日常
「いい天気だし、今日は楽しい買い物になりそうねー」
馬車を一番に降りた母は、誰よりも張り切っていて、そして嬉しそうだった。
なぜこんなことになったのか。ルカと二人で買い物へ行くはずだった私たちを、玄関で母が呼び止めたのだ。そこから質問攻めに合い、どこに何しに行くのか聞かれた挙句、自分も行きたいと言い出したのである。瑞葉の時とは違い、母との仲はさほど悪くはなかったものの、特段いいというわけでもない。瑞葉の頃の苦手意識が、どうしても家族を遠ざけていたようだ。
「……そうですね、お母様……」
「なに、その気のない返事は。せっかくいい天気なのだから、もっとシャキッとしないと」
「はははは、そうですね。頑張ります」
変わろうという意識はあるものの、だからといって急にどうこうなる問題でもないのだが。
「ソフィアお嬢様、まずはどこに向かわれますか?」
「うーん、そうねぇ」
ルカがいてくれるだけ、まだマシなのだろう。どこにと言われ、辺りを見渡した。大広場近くには、たくさんの露店が並んでいる。食欲をそそるような匂いのする店から、何か分からないような店までたくさんある。ますは硬貨の価値と、物価の知りたい私は、青果店を指さした。
「とりあえず、あそこを見てみたいんだけど」
「まぁ、おいしそうな果物屋さんね。さ、行ってみましょう」
普通の侯爵夫人は、こんな露店で買い物などしないと思うのだが、母に気を使っていても始まらないので遠慮なく店に向かう。
店には色とりどりの果物が並んでいた。見たことがあるものから、よく分からないまだら模様の果物まである。比較対象として何がいいかと考えていると、とてもよく見慣れた果物を見つけた。
「これが欲しいのだけど、いくらかしら?」
「お嬢さん、さすがだね。このリンゴは雪の中で保存していた、とてもおいしいリンゴだよ。今は時季ではないけど、味は保証するよ。一個、銅板2枚と銅貨3枚のところ、お嬢さんたちはとても綺麗だから銅貨2枚にまけてあげるよ」
初夏のリンゴが約230円。若干高い気もするが、硬貨の価値としては、やはり想像していた通りだ。
「あら、ほんと。このリンゴとっても美味しそう。こんな美味しそうなリンゴが時季外れでも手に入るなんてさすがねー。ねぇ、このリンゴ10個買うからおまけしてくれるかしら?」
お金の計算をしながら考え込む私を横目に、すかさず母が値切り交渉に入っていた。
「もう、ホントのせるのがうまいねー、奥さん。じゃ、今日だけ2個おまけしておくよ」
「すごーい、ありがとう。食べてみて美味しかったら、今度はこの倍買いに来るわ」
満面の笑みを浮かべる母を見ながら、私は持っていたお金で支払いをする。リンゴ12個で、銅板20枚だから、銀貨2枚か。
「なんか奥様、とても手慣れていらっしゃいますね」
「ホントね、私一瞬近所のおばちゃんを想像してしまったわ」
「近所のおばちゃんって、お嬢様何なのですか?」
いけない、あまりの母のここでの適応ぶりに、前の世界のことが口をついてしまった。
「買い物になれた庶民のおばちゃんってことよ」
「確かに、それは似ていますね」
コソコソと話す私とルカの声は母には聞こえてはいないようだ。母はリンゴ以外の果物にも興味津々で眺めている。
この店ではたくさん買うと、荷物はそのままお店の人が馬車まで運んでくれるサービスらしい。侯爵家の家紋の付いた馬車を見た彼がどう思うのか、やや心配ではあるものの、私たちは次の店に向かうことにした。
「次はそうね、何か焼き菓子を買いたいのだけれど。どこかにいいお店はあるかしら」
「それなら、ちょうどいいお店があるわ。最近オープンして、とても人気のお店らしいのよ」
「お母様、私はそんな混んでいる店は……」
嗜好品の値段や砂糖の価値が知りたいだけだから、わざわざそんな混んでいる店に行きたくはないのだけど。しかし私の意見を聞くことなく、母はどんどんどんどん進んでいく。
「諦めましょう、ソフィアお嬢様。きっと、奥様はお嬢様との初めてのお買い物がうれしいんですよ」
ルカがやや苦笑いしつつ、私の肩に手を置く。確かに今まで何となく家族を避けてきたのは私の方だ。こんな些細なことで、母のご機嫌が良くなら安いものかもしれない。それに、案外私も嫌ではない。少し胸がくすぐったいような、温かいもので満たされていく感じがする。
「そうね、この際だから諦めましょう」
「ほらほら、二人とも置いて行くわよ」
「待って下さい、お母様」
にこやかな顔で手招きをする母を小走りで追いかけた。
初夏のゆるやかで、心地よい風が吹き抜けていった。