プロローグ:鉄の咆哮、運命の分岐点
その日、飛鳥の空は、見たこともない「黒い雲」に覆われていた。
西暦六四五年六月十二日。後に「乙巳の変」と呼ばれる、日本史を揺るがす暗殺劇の舞台――飛鳥板蓋宮。
本来の歴史であれば、蘇我入鹿という一人の男が、中大兄皇子と中臣鎌足の放った刃に倒れ、蘇我氏の栄華が潰えるはずの、血塗られた一日。
しかし、広間に集まった群臣たちの耳に届いたのは、三韓の儀式を告げる調べではなかった。
それは、大気を震わせ、内臓にまで響くような、重々しくも規則的な「金属の咆哮」だった。
「……来たな、大江」
御前で立ち上がった蘇我入鹿は、豪華な装束の下に、油の染みた無骨な革のグローブを嵌めていた。その瞳に宿るのは、権力への執着ではなく、未知の地平を見つめる開拓者の輝き。
広場の向こうから現れたのは、牛車でもなければ、騎馬の列でもなかった。
蒸気を噴き上げ、黒鉄の巨躯を震わせながら、石畳を噛み砕いて進む「鋼鉄の怪物」――。
その運転台に立ち、冷徹に計器を見つめる一人の青年がいた。
彼の名は、大江。
二十一世紀の知識を抱えたまま、この動乱の時代へと墜ちた、孤独な「未来の工匠」。
「歴史の修正か、あるいは科学による叛逆か……。皇子、あなたの描いた筋書きは、この蒸気の煙で書き換えさせてもらう」
大江がバルブを開くと、凄まじい排気音が宮殿を揺るがした。
暗殺の刃を隠し持っていた中臣鎌足が、その異様な光景に目を見開く。中大兄皇子の放った矢は、鋼の装甲に虚しく弾かれた。
暗殺という名の「停滞」を、蒸気という名の「加速」が飲み込んでいく。
これは、たった一人の男を死から救うために、一三〇〇年の時を飛び越えた知恵が、古代日本のすべてを塗り替えていく物語。
一本のレールが飛鳥の都に敷かれたとき、日出づる国は、世界のどこよりも早く「鋼と蒸気の時代」へと突入する。
「蘇我の双星」――今、その歴史が動き出す。




