第五十四話:凍てつく対峙、断絶の里程標
西暦六二五年。
白河の関の深い谷底は、熱を帯びた蒸気と凍てつく吹雪が混ざり合い、視界を白濁とした幻想の世界へと変えていた。一万の軍勢を岩壁と雪崩で封じ込め、その中心で私たちは、歴史の守護者たらんとする中大兄皇子と対峙していた。一号機のボイラーが時折「カン、コン」と金属の収縮音を立てる。それはまるで、古い時代が崩れ落ちていく音のようにも聞こえた。
「……殺せと言ったのだ、入鹿。なぜ動かぬ」
中大兄皇子は、雪の上に堂々と立ち、一切の怯えを見せずに言い放った。その足元には、数千の兵士たちが絶望と恐怖に震えながら、私たちの「鉄の怪物」を見上げている。皇子の言葉は、もはや命令ではなく、自分をこの屈辱から解放せよという懇願に近い響きを帯びていた。
入鹿の握る長刀が、微かに震えていた。それは恐怖ではない。実の父である蝦夷が、すぐ背後の陣でこの光景を見ているという事実と、目の前の皇子を斬ることが、自らの故郷である飛鳥との決別を、血で塗り固めることになるという忌まわしい予感によるものだった。
「……皇子。あんたは、自分の命を投げ打ってまで、その『古い秩序』ってやつを守りたいのか。民が腹いっぱい食えて、寒さに震えなくて済む世界より、誰かが誰かを見下して、家柄だけで全てが決まる今の飛鳥の方が、あんたには大切だってのかよ」
入鹿の声は、怒りよりも深い悲しみに満ちていた。彼はこの旅を通じて、科学がもたらす「平等な可能性」を知ってしまった。それは、身分という鎖に縛られた飛鳥の人間にとっては、救いであると同時に、自らの存在意義を根底から覆す毒でもある。
「……平等だと? 戯言を。民に知恵を与え、力を与えれば、彼らは必ず己の欲のためにそれを使う。この国を一つに繋ぎ止めているのは、理などではなく、畏怖と崇拝なのだ。大江、お前の持ち込んだその『理』は、いずれ人の心を傲慢にし、神をも恐れぬ不遜な世界を招く。……余は、それを見過ごすわけにはいかぬ」
中大兄皇子の言葉に、私は二十一世紀の記憶を重ね合わせた。科学が進歩し、豊かさを手に入れた未来の人間たちが、環境を破壊し、より効率的な殺戮兵器を作り、神の領域に手を触れようとして苦悩する姿を。皇子の危惧は、ある意味で正しい。科学は魔法ではない。それは、人間の業を増幅させる「拡大鏡」でもあるのだ。
「……確かに、あなたが言う通りかもしれない、皇子。科学は、使う人間を映し出す鏡だ。だが、今のこの国はどうだ? 権力争いで血が流れ、飢饉が起きれば民は見捨てられる。そんな現状を『秩序』と呼んで守る価値が、本当にあるのか?」
私は一号機のハッチから身を乗り出し、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「私は、未来のすべてが正しいとは言わない。だが、今ここで立ち止まれば、死ぬはずのない命が失われ続ける。……入鹿。刀を収めろ。私たちは、彼を殺しに来たのではない」
「……大江? こいつを生かしておけば、また軍を率いて攻めてくるぜ」
「それでもだ。命を奪って得た平和は、次の恨みを生むだけだ。私たちは、彼に『選択』をさせるんだ。力ではなく、豊かさで圧倒してな」
私は一号機のコンソールを操作し、外付けの拡声器の出力を最大に上げた。
「……飛鳥の兵士たちに告ぐ! そして、蘇我蝦夷様、聞こえているか!」
私の声が、雪の谷全体に反響する。
「本日の戦いは、これで終わりだ。私たちは、あなたたちを全滅させるつもりはない。……谷の入り口を塞いだ岩は、数日のうちに山の民たちが取り除くだろう。それまでの間、私たちはあなたたちに『火』と『食料』を提供する。……ただし、条件がある」
私は、車内に積んでいた、陸奥の石炭を使ったポータブルな「蒸気ヒーター」と、高圧釜で一気に炊き上げた「保存食」を、ハッチの外へと放り投げた。
「これを使い、私たちの理が、どれほどの温もりを人に与えるかを、その身で確かめてほしい。……皇子。あなたは飛鳥に戻り、私たちが創る『陸奥の国』がどうなっていくかを、その目で見ていればいい。攻めてくるなら何度でも来ればいい。だが、次にあなたが連れてくる兵士たちは、もはや私たちを敵だとは思わなくなっているだろう。……自分たちを温め、腹を満たしてくれる『理』を、誰が憎めるというのか!」
皇子は、足元に転がった蒸気ヒーターから漏れ出る温かな蒸気を見つめた。冷え切った彼の指先が、無意識にその温もりに惹かれ、僅かに動くのを私は見逃さなかった。
「……ふん。食料と温もりで、余の軍を骨抜きにするつもりか。徹底して甘いな、大江よ。……だが、今日この場は、お前の勝ちだ。……認めよう。余の剣では、その『鉄の心臓』は貫けぬ」
皇子は背を向け、雪の中に跪く兵士たちの中へと消えていった。
「……行っちまったな」
入鹿が刀を納め、深くため息をついた。彼の顔には、憑き物が落ちたような清々しさと、同時に大きな歴史の歯車を動かしてしまったという重圧が同居していた。
「……これで良かったんだよな、大江。俺、本当は親父を……蝦夷を殺したくなかったんだ」
「ああ。入鹿、お前が今日、刀を汚さなかったことが、未来の日本の形を決めたんだ。……さあ、戻ろう。工廠では、次の計画が待っている。白河の関を越えてくるのは、もう軍勢だけじゃない。私たちの『理』を求める、あぶれた民や職人たちが押し寄せてくるはずだ」
私は操縦桿を握り、一号機を反転させた。
背後では、飛鳥の兵士たちが、私たちが与えた「未来の火」を囲み、震える手をかざし始めている。その光景は、数千年の対立を溶かす、最初の一滴のように見えた。
西暦六二五年、冬。
白河の会戦は、一人の戦死者も出さずに終結した。
しかし、それは同時に、飛鳥の中央集権体制が終焉を迎え、陸奥を中心とした「技術立国」という全く新しい歴史が胎動を始めた瞬間でもあった。
工廠へ戻る道すがら、入鹿が呟いた。
「……なぁ、大江。次は、あの『鉄の馬』に、村のみんなを乗せて走らせようぜ。飛鳥の都まで、一晩で着くようなやつをさ」
「ああ。次は『鉄道』だ、入鹿。この国を、物理的に、そして心から繋ぐための鋼の道を敷こう」
降り積もる雪の中、蒸気機関「初雁」が力強く咆哮を上げた。
私たちの進む先には、教科書にも載っていない、白銀の未来がどこまでも広がっていた。




