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第一話:泥中の産声、飛鳥の風

――西暦五九六年。推古天皇四年。

 のちに飛鳥時代と呼ばれるこの激動の時代の只中に、私は産声を上げた。

 意識の深淵で、私は自分の輪郭を必死に繋ぎ止めていた。

 最後に見た光景は何だっただろうか。深夜のオフィス、青白い液晶の光、鳴り止まない通知音……。効率と数字に追われ、すり減るように生きていた「私」の記憶。それが、まるで水に溶けるインクのように淡く遠のいていく。

(……ああ、終わったのか)

 死への恐怖よりも、奇妙な安堵が先にあった。だが、虚無が私を飲み込もうとしたその瞬間、唐突に「重力」が私を捉えた。

「――っ!」

 肺腑が焼けるような痛みに襲われ、喉の奥からせり上がる塊を吐き出す。

 次の瞬間、私の耳を貫いたのは、暴力的なまでに生々しい「音」の奔流だった。

「お生まれになった! 男児にございます、刀自とじ様!」

「水を! 清らかな水を持ってまいれ!」

「産声が……ああ、なんと力強い……!」

 湿り気を帯びた空気、焚きしめられた野性味のある香の匂い。そして、肌を刺すような冷気。

 目を開けようとするが、視界は粘膜に覆われたように白く濁っている。ただ、自分を抱き上げる温かな手の感触と、周囲の人間たちが放つ熱気だけが、ここが「現実」であることを突きつけていた。

 私は、叫んだ。

 それは赤子としての本能的な泣き声であったが、同時に、もう一度生を与えられたことへの、魂の咆哮でもあった。

 月日は、瑞々しく、しかし残酷なほどに流れた。

 自分が置かれた状況を、知識としてではなく「実感」として理解したのは、三歳になった頃だ。

 私の名は、蘇我大江そがのおおえ。父は蘇我倉麻呂、そして一族の頂点に君臨するのは、時の最高権力者・蘇我馬子。

(よりによって、蘇我か……)

 庭先に座り込み、飛鳥の山々に沈む真っ赤な夕日を眺めながら、私は小さく溜息をついた。

 今は西暦五九九年。現代の日本人で、この「蘇我」の名を知らぬ者はいない。日本史において、これほどまでに「悪」として描かれた一族も珍しい。仏教伝来を巡る物部氏との死闘、崇峻天皇の暗殺。そして、約半世紀後の「大化の改新(乙巳の変)」によって滅ぼされる、悲劇の主役だ。

 だが、実際にこの時代に生を受けて見えてきたのは、別の景色だった。

 この飛鳥は、あまりにも脆い。道路は舗装されず、医療は呪術と紙一重。ひとたび飢饉が起きれば村一つが簡単に消える。そんな時代に、大陸の進んだ文明を必死に取り込み、この島国を「国家」の形に整えようともがいているのが、今の蘇我一族なのだ。

「大江! またそんなところで考え事か。老いぼれのような顔をしておるぞ」

 背後から声をかけてきたのは、私より二つほど年上の少年だった。まだ幼い顔立ちながら、その瞳には意志の強さが宿り、身にまとう絹の衣が夕日に映えて眩しい。

「……太郎か」

「太郎ではない、入鹿いるかだ! 父上から正式に名を賜ったのだと言っただろう」

 少年――のちの蘇我入鹿が、不満げに鼻を鳴らして私の隣にどっかと腰を下ろした。

 西暦六四五年に、板蓋宮いたぶきのみやで中大兄皇子の刃に倒れ、その首が空を舞うとされる「独裁者」。だが、目の前にいる彼は、ただの真っ直ぐで、少しばかり寂しがり屋な、私の従兄弟だ。

「入鹿、か。海をゆく王者の名だな。お前に相応しい」

「だろう? 私はこの飛鳥を、誰にも文句を言わせぬ強い国にする。大江、お前も手伝え。お前は私よりもずっと多くのことを知っているようだからな」

 入鹿は、私の手をとって笑った。その掌の熱さに、胸の奥が締め付けられる。私は知っている。彼がこれから歩む道が、どれほど孤独で、どれほど憎悪に満ちたものになるかを。そして、その終着点が、あの血塗られた政変であることを。

(させない。入鹿、お前をそんな運命には落とさない)

 私は彼の掌を握り返した。もしも歴史という名の大河が、決まった方角へ流れているのだとすれば、私はその流れを堰き止め、新たな水路を切り拓く「異物」になってやる。

 ――西暦六〇一年(推古九年)。

 五歳になった私は、ついに祖父・馬子の前に呼び出された。

 場所は蘇我氏の本拠、豊浦とゆらの邸宅。当時の建築技術の粋を集めたその屋敷は、訪れる者を威圧する壮麗さを放っていた。

「大江よ。面を上げよ」

 上座に座る馬子は、まさに老いた獅子だった。深く刻まれた皺の一本一本に、権力闘争を勝ち抜いてきた執念が刻まれている。その眼光に射すくめられ、並の子供なら呼吸さえ忘れるほどの圧迫感だ。

「お前は、書物の読み書きを教えずとも解したという。唐の国の言葉や、百済から届いた経典の内容まで論じるとか。まことか?」

 私は静かに頭を下げ、淀みなく答えた。ここで子供らしく振る舞う必要はない。蘇我という巨大な権力機構の中で、発言権を得るためには「価値」を示すしかない。

「論じるなどと滅相もございません。ただ、先人が残したふみの中には、今の飛鳥が抱える病を治すための『薬』が隠されているように見えたまでにございます」

「薬だと? 面白い。では、この馬子に問うてみよ。今のこの国に最も必要な薬とは何だ?」

 馬子の目が、獲物を狙う獣のように細まる。私は一呼吸おき、現代のコンサルタントとしての知見と、この時代の歪みを脳内で照らし合わせた。

「……『おおやけ』という概念にございます」

「ほう、公だと?」

「はい。今はただ、氏族ごとの力の強弱で物事が決まります。蘇我が強ければ蘇我が、物部が強ければ物部が采配を振るう。しかし、それでは国は一つにまとまりませぬ。氏族の利ではなく、この日出づる国全体の利を律する『法』。そして、家柄ではなく才によって人を登用する『仕組み』。それこそが、大陸の巨大な帝国に対抗しうる唯一の手段にございます」

 部屋に、凍りついたような沈黙が流れた。馬子の背後に控えていた入鹿の父・蝦夷えみしが、驚愕に目を見開いているのがわかる。五歳の童が口にするには、あまりにも早すぎ、かつ過激な思想。

 馬子はしばらくの間、私の顔を凝視していた。やがて、その肩がわずかに震え始める。

「……く、はははは! 痛快なり!」

 馬子は豪快に笑い、膝を叩いた。

「倉麻呂の息子に、これほどの麒麟児が隠れておったとは。公の法か、面白い。大江よ、お前がその『薬』を調合してみせろ。蘇我の財も、力も、お前の好きに使わせるゆえ。その代わり、この飛鳥を……いや、この国を、大陸に負けぬ姿に変えてみせよ!」

 この日、私は正式に「蘇我の神童」として認められた。それは、私の平穏な「二度目の人生」が終わりを告げ、血塗られた飛鳥の政治闘争へと身を投じる合図でもあった。

 それから、私の周囲は目まぐるしく動き出した。馬子の命により、私は入鹿と共に、蘇我の私塾で英才教育を受けることになった。大陸から招いた僧侶や学者を相手に、私はあえて現代の知識を「再発見」という形で小出しにしながら、彼らの理論を洗練させていった。

 算術を教え、土木の基礎を説き、衛生概念を広める。「神童」の噂は、瞬く間に飛鳥の都を駆け抜けた。

 そして、運命の日は、不意に訪れる。

 ――西暦六〇二年(推古十年)春。

 桜の花びらが舞う豊浦の邸に、一人の貴人が訪ねてきた。馬子ですら、その前では深々と頭を下げる。その人物は、どこか浮世離れした静謐な空気を纏っていた。

「お前か。未来を語る童というのは」

 その声を聞いた瞬間、私は自分の背筋が凍るのを感じた。

 厩戸皇子うまやどのおうじ。のちに聖徳太子と呼ばれる、この時代の「知」の頂点。

「初めまして、大江と申します……」

「形式的な挨拶は良い。大江よ。お前が夢想する『公の国』には、仏の救いはあるのか? それとも、ただ冷厳な法だけが人を縛るのか?」

 皇子の問いは、鋭い。私は直感した。この男に嘘は通じない。そして、この男こそが、私がこの時代で最初に出会う、対等な「知」の持ち主であることを。

「皇子。法は人を縛るものではなく、守るものでございます。そして仏の慈悲は、法で守られた平穏の中にこそ、真に宿るものと存じます」

 私の答えを聞き、皇子は初めて、薄く、しかし確かな笑みを浮かべた。

「面白い。馬子の孫に、これほどの者がいようとは。大江、お前を私の『影』として斑鳩いかるがへ呼びたいが、拒む権利はお前にはない」

 こうして、私の人生は蘇我という枠を超え、古代日本の国家建設そのものへと巻き込まれていくことになった。入鹿の行く末を守り、鎌足という宿敵を迎え撃つための、果てしない知略の戦い。その第一歩が、飛鳥の柔らかな風と共に、今、踏み出されたのである。

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