饒舌・夏 第?話
蝉の声が耳に響いて、俺はふと、窓の外に目をやった。
思いがけない晴天が目に飛び込んで、俺は瞬きをする。じわ、と背中に汗がにじむ。廊下に立っているだけで、暑い。
暑さのせいだろう、さっきまで何を考えていたのか忘れてしまった。頭を振り、顔を上げる。廊下の奥にある空き教室の扉が視界に入り、そうだった、と思い出した。
今日は、めずらしく宿題もなく、放課後にちょっと余裕ができたから、また『散歩』でもして、――そのついでに、あいつに会ったなら軽く駄弁るのも悪くない、と思って、こうして校舎をあてもなく歩いていたんだった。
俺は鞄を持ち直して、ぺたぺたと間抜けな音を立てる廊下を進み、空き教室の戸に手をかけた。
がらり。
空き教室の電気はついていない。けれど赤みがかってきた日差しが教室に斜めに差し込んで、室内は明るかった。
その明るい教室の奥、使わなくなった机が積み上がっているその前の暗がりに、『あいつ』、つまり――新荷冬芽の姿があった。
新荷は俺を見て、まるで当然ここに来ることがわかっていたとでもいうように、ニヤニヤ笑って、
「――やあ、トワ君。また来たね。ずいぶん熱心じゃないか」
と、からかうように口角を上げる。
「別に、散歩してただけだ」
対して俺は、口角を下げる。散歩がメインで、駄弁るのはサブのつもりだったから、嘘じゃない。鞄を足元に降ろし、ちらと教室を見回すが、ほこりっぽい教室に座れそうな場所はなかった。
「くっくっく、それにしては迷いなくこの突き当りの教室を開けたようだね。使わない机を置いているだけの、何の用もないこの教室にさ」
「用があったら散歩じゃないだろ」
「ふむ、確かにそうだね。散歩というのは目的地へ行くことよりも、移動しているという経過にこそ重点が置かれる活動だ。その経過に創造的可能性がある、なんて説もある。京都に『哲学の道』があるように、世の中の哲学、数学的・物理的発見、はては音楽の作曲が、散歩の中で生まれたという逸話は案外多い。ベートーベンなんかも散歩の中で構想を練ったという話もある。古くはソクラテスの昔から、『ただ歩く』ことに価値があったということかもしれないね。ということは、こんなに歩き回ってこんなところまで来るほど散歩好きなトワ君も、いずれ世界に認められるような偉大な発見や創造をするかもしれないな。将来が楽しみだ」
「評価が過大すぎる……俺はただの凡人で、ただの高校生だぞ」
「受験生、と肩につけるべきじゃないかい? 今はまだ高校生でも、それは一時的な所属に過ぎない。小学生、中学生、高校生と、年齢に応じて、あるいは、在籍日数に応じてかってにレベルアップしていくものだ。少年よ、大志を抱いてはばたきたまえ。そうそう、この名言を残したクラーク博士は北海道大学の前身を支えて教育に関わったことでこの名言に代表される、とても慕われた教育者だったようだけど、大学の規則を作るにあたって「規則など、『紳士たれ』の1つで十分だ」と述べたという話もある。あまりにも学生というものに対して信頼が大きすぎるという意見もあるが、でもそれくらい信頼してくれるからこそ、皆も自然と慕ったのだろうね。というわけで、私のトワ君に対する信頼はクラーク博士なみということで、ひとつ納得してくれ」
やたら楽しそうにそう言う新荷に、俺はあきれた風にため息をつき、
「無茶ぶりは信頼とは違うだろ」
と返した。
「無茶かどうかはやってみなければ、そして達成しなければわからない。さらに、達成するまであきらめなければ、理論上は『無茶ではない』と言い続けることはできる。私はトワ君の無限の可能性と諦めない心に賭けることにしよう。トワ君の将来の達成が確定するまでは、『信頼だ』と言い張ることができるからね。雨乞いの儀式も、雨が降るまで継続すれば、すべて成功するというのと同じさ」
「それはほぼ詐欺だろ」
「詐欺かどうか、さて、誰が決めるんだい? 事実として雨は降るじゃないか。時間はかかるがね」
ああ言えばこう言う。まあ最初からこいつはそういう話法を使うやつだ。俺は暗がりから出てこない新荷を見やる。表情は判然としないが、どうせいつものニヤニヤ笑いだ。
「いじめと一緒で、被害にあったほうが『詐欺だ』といえば、警察も、捜査くらいはしてくれるんじゃないか?」
「ということは、トワ君は安泰だな。私は寛大だからね。トワ君を信頼して、偉大な発見をするまでいつまでだって待ってやるとも。かのやなせたかしだって、大成は後年と言うより晩年に近いというし、そして私にはいくらでも時間がある」
大仰にうなずいて見せる新荷。
「待ち損になるからやめとけよ」
俺は親切に忠告しておく。
「ある有名なジョブナイル小説の名言で『裏切られてもいいんだ、裏切った相手が卑怯になるだけで、わたしのなにが傷つくわけでもない。裏切って卑怯者になるよりずっといい』というのがあってね。つまりトワ君は勝手に卑怯者になり、私はなんにも困らないという寸法だね」
そういう言い方をされると俺が悪いみたいな感じになる。相変わらずの詭弁に俺はこんどこそ諦めてため息をついた。
「わかったよ、せいぜい自分なりに頑張るよ。受験生らしくな」
「くっくっく、そうしたまえ。ところでそろそろ時間も遅いようだよ、トワ君」
新荷の言葉で、俺は窓の外の夕暮れがいつの間にか夜の色を見せているのに気がついた。
「ああ……もうそんな時間か。――じゃあな、新荷」
荷物を持ち直し、俺は軽く手を挙げて新荷に振り、扉に手を掛ける。
「――うん、また気が向いたら来るといい。私はいつでも待っているからね、トワ君」
がらり。
俺は廊下に足を踏み出し―――
※ ※
―――蝉の声が、耳に響いている。
俺は瞬きをして、窓の外に目をやった。いやになるくらいの晴天に、暑さが窓を通して伝わるようだった。
ぼんやりしていたみたいだ。
暑さで頭が働いていないのだろう、何かを忘れたような、そうでもないような。
違和感が頭に一瞬浮かんだが、その次の瞬間には消えた。見慣れた学校の廊下。そう、俺は暇を持て余して校舎をうろうろしていたんだった。
俺は『散歩』の続きを再開した。―――
いよいよ次が、最終話です




