第五十三話:蒸気の鉄槌、白河の会戦
西暦六二五年。
白河の関へと続くなだらかな傾斜地は、漆黒の闇と、それを切り裂く数千の松明によって異様な光景を呈していた。雪は激しさを増し、横殴りの風が兵士たちの視界を奪う。その吹雪の向こう側から、飛鳥の軍勢は見た。大地を震わせ、白銀の煙を吐き出しながら突き進んでくる「鋼鉄の怪物」の姿を。
移動式砲台「鋼鉄の双星・一号機」。その無限軌道が凍てついた地面を噛み砕く音は、まるで地獄の底から響く唸り声のようだった。私は操縦席の狭い覗き窓から、押し寄せる飛鳥軍の先陣を注視していた。手元の圧力計は限界を指し、ボイラーから伝わる熱気が狭い車内を灼熱に変えている。
「大江、奴ら、腰を抜かしてやがるぜ! 槍を捨てて逃げ出す奴までいやがる!」
砲塔に陣取った入鹿の声が、伝声筒を通じて響く。彼の言う通り、飛鳥の精鋭といえども、自力で動き、火を噴く鉄の塊を前にしては、ただの人間でしかなかった。彼らが信じてきた「戦の常識」が、今、この瞬間、音を立てて崩壊していた。
「……油断するな、入鹿。数では依然として向こうが圧倒的だ。鎌足殿、敵の本陣の動きは?」
車体の影、雪に紛れて並走していた鎌足が、影のように跳ね上がり、ハッチの隙間から報告を入れる。
「……先遣隊は混乱しておりますが、後方の本陣は揺らいでおりません。蘇我蝦夷殿の旗印の隣に、もう一つ……十六葉の菊ではない、不気味なほど静かな気配の将がおります。おそらく、中大兄皇子自ら陣頭指揮を執っておられましょう」
「皇子が……。わざわざこんな北の果てまで、私を殺しに来たというのか」
私は苦い思いを噛み締めた。歴史の修正力というべきか。私が現代の知識で未来を書き換えようとすればするほど、中大兄皇子という男の執念は、より強固に、より残酷に形を変えて立ち塞がってくる。
「……全速前進だ。入鹿、蒸気投射機の弁を最大に開け。殺すためではなく、戦意を喪失させるために撃て!」
「合点承知ッ!」
入鹿がレバーを引くと、一号機の側面から高圧蒸気が凄まじい音と共に噴出した。同時に、バネの反発力を利用した連射式投射機から、特殊な発煙弾が次々と撃ち出される。それは着弾と同時に、周囲を不透明な煙で包み込み、兵士たちの方向感覚を完全に奪った。
「な、なんだ、この煙は!? 目が見えぬ、息ができぬッ!」
「山の神の怒りだ! 逃げろ、逃げよッ!」
悲鳴が雪原に木霊する。一号機は、その混乱の渦中を、象が蟻を蹂躙するように突き進んでいった。鋼鉄の板に跳ね返る矢の音が、虚しく響く。しかし、本陣に近づくにつれ、敵の抵抗は質を変え始めた。
「……大江、前方注意だ! 何か火を灯した大きな樽を転がしてきやがる!」
入鹿の叫びと同時に、衝撃が車体を揺さぶった。
物部の残党が持ち込んだという、原始的な火薬を詰め込んだ木樽だ。爆発の威力自体は一号機の装甲を貫くほどではないが、爆風によって無限軌道に砂利や鉄片が噛み込み、駆動系が悲鳴を上げる。
「……機関出力低下! 蒸気が漏れているぞ!」
私は即座に予備の圧力弁を開き、出力を維持しようと試みた。だが、そこへ追い打ちをかけるように、闇の向こうから一筋の鋭い光が飛来した。
ガキンッ!!
それは、以前私の肩を射抜いたものと同じ、強弓から放たれた鋼の矢だった。それが覗き窓のすぐ横に突き刺さり、厚いガラスにひびを入れる。
「……大江! 無事か!」
「ああ、掠ってもいない。……だが、見えた。あの金の兜……皇子だ」
煙の向こう側、整然と並んだ盾の壁の隙間に、冷徹な瞳を宿した若き野心家の姿があった。中大兄皇子は、混乱する自軍を冷酷に切り捨て、一号機の弱点……すなわち、熱を逃がすための排気口や、視界を得るための覗き窓を的確に狙い撃ちさせていた。
「……入鹿、このままでは囲まれる。一度、谷の方へ誘い込むぞ。山の民たちとの合図は?」
「準備万端だ。あいつら、俺たちが合図を出せば、上から岩を落として道に蓋をする手はずになってる。……大江、本当にやるのか? ここで飛鳥の軍を全滅させれば、俺たちは本当に『逆賊』として歴史に刻まれるぞ」
入鹿の問いに、私は一瞬だけ躊躇した。入鹿を救う。そのために、私は彼に人殺しの汚名を着せようとしているのではないか。だが、彼の瞳を見れば、答えは明白だった。彼は、もう蘇我の家督など見ていない。私と共に創る、誰も見たことのない未来だけを見つめている。
「……逆賊で構わない。数百年後の人間が、私たちをどう評価するかは、私たちが創る未来の豊かさが決めることだ。行くぞ、入鹿!」
「――ああ、地獄の果てまで付き合ってやるよ!」
一号機は急旋回し、深い谷へと続く細い山道へと逃走を開始した。それを見た飛鳥軍は、好機と見て一斉に追いすがる。
「逃がすな! 鋼の化け物を討ち取れ! 首を上げた者には、陸奥の金一万両を与えるぞ!」
皇子の側近の声が響き、兵士たちが我先にと谷へと雪崩れ込んでいく。しかし、それこそが私の描いた「啓蒙」という名の罠だった。
私たちは、谷の中ほどにある、あらかじめ計算された地点で一号機を停止させた。後方からは、数千の兵士がひしめき合い、出口を求めて押し寄せている。
「……鎌足殿、今です」
私の指示を受け、鎌足が夜空に向けて一発の信号弾を放った。多賀で開発した、色鮮やかなマグネシウムの光が、雪空を真昼のように照らし出す。
その瞬間、頭上の絶壁から、山の民たちの雄叫びが響き渡った。
「――放てッ!!」
巨大な岩や丸太が、雪崩と共に谷を埋め尽くしていく。飛鳥軍の前後は完全に遮断され、一万の軍勢は、逃げ場のない狭い空間に閉じ込められた。
私は一号機のハッチを開け、冷たい風の中に身を乗り出した。手には、拡声器代わりのメガホンを握っている。
「……飛鳥の兵士たちよ、そして中大兄皇子! 聞け!」
私の声が、反響して谷底に響き渡る。
「私たちは戦いに来たのではない! あなたたちが守ろうとしているその剣や矢は、もはや古い世界の遺物だ。私たちは、この理(科学)の力で、この国を一つにしようとしている。冬の寒さを、空腹を、理不尽な死を、この鋼の力で消し去ろうとしているのだ! 無益な殺生はやめよ。武器を捨て、私たちの『理』を、共に分かち合う道を選べ!」
静寂が訪れた。
谷の底、雪の中に閉じ込められた兵士たちは、自分たちの命を握っているのが、目の前の巨大な「鉄の怪物」であることを悟っていた。
しかし、その静寂を切り裂いたのは、哄笑だった。
「……ははは! 素晴らしい、実に見事な演説だ、蘇我大江」
盾の壁を割り、中大兄皇子が一人、私の前まで歩み寄ってきた。彼の着物は汚れ、端正な顔にも煤がついていたが、その瞳に宿る野心の火は、以前よりも激しく燃え上がっていた。
「……理で国を救うだと? 傲慢な。国とは、血と、汗と、そして揺るぎない階級によって成るもの。お前の言う『理』は、そのすべてを破壊する毒だ。民が平等に力を持ち、王を必要としなくなれば、この国の形はどうなる? 秩序なき豊かさなど、獣の群れと同じよ」
皇子は、折れた自分の弓を地面に叩きつけた。
「……だが、認めよう。この雪の中で、余の軍を翻弄したその力、もはや人知を超えている。大江よ、そして入鹿。……今日、ここで余を殺せ。さもなくば、余は何度でも蘇り、お前たちのその『未来』とやらを、根こそぎ焼き払ってやるぞ」
入鹿が私の隣で、静かに長刀を抜いた。
「……大江。こいつは、話して分かる相手じゃない。俺たちが創ろうとしている世界には、こいつの席はねえんだ」
私は皇子の瞳を見つめた。
そこにあるのは、純粋なまでの「権力への意思」だった。科学が最も苦手とする、人間の根源的な業。
西暦六二五年、冬。
白河の関の深い谷底で、私たちは究極の選択を迫られていた。
歴史の歪みを正すために、私たちはその手で「未来の創始者」となる男を葬るべきなのか。
降り積もる雪が、すべてを白く覆い隠そうとしていた。
私の隣で、蒸気機関「初雁」が、静かに、しかし力強く、新しい時代の胎動を刻み続けていた。




