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第二話:斑鳩の賢者、神童の試練

――西暦六〇三年。推古天皇十一年。

 この年はのちに、日本初の階級制度である「冠位十二階」が制定される年として歴史に刻まれることになる。だが、その華やかな改革の影で、私は斑鳩いかるがの地で泥にまみれていた。


飛鳥の春は、現代のそれよりもずっと土の匂いが濃い。

 蘇我の本拠地である豊浦から、厩戸皇子――聖徳太子が待つ斑鳩いかるがの地までは、子供の足ではなかなかの距離がある。私は馬に揺られながら、隣で落ち着きなく周囲を見渡す入鹿の横顔を眺めていた。

「大江、斑鳩に行けば、あの『日出づる処の天子』と名高い皇子にお会いできるのだな。お前、緊張していないのか?」

 入鹿の声には、隠しきれない興奮と、わずかな畏怖が混じっている。

 歴史上の入鹿は、後に山背大兄王(聖徳太子の息子)を自害に追い込み、太子の血筋を絶やす宿命にある。だが今の彼は、偉大な政治家への純粋な憧れを抱く少年でしかなかった。

「緊張、か。……そうだな。だが、恐れていても道は開けないさ、入鹿」

 私は短く答え、己の手のひらを見つめた。

 六歳の子供の、小さく柔らかな手。だが、この中には現代社会で磨き上げた「論理」という最強の武器が詰まっている。

 

 やがて視界が開け、建設途中の壮麗な寺院と、質素ながらも力強い佇まいの宮が見えてきた。

 斑鳩宮。そこは、当時の日本における「知」の最前線だった。

 通された広間は、静寂に包まれていた。

 奥に座る厩戸皇子は、先日豊浦で見た時よりもさらに鋭い覇気を纏っているように見えた。その傍らには、大陸から渡ってきたであろう膨大な数の竹簡や木簡が積み上げられている。

「よく来たな、蘇我の双星よ。入鹿、お前はあちらで学問の師が待っている。まずは基礎を固めてくるが良い」

「えっ、私は大江と一緒に……」

「ならぬ。大江には、私と語ってもらわねばならぬことが山ほどあるのだ」

 皇子の言葉は、拒絶を許さない響きを持っていた。入鹿は不満げに私を振り返ったが、私が小さく頷くと、渋々ながらも部屋を後にした。

 

 広間に二人きり。

 皇子は、手元にある一本の木簡を私の方へと滑らせた。

「大江よ。お前が馬子に説いた『公の法』、そして『才による登用』。あれは実に面白い。だが、一つ欠けているものがある。それは『実行の術』だ」

 皇子の瞳が、射抜くように私を捉える。

「この国には、文字を読めぬ役人が溢れている。己の土地の広さも、収穫できる米の正確な量も、誰も把握できておらぬ。数さえ数えられぬ者に、どうやって『法』を説くつもりだ?」

 これは試練だ。

 理想を語る子供ではなく、実際に役に立つ「知恵」を持っているかどうかを試されている。

 私は懐から、あらかじめ用意しておいた一枚の紙――当時の貴重な紙を使い、書き記した「図面」を取り出した。

「皇子。言葉で理解できぬ者には、数字と形を示すのが最善にございます。これは、私が考案した『新式の測量法』と『計算盤』の設計図です」

「計算盤……?」

 皇子が眉をひそめ、図面を凝視する。

 そこに描いたのは、現代で言う「そろばん」の原型と、三平方の定理を用いた三角測量の概念を簡略化したものだ。

「これを用いれば、複雑な土地の面積も、数人の子供でも正確に算出できます。また、こちらの『算盤そろばん』を使えば、一万を超える数の足し引きも、瞬時に、かつ誰がやっても同じ結果になります。これこそが、公平な徴税……すなわち『公』の第一歩にございます」

 皇子の沈黙が続く。

 彼は図面と私の顔を何度も往復させた。現代なら義務教育レベルの知識だが、七世紀のこの地においては、それは魔術にも等しい革新だ。

「……お前は、この術をどこで学んだ? 百済の僧も、隋の学士も、これほど洗練されたことわりは持っておらぬ」

「夢の中で、大陸のさらに西にある国の賢者から教わりました」

 私は精一杯の子供らしい嘘をつく。皇子はふっと小さく笑い、その細い指で図面をなぞった。

「嘘ではないな。お前の目には、確かに私と同じ『孤独』が宿っている。見えている景色が、周りの者とは違いすぎるゆえの、な」

 その言葉に、心臓が跳ねた。

 聖徳太子。十人の話を一度に聞き分けたという伝説を持つこの男は、あるいは本当に、時を超えてきた私の正体に気づいているのかもしれない。

「大江。お前に最初の仕事を授ける。現在、斑鳩の北にある川を堰き止め、新たな灌漑用水路を造る計画がある。だが、地形が複雑で、水が逆流して使い物にならぬと職人たちが頭を抱えているのだ」

 皇子は立ち上がり、私の肩に手を置いた。

「お前のその『測量術』で、三日以内に水路の道筋を引き直してみせろ。できなければ、お前の言う『公の法』など、ただの空論として切り捨てる」

「……謹んで、お受けいたします」

 私は深く頭を下げた。

 これが、私が歴史を書き換えるための、最初の実戦になる。

 翌日から、私の「戦い」が始まった。

 幼い体に泥をつけながら、私は入鹿を助手として現場に向かった。

 現場の職人たちは、六歳の童がやってきたことに露骨な拒絶反応を示した。

「おいおい、蘇我の坊ちゃんが泥遊びか? 悪いが、こっちは命懸けで水路を掘ってるんだ。邪魔しないでくれ」

 職人の親方が吐き捨てる。

 入鹿が激怒して一歩前に出ようとしたが、私はそれを手で制した。

「親方。この水路、このまま掘り進めれば、次の大雨で決壊して下流の村が沈みますよ。それでも良いのですか?」

 私の静かな問いに、親方の顔色が赤黒く染まる。

「何を根拠にそんな不吉なことを!」

「根拠は、これです」

 私は地面に滑らかな平地を作り、そこに即席の「水準器(水を入れた器と定規)」を置いた。そして、現代の土木知識に基づいた「勾配(斜度)」の計算結果を、彼らにもわかる言葉で説いていく。

「水は高いところから低いところへ流れる。当たり前のことですが、この土地の『高さ』を正確に測っている人はいますか? 目で見て決めるのは、神様でもない限り不可能です。私が今から、この棒と糸を使って、正しい水の道を教えます」

 職人たちは呆気に取られていたが、入鹿が「大江の言うことは、馬子様も認めたことだぞ!」と叫ぶと、渋々ながらも従い始めた。

 三日間、私は入鹿と共に現場に張り付いた。

 入鹿は、私の指示を職人たちに大声で伝え、時には自ら石を運び、現場を活気づけた。彼のカリスマ性は、この頃からすでに芽生えていた。

 

 そして三日後の夕暮れ。

 堰を切り、水が新しく掘られた水路へと流れ込んだ。

 水は逆流することなく、まるで見えない手に導かれるように、乾いた大地へと吸い込まれていく。

「流れた……流れたぞ!」

「あんな小さな棒きれで、これほど正確に……!」

 職人たちの歓声が響く中、私は遠くに立つ一人の影を見つけた。

 厩戸皇子だ。

 彼は満足げに一度だけ頷くと、何も言わずに宮の方へと戻っていった。

 その日の夜。

 斑鳩宮の一角で、私は入鹿と二人、月を見上げていた。

「大江、凄かったな! あの強情な親方が、最後にはお前に頭を下げていたぞ」

 入鹿が自分のことのように胸を張る。

「私のおかげじゃない。入鹿が職人たちをまとめてくれたからだ」

「へへ、そうか? ……なあ、大江。私は今日思ったんだ。力で従わせるよりも、あいつらのように『納得』させて動かす方が、ずっと気持ちが良い。お前の言う『法』っていうのも、こういうことなのか?」

 その言葉に、私は救われたような気がした。

 独裁者への道を歩むはずの入鹿が、今、確かな一歩を別の方向へ踏み出したのだ。

「ああ。そうだ、入鹿。それが国を創るということだ」

 だが、この平穏な成功を、苦々しい思いで見つめる者たちもいた。

 蘇我の台頭を、そして「神童」の出現を快く思わない旧勢力。

 歴史の闇の中から、中臣なかとみの名を持つ一族の影が、静かに動き出そうとしていた。

 私は夜風に吹かれながら、決意を新たにする。

 聖徳太子の信頼を勝ち取り、入鹿を導く。それが、乙巳の変という名の絶壁を越えるための、唯一の地図になるのだ。

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