眠りに落ちた。

 明日、目が覚めれば、僕はまた少しだけ、この美しい世界と仲良くなっているはずだ。


 そう確信しながら、僕は新しい人生の、記念すべき最初の一週間を終えた。


 一人の転生者が、一人の「人間」へと戻るための、静かな、けれど熱い格闘の日々。

 僕は、今、この瞬間を生きている。


 僕は、幸せだ。

 心の底から、そう思った。

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