天よりの使者
草木を優しく撫でる風と共に一台のバイクがぺぺぺと軽快に高原を走っていた。
足元に広がる芝生は若草色にどこまでも続き、遠くにはピンク色のポンポンを持った桜の木が高原の走者を今か今かと待ち望んでいる。
穏やかな気候の中、一組の夫婦が仲睦まじく旅をしていた。
まるでピクニックのように楽しそうに会話している二人は、身長だけ見れば兄妹のようだ。しかし、二人の左手には夫婦を示す鉱石の指輪が嵌められていた。
バイクを運転する少年トオルは、一年という時間を経て、守るべき存在がいるために心も体も大きく成長した。柔らかい顔つきはそのまま、以前は遮るように隠していた闇のような黒髪を今では惜しげもなく外界に晒している。ゴーグルをしっかり目元に嵌め、事故を起こさないよう慎重に運転している。
後部座席に座り、トオルの腰に手を回して背中を独占している背の低い少女ソラは身長こそ伸びなかったが、トオルにとってかけがえのない存在としていつも隣を歩いている。太陽の光に映える亜麻色の長く美しい髪は、ハーフエルフ特有の少し尖った左耳の前でワンポイントに編み込んでいる。トオルを独り占めしたい強欲さも相変わらず、最近は身長差が出てきて立ったままキスをするのが大変になってきた。
一般的な自転車ほどのスピードで進むバイクはついに桜の木をくぐる。土を固められて作られた道の左右には桜の木が不規則に立ち並んでいて、しかし花弁の落ちてゆく方向は同じだった。
ささやかな向かい風でピンク色の花弁がはらはらと舞い、数枚の花弁がトオルのゴーグルにピタリと張り付く。
「おっと、ソラ、一旦止めるよ」
「どうしたの……あはは! トオルの目が桜になってる」
「そういうソラの髪にも……ほら、桜の花弁が、もう春なんだね」
トオルは指先でソラの髪に絡んだ花弁を丁寧にとる。ついでに手櫛をしてあげるとソラは心地よさそうに目を細めた。
指先の花弁は風に乗って宙を舞い、他の花びらの元へと帰っていった。
桜の蜜を吸いにメジロが「チッ……チッ……チッ」と囀りやってきて、ウグイスは高らかに鳴いて二人に春の訪れを知らせた。
再びバイクに跨り、春の小鳥たちと共に二人は桜並木を進み、やがて、少し開けたところに辿り着いた。
「あれはなんだ? 箱みたいな形をしてるけど」
「ど真ん中に置いてあるなんて怪しいけど、トオル、ここって目的地だよね?」
二人がこの道を進んでいたのは次の目的地であった『天に仕える塔』がここにあるためであり、たどり着いたはいいが、それらしい物が見当たらなかった。代わりに置いてあったのはトオルの腰まである黒い箱のような物体。上面には小さいボタンが無数に存在していた。
「塔があるって聞いていたけど、まさかこれが塔ってことは無いよね? 僕より小さいし」
「でも、これしかないからボタンを押せばいいんじゃないかな? 押してみる?」
「他に何もないし、押してみようか。でも、どれを押せばいいんだろう?」
「どうせ分かりっこないし、適当に押しちゃおうよ……えい、えい、えい、……」
「ちょ、ソラ、そんなに適当に押したら――」
ソラがカタカタとボタンを押していくと、箱が突如光を纏い始めた。
白い輝きがここら一帯を包み込み、光は天へと昇っていく。瞬く間に先が見えなくなった光は太くなりはじめ、トオルとソラはその場を急いで離れた。
「何が起こっているんだ? もしかして、これが……塔?」
「光が形を変えていく……」
光は二つに分離し、螺旋のように複雑に絡み合う。凝った形でどこまでも続く光の塔はやがて、螺旋の間を滑るように天から何かを降ろしてくる。
「ソラ、何かやってくるよ! 丸い光みたいだけど……」
「あの中に何か入っているのかな? ちょっと怖いな」
ソラはトオルの背中に隠れ、顔だけひょこっと見せている。
勢いよく降りてきた丸い光は地上に着くと、玉のように手前にころころと転がってきた。
「どうしよう、何かやっちゃったのか?」
「も、もうちょっと様子を見よう、私も何が何だか分からないよ」
光り輝く丸い物体を前に慌てふためく二人をよそに、丸い光は徐々に輝きを失っていった。
「え、なに? 中に神の使者でも入ってるのか?」
「私たちなんかやらかしちゃった?」
不安になる二人はどうしよう、どうしようと、逃げようか謝ろうかと相談していると、輝きを失った球体の中から、一人の少年が現れた。
立ったまま目を瞑っている少年は眉目秀麗な顔付きにトオルたちとそう変わらない服装。首には線を引いたような赤い痣があり、何よりトオルたちの目を引いたのは――。
「黒い髪……まさか人族?」
「何が起こったの、なんで空から人が降ってきたの?」
現れた少年は夢から覚めたようにゆっくりと目を開く。
息を呑んで見守っていたトオルは少年の目を見てやっぱりと頷く。少年の瞳はトオルと同じ黒色だった。
「ここは……あれ? ボクは何を……それに、妙に清々しい気分だ」
「き、君は神が遣わした使者なのかい?」
「え、神? ああ、そういえばそう名乗る人と話したな、でもボクはそんな大層な人じゃないよ、君こそ神様じゃないのかい?」
少年も何があったのか把握しきれていないのか戸惑っている。
お互いにどうしたものかと口を開けずにいると、ソラが沈黙を崩してくれる。
「まずは落ち着いて自己紹介をしようよ、私はソラ。あなたは?」
「あ、ああ、ボクは『ミナト』、よく分からないけど、気が付いたらここにいた。ここはどこなの?」
「僕はトオル、ここは天に仕える塔がある場所だったんだけど、ちょっと弄ったらそれが光り始めて、落ち着いたら君が居たんだ」
黒い箱を指さし説明する。
「トオルは日本人じゃないのかい? 名前といい、その見た目と言い、話しているのも日本語だろう?」
「言葉に名前があるの? それに僕は人族、ソラはハーフエルフだ」
「え? ハーフエルフ……」
ソラが銀髪をずらしエルフほどには長くない少し尖った耳を見せた。
ソラの耳をじっと見つめていたミナトは納得したのか、落胆したのか軽く肩を落とした。
「ここは……僕のいた世界じゃないんだね、日本人のことは忘れてくれ」
「ああ、それはいいけど、ミナトは君のいた世界? で何があったんだ?」
トオルが聞くとミナトは困った顔をする。言うか言わまいか迷っていた。
「あ、言いたくないなら言わなくてもいいよ、ごめんね」
「そういう訳じゃ……あ、いやでも、そうだね、ごめん、言いたくないや」
煮え切らない態度で断るミナトの口は震えていた。悪いことをしてしまったかと心配したトオルにミナトが慌てて手を横に振る。
「トオルは悪くないよ! ボクが中途半端な態度をとるのが悪いんだ。ちょっと……言いづらかったから」
「いや、謝る必要はないよ」
「ありがとう。それで……図々しいかもしれないんだけど、この世界のことを教えてくれないか? 多分ボクの知っている世界と常識も違うだろうし」
「ああ、構わないよ。だけど、説明と言っても何を話せばいいのやら」
何が当たり前で何が間違っているのかは分厚い壁で隔てるように難しく分かりづらい。
同じ人族なのに違いを求められても答えづらいのが現状だった。
「トオル、それならミナト君にエルフのことから話していけばいいんじゃない? それなら分かりやすいだろうし」
「そうか、それならこの世界の説明もしやすい」
「やっぱりエルフはいるんだね。やっぱりボクの知っている世界と違うよ」
それからトオルとソラはこの世界がすでに終末を迎えていることを伝えた。争い事をする意味をなくした世界では、平和主義のエルフが規律を守っている。
「うーん……ボクのいた世界じゃそもそも人間しかいなかったから、あまりピンとこないかな。世界が終末を迎えているなんて、ここからの景色は素晴らしいじゃないか」
「それは、世界を旅してみれば分かるよ。この桜が舞う綺麗な場所もあれば、瓦礫で埋め尽くされた悲惨な場所もある。終末を迎えたってのも、誰かが宣言したわけじゃないしね」
それもそうだなと辺りを見渡したミナトは、身に着けている物を確認し始めた。
「そういえば二人ってどういう関係なの? 種族は違うし、腹違いの兄妹みたいな感じなの?」
そういわれてソラが一歩前に出る。そして自慢するように左手を揃えてミナトに見せる。
トオルもソラに倣い左手をミナトに見せる。
薬指には光によって七色に輝く鉱石の指輪が嵌められている。
「夫婦なんだ、ソラは僕のお嫁さん」
「ふふん! トオルの妻です!」
「夫婦って、え!? この世界って子どもも結婚できるの、ソラちゃんって歳は……」
「ミナト、それ以上はソラが爆発する。ソラは僕よりも年上なんだよ」
「うぅ~! むぅ~!」
トオルの言葉に口を開けたまま絶句しているミナトにソラが頬を膨らませる。その表情を可愛いと思いつつもミナトは慌ててごめんなさいと謝る。
ハーフエルフについて先ほどソラから説明を受けていたはずなのにうっかり忘れてしまっていた事を謝罪し、何度も頭を下げた。
「もういいよ。いつものことだもん」
不貞腐れたソラはトオルに引き寄せられて頭を優しく撫でられると、泡がはじけるようにご機嫌はすっかり治った。
「本当に夫婦なんだね、この世界だと他種族の結婚は当たり前なの?」
「いや、基本は同種族同士だけど、たまに他種族同士で結婚することがある。だからハーフの人は珍しいよ」
ソラの種族であるハーフエルフも例に漏れず生き残りは少ない。これ以上増えることがないのは寂しいがソラは数にこだわりはない。
風が三人の間を通り抜け、それを追うように桜の花びらが舞った。
「これって桜だよね。ボクのいた所に似ているのに、まったく別の世界だなんて……なかなか信じきれないな」
「そういえば、ミナトは最初に神と話したとか言ってなかったっけ? あれってどういうことなんだい?」
「ボクがここに来る前……なのかな? いまいち覚えてないけど、女神がボクに第二の人生をプレゼントするって言っていたと思う。こんなボクにも優しくしてくれる敵のいない世界……だったかな?」
そう話しながらミナトは無意識に首の赤い線を撫でていた。それが赤い痣であると二人は気づいた。
トオルとソラは軽く視線を合わせて何も聞かないことにする。なんとなくこれがミナトの話したくないことなのだろうと察した。
「ミナトはこれからどうしたい?」
「どうするも何もボクには行く当てもないよ。できればどこか住める場所を探したいけど」
「トオル、ミチルちゃんの所はどうかな? 王都なら住む場所はいっぱいあるし」
トオルは少し思案し、頷くと原付に近寄ってカバンを降ろす。
「ミナト、料理は出来るかな?」
「料理? うん、出来るよ、両親が共働きでいつも一人だったからそれなりの物は作れるよ」
「了解、ソラのバック、あげちゃってもいいかな?」
「いいよ、使ってもないしね、持っていても場所を取るだけだったし丁度いいよ。それとこれとこれも……」
「何をやっているんだ?」
「何って、ミナトが王都に行けるように最低限の物を詰めているのさ」
ソラはカバンから調味料を取り出し、別の袋にそれぞれ分けて詰めていく。予備の包丁とカップと皿を一枚ずつバックに詰める。
他に余裕があり、あげてもいい物はどんどんバックに詰めていく。
「あとは僕が使っていたライターと寝袋。テントの予備がないのは勘弁な」
「なんでボクなんかにここまでしてくれるんだ? 赤の他人だろ?」
施しを受けることに慣れていないミナトは、良い人すぎるトオルとソラが本当は神様なのではと本気で考えた。
しかし、トオルは言葉の節々に感じる被虐的なミナトの言葉を否定する。
「ミナト、そっちの世界で何があったかは分からないが、あまり自分を否定するな。否定しすぎるとこの世界じゃ生きていけないぞ。僕たちの優しさなんて王都の人たちの優しさに比べたら足元にも及ばないさ」
「そんなに……」
ミナトの世界とは真逆の価値観に思わず涙がこぼれる。この世界こそがミナトの望んだ世界であり、信徒でもないのに指を組んで神に祈りを捧げた。
「神様、こんな素晴らしい世界にボクを導いてくれてありがとうございます。前世のボクの行動を恥じ、今度は生に執着してでも精進してまいります」
「ミナト、これが地図だ。この道を真っすぐ進めば王都に着く。途中、車かトラックが見えたら手を挙げて呼び止めるといい。それで王都に行きたいことを伝えたら近くまで相乗りさせてくれるかもしれない」
「分かった、王都に着いたらどこに行けばいい?」
「着いたらミチルっていうトオルの可愛い妹を探すといいよ。有名な歌手だし、ミチルもミナトのことを歓迎してくれると思うよ」
ミナトは先ほどここに来たばかりで遠くの人が自分を探しているのは不思議な話だと思った。そして、やはりトオルとソラが神様なのではと考える。
伝えることはすべて伝え、そろそろ王都に向かうというミナトにソラが最低限の旅道具が入ったバックを渡す。本当に最低限だから早いところ商人を見つけるかどこかの街に行くか勧める。
「そういえば食糧って商人じゃないと道中で手に入らないの?」
「商人でもいいんだけど、ちょっと見てて……」
ソラは辺りを見渡し、近くに生えていた草を引き抜く。
「うーん、よいしょ!」
「えっ! それってじゃがいも? こんな桜の木の傍で?」
「世界が終末を迎えた影響さ。野菜やイモならそこかしこに生えているんだ。お腹がすいたらとりあえず引き抜いてみるといい」
「わ、分かった。驚いたよ、まさかこんなところで生えているなんて……」
ミナトは試しに近くにあった草を引く抜くとそこから小さなニンジンが出てきた。葉の形がミナトの知っている人参と違い戸惑ったが、世界が違えば常識も違うのだと無理やり納得した。
「はい、これは餞別。水で洗ったからバックに入れても大丈夫だよ」
「魔法なんて初めて見た……っていつまでも驚いていたらきりがないね。ありがとう、あとで美味しくいただくよ……それじゃ、ちょっと心細いけど、頑張って王都に向かうよ」
「ああ、僕たちもいつかは王都に帰る予定だし、また会ったらその暗い顔が太陽顔負けなほどに輝いているとことを願うよ」
「太陽には勝てないと思うけど、楽しい旅と人生にはしたいと思っているよ」
バックを肩から斜めに下げたミナトは地図を片手に王都への道を歩き出した。顔だけ振り返り、ミナトにとっての神様に大きく手を振る。
「本当にありがとう! トオル! ソラちゃん! また会おう!」
「元気でな! また会った時はそっちの話、もっと聞かせてくれよ!」
「病気と怪我には気を付けてね! バイバーイ!」
ミナトが地の向こうに沈んで見えなくなるまで手を振り続け、いなくなったときトオルは謎の喪失感で大きく息を吐いた。
「どうしたの? ミナト君が心配?」
「うん、それもあるけど、せっかくできた同い年くらいの友達がすぐいなくなって寂しいんだ」
本当に残念そうに肩を落とすトオルに心配するよりも嫉妬が強く出たソラはトオルに抱き着いた。
「トオルは私がいるから寂しくないの! それとも私だけじゃ物足りない?」
「はははっ……そうだね、僕にはソラという何よりも大切なお嫁さんがいたね。大丈夫、僕はもう元気だよ」
太陽のように輝かせた笑顔を振りまきながら、トオルの傍にはいつもソラがいてくれる。
ふと、ささやかな風が二人の髪や服を靡かせた。
小さく離れたソラの顔にトオルは顔を緩ませる。そして、嗚呼、と心で声を漏らし、ソラの笑顔に救われる。
――あの空のようにソラはいつも天色に晴れている。素敵な笑顔が消えて無くならないように、どこまでも続くこのアマイロに希う。
ソラは背を伸ばし、トオルは顔を下げる。
ピンク色の風に煽られながら二人の顔はゆっくり近づいていき、唇はお互いに優しく触れあった。
二人の旅は続く。いつか空に届くと信じて。
これにて完結です。




