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第四十九話:北方の工廠、黒き水の胎動

西暦六二五年。

白河の関を越えた私たちは、人目を避けながらさらに北へと進路を取った。目指すは、以前の多賀の拠点よりもさらに深く、奥羽山脈の懐に抱かれた未踏の地である。秋の気配は日増しに濃くなり、山々の広葉樹が燃えるような鮮やかさを見せ始めていた。

道中、私たちはかつて多賀で共に汗を流した技術者数名と密かに合流した。彼らは飛鳥からの監視を恐れ、一時的に身を隠していたが、大江と入鹿が戻ったという報せを受け、命懸けで駆けつけてくれたのだ。

「大江様、入鹿様……! よくぞ、よくぞご無事で!」

ひげ面に泥をつけた鍛冶師の棟梁・岩吉が、大粒の涙を流しながら私たちの手を取った。彼の手は火傷とたこで固くなっており、彼らがこの数ヶ月間、どれほど苦労して技術を守り抜いてきたかを物語っていた。

「岩吉、苦労をかけた。だが、ここからが本当の勝負だ。飛鳥には戻らない。私たちはここで、誰も手出しできない『科学の都』を築く」

私の言葉に、岩吉ら職人たちは力強く頷いた。

私たちは、険しい山を登りきった先にある隠れ里のような盆地を拠点に定めた。そこには豊富な水量を誇る滝があり、さらに近隣の谷からは「燃える水」――すなわち原油が地表に滲み出しているという報告があった。

「さあ、入鹿。まずはこの滝のエネルギーを『動力』に変えるところから始めるぞ」

私は到着するやいなや、休む間もなく設計図を広げた。入鹿は疲れも見せず、岩吉たちと共に巨木を切り出し、土を掘り、拠点の礎を築き始めた。

今回の再建において、私が最も重視したのは「水力による自動旋盤」の完成である。以前の多賀では、人の手で旋盤を回していたため、回転数にムラが生じ、鋼を削る際の精度が安定しなかった。それが蒸気機関の気密性を損なう最大の要因だった。

「この巨大な水車を回し、その回転を歯車で変換して旋盤に伝える。そうすれば、人間の千倍の力で、寸分の狂いもなく鋼を削り出すことができる」

私は数日かけて、複雑な木製歯車と青銅製の軸受けを組み合わせた設計図を書き上げた。職人たちは、見たこともない複雑な構造に戸惑いながらも、私の指示に従って正確に部品を加工していく。

入鹿は、その横で黙々と重い鋼材を運んでいた。

「大江、この歯車の組み合わせ……まるでお前が言ってた『時計』の中身みたいだな。こんなに大きなものが、水の力だけで動くなんて、まだ信じられねえよ」

トルクと速度の関係だよ、入鹿。小さな力を大きな速度に変えたり、その逆を行ったりする。これができれば、私たちの手は、巨人の力を持つことになるんだ」

工廠の建設と並行して、私は鎌足に命じ、近隣の谷から滲み出している「黒い水」の回収を行わせた。バケツに集められたその水は、強烈な腐臭を放つどろりとした液体だった。

「……大江殿、これが本当に、あの鉄の心臓を滑らかに動かす鍵となるのでしょうか。ただの不浄な泥水にしか見えませぬが」

鎌足が眉をひそめながら尋ねる。

「ああ。これを熱して蒸留し、成分を分けるんだ。不純物を取り除けば、最高級の潤滑油になる。さらに、副産物として得られる『軽質油』は、将来的にさらに強力な動力源になる可能性も秘めている」

私は、粘土と鉄管で作った簡易的な蒸留装置を組み上げた。黒い水を熱し、立ち上る煙を冷やして滴り落ちる液体を集める。透明度を増したその油を指ですくい、金属の板に垂らしてみる。

「見てくれ、この滑らかさを。これが、摩擦という『科学の敵』を打ち負かす武器だ」

潤滑油の精製に成功したことで、職人たちの士気は一気に高まった。彼らは、大江の語る理屈は理解できずとも、目の前で起きる「奇跡」の連続に、自分たちが歴史の最前線に立っていることを確信し始めていた。

だが、平和な時間は長くは続かなかった。

ある夕暮れ時、偵察に出ていた鎌足が、険しい表情で戻ってきた。

「……動きがありました。飛鳥からの追手ではありません。この陸奥の山々を根城にする、大規模な蝦夷えみしの武装集団です。彼らは、我々が山を切り拓き、不気味な煙を上げているのを、山の神を冒涜する行為と見なしているようです」

入鹿が長刀を手に立ち上がった。

「神を冒涜、か。親父たちの次は、山の主たちが相手ってわけか」

「……入鹿、待て。武力で解決するのは最後の手段だ。彼らにとっても、私たちの技術は福音ふくいんになり得る。冬を越すための暖房、農作業を楽にする道具。それを見せれば、彼らも理解してくれるはずだ」

「甘いよ、大江。……でも、お前がそう言うなら、まずは『対話』の準備をしてやる。ただし、あいつらが矢を放ってきたら、俺がその前に立たせてもらうぜ」

西暦六二五年、秋。

北方の深い森の中で、産声を上げようとしている「蒸気と鋼の文明」。

それは、飛鳥の権力者たちだけでなく、古くからこの地を守ってきた先住民たちにとっても、あまりに強烈な光を放っていた。

私は、未完成の水力旋盤を見つめた。

歯車が噛み合い、最初の一回転を始める時。

私たちの運命もまた、取り返しのつかない加速を始めることになる。

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