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第十五話:遠き風の報せ、双子のための秘密会議


 星々の囁きを聞いたあの日の興奮は、穏やかな朝の微睡みへと溶け込んでいった。


 目覚めた僕を待っていたのは、いつも通りの、けれどどこか浮足立った村の空気だった。マリアに抱かれ、朝の陽光を浴びながら村を散策していると、広場の方から聞き慣れない馬のいななきと、重厚な荷車の車輪が軋む音が聞こえてきた。


「あら、アレン。見て。数年ぶりに行商人さんが来てくれたみたいよ」


 マリアの声に導かれ視線を向けると、そこには色とりどりの布で覆われた大きな荷車と、旅の埃にまみれた見知らぬ男たちがいた。一番近い街から数年に一度訪れるという行商人の一行だ。


 静かなこの村にとって、彼らは単なる「物売り」ではない。外界の風を運んでくる、生きた情報源でもあった。


 広場にはいつの間にか村人たちが集まり、活気ある声が飛び交っていた。

 行商人のリーダーらしき、日に焼けた初老の男が、村の人々に囲まれながら得意げに口を開く。


「……王都のほうじゃあ、新しい第二王子が洗礼を受けられたそうだ。景気は悪くないが、隣国との国境付近じゃあ、少しばかり魔物の動きが騒がしくなっているという噂もある。まあ、この平穏な村には、勇者様の加護がまだ生きているだろうがな」


 街の流行り、王国の情勢、そして海を越えた諸外国の近況。


 男の語る言葉の端々から、僕の知らない広大な世界の断片が零れ落ちる。僕はマリアの腕の中で、その一語一語を零さないように耳を澄ませた。この村の外には、まだ見ぬ王城があり、騎士が走り、未知の脅威が潜んでいる。

 その事実が、僕の知的好奇心を激しく揺さぶった。



 行商人の荷車は、この小さな村にとって「異世界の欠片」を詰め込んだ宝箱そのものだった。


 色とりどりの織物、見たこともない形の刃物、そして遠い街のスパイスが放つ刺激的な香りが、初夏の風に乗って僕の鼻腔をくすぐる。マリアの腕の中で身を乗り出すようにして、僕はその一つひとつを目に焼き付けていた。


 ふと、荷車の隅に無造作に置かれた、一冊の革綴じの本が目に留まった。

 それは他のきらびやかな装飾品に比べれば地味なものだったが、僕にはその本自体が微かな熱を放っているように見えた。


(……あれは)


 僕は思わず、小さな指先をその本へと伸ばした。


 表紙には、夕闇を背に剣を掲げる騎士と、その足元で清らかな水を湛える湖、そしてそれを見守る慈愛に満ちた女性の姿が、掠れた、けれど力強い筆致で描かれている。先日、大樹の下でマリアが話してくれた「この村の成り立ち」——あの伝説の断片が、そこには色彩を持って存在していた。


「おや、坊っちゃん。そいつが気になるのかい?」


 荷降ろしの手を休めた行商人の男が、僕の視線に気づいて歩み寄ってきた。


 彼は膝をつき、僕と同じ目線になると、大きな手でその本をそっと手に取った。

 革の表紙が軋む音、そして古い羊皮紙が放つ、乾いた知性の匂いが僕の元まで漂ってくる。


「これは『女神と勇者の出会い』の絵本だ。文字は少ねぇが、この国の子供なら誰もが一度は夢に見る物語さ。もっとも、このあたりじゃ滅多にお目にかかれない代物だがね」


 男は僕のコバルトブルーの瞳をじっと覗き込んだ。

 その瞬間、男の表情から商売人としての計算が消え、一人の旅人としての純粋な驚きが浮かんだ。


「……いい目をしてるな。まるで、この本の中に隠された真実を、今すぐこの手で掴み取ろうとしているみたいだ。坊っちゃん、あんた、ただの坊っちゃんじゃないね?」


 僕は言葉を返せなかったが、その代わりに本の表紙にそっと手を触れた。


 指先に伝わる革のざらついた質感と、長い年月を経て染み付いた誰かの想い。この本を読めば、僕が今立っているこの大地の、もっと深いところにある鼓動に触れられるような気がした。


「よし、決めた。坊っちゃん、その本はあんたにあげるよ。代金はいらねぇ」


「あら、そんな! 行商人さん、悪いですよ。いくらお支払いすれば……」


 驚いて声を上げたマリアを、男は手掌をかざして制した。


「いいんですよ。ただし、一つだけ条件を出させてください。……坊っちゃん、次に俺たちがこの村に来る時までに、この本の内容を覚えておいてくれ。そして、この物語を読んだあんたが何を感じたか、自分の言葉で俺に聞かせてほしいんだ」


 男は悪戯っぽく笑いながら、僕の小さな手のひらに、ずっしりと重いその本を預けた。


「それが、この本の『代金』だ。約束できるかい?」


「ぁ……あぅ、ん!」


 僕はその重みをしっかりと受け止め、力強く頷いた。


 今の僕には、まだ複雑な言葉を紡ぐことはできない。けれど、次に彼に会う時までには、この物語が僕に何を語りかけたのか、それを伝えるための「声」をきっと手に入れてみせる。そんな静かな決意が、胸の奥で熱く燃えた。


 男は満足げに笑って僕の頭を一度だけ撫でると、傍らに立っていたタナー村長に向き直った。その瞬間、彼の瞳から温かさが消え、代わりに重苦しい真剣みが宿る。


「さて、村長。……長閑な話はここまでです。王都のほうで、少々耳障りな噂が流れてましてな」


「……うむ。家へ入ろう。ダリウス、すまんが広場の監視を頼めるか」


 村長は深く刻まれた皺をさらに寄せ、僕の父を促した。


 二人は吸い込まれるように村長宅へと消えていき、残された広場には、祝祭の後のような、どこか落ち着かない静寂が降り積もった。


 僕は腕の中に抱えた絵本の重みを感じながら、遠くの森に沈みゆく夕日を眺めていた。


 勇者の物語。そして、行商人が運んできた不穏な風。


 一歳の僕にはまだ見えない世界の広がりが、すぐそこまで迫っているような予感に、僕は少しだけ背筋を震わせ、けれどそれ以上に強い好奇心で、手の中の本をぎゅっと抱きしめた。




 行商人たちが村長と共に去り、広場に漂っていた異国の香りが夕暮れの風に薄れ始めた頃だった。


 胸に新しい絵本を抱え、マリアの温かな腕の中でウトウトとしていた僕の耳に、タタタッという小気味よい足音が響いてきた。


「マリアおばさーん!アレンーっ!待って、待ってよー!」


 坂の上から、燃えるような赤毛を振り乱したフィナが猛スピードで駆け下りてくる。彼女は僕たちの前まで来ると、勢い余って派手に土煙を上げ、膝に手をついて肩で大きく息をついた。


「あらあら、フィナちゃん。そんなに急いでどうしたの?転んだら大変よ」


「……はぁ、はぁ、だい、じょうぶ。……それより、聞いて!大変なの!」


 フィナは顔を真っ赤にしながら、マリアのスカートをぐいっと引っ張って、必死な顔で仰ぎ見た。


「さっきバルカおじさんに会ったんだけどね、あと三日なんだって!ミアとリアの、三歳のお誕生日!」


「まあ、そうだったかしら。あの双子ちゃんたち、もうそんなにお姉さんになるのね」


 マリアが優しく目を細めて呟く。その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏にはいつも僕の隣を争うように歩いてくれる二人の姿が浮かんだ。


 屈託のない笑顔で花を飾ってくれる黄金のミアと、静かな眼差しで不思議な石を握らせてくれる漆黒のリア。

 

(……そうだ、二人の誕生日。僕も、何かしたい)


 一歳の誕生日にフィナから貰った、あの青いペンダント。あの時、胸が震えるほど感じた「お祝いしてもらえる喜び」を、今度は僕があの二人に届けたい。


 僕はマリアの腕の中で、思わず身を乗り出した。


「ん、あ!んっ、あぅ!」


 僕は自由になる左手でフィナの肩を叩き、自分もその話に混ぜてくれと全身で訴えた。


「あ、アレンもやる気だね?そうだよね、いつも遊んでくれるもんね!」


 フィナは僕の意図を正確に汲み取り、ニカッと太陽のような笑顔を見せた。彼女はマリアの腕からこぼれそうな僕の手を、ギュッと握り返してくる。


「ミアとリアは双子だけど、好きなものが全然違うんだよ。ミアはキラキラしたものが好きだし、リアはちょっと変わった形をしたものが好きなの。中途半端なものじゃ、二人は驚かないよ。ねえ、アレン、私たちで『世界で一番』のプレゼントを見つけよう?」


「ん、んんっ!」


 僕は力強く、鼻を鳴らすようにして返事をした。


 一歳の僕にできることは、まだ少ない。

 高価なものは買えないし、遠い場所へ一人で行くこともできない。

 けれど、今日貰った絵本の中の勇者たちのように、知恵と勇気(と、僕を引きずり回すフィナの体力)があれば、きっと何かが見つかるはずだ。


「ふふ、二人とも、すっかり作戦会議ね。アレン、フィナちゃん、あんまり無茶をしちゃだめよ?」


 マリアは可笑しそうに笑いながら、僕たちの真剣な様子を見守ってくれている。

 

 夕闇が村を包み込み、民家から夕餉の煙が立ち上り始める中、フィナは僕の耳元でヒソヒソと計画を練り始めた。


「明日の朝、おひさまが昇ったら、ダリウスおじさんの畑の裏に集合ね。あそこから森の入り口まで、二人に内緒で『お宝探し』に出発するんだから。わかった、アレン?」


「あ、ぅ!」


 それは、僕にとって初めての「誰かのための冒険」になるだろう。


 フィナの繋いだ手のひらは、少し泥がついていたけれど、これ以上ないほど頼もしく感じられた。

 僕は胸に抱えた絵本をもう一度ぎゅっと抱きしめ、沈みゆく太陽に向かって、密かな決意を固めた。


 待ってて、ミア、リア。


 僕とフィナで、とびっきりの「春」をプレゼントするからね。

おっと、なんだか...?

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