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一章 五

 稲川学問所(いながわがくもんじょ)は、常盤国(ときわのくに)において代々官僚を務める岩槻(いわつき)家が設立した教育施設である。常盤国稲川郡にあることから、その名がついていた。


 貴族や上級官吏といった身分ある家の子息のみ通える高等学校とは異なり、学問所は学費さえ納められれば身分や性別を問わず、誰でも通うことができる。

 講師 は各国内および近隣都市の役人や学士・寺僧であったため、国によって教育の質に偏りがあるうえ、授業は週3日であるが、教育内容としては高等学校と同一であり、国学、歴史、算学、政治学といった学問と、剣術、槍術といった武道を習得することができた。

 学問所で優秀な成績を修めると、帝都・桜宮(さくらのみや)にある皇族が直轄する学問所、皇學館(こうがっかん)への推薦状がもらえ、その後、最高学府である大学寮(だいがくりょう)へ進学したり、宮中で国家政治に携わる者もいた。


 とはいえ、その学費はだれでも払える額ではなく、取得可能単位を全て修了できる者はまれであったし、家業の手伝いをしなければならない者も多い。そのため、無料で読み書きと簡単な算術のみを習得できる寺院の筆学所(ひつがくしょ)ほどには門戸が開かれているとは言い難かった。

 また、そうであるがゆえに、特に地方の学問所は学生が少なくなり経営費に苦しんでいるところも多かった。


 山道をしばらく上ったところで、瓦屋根の設けられた門と、そこからのびる石垣が見えてくる。

 この校門から続く生垣に囲われた敷地の中に、学問所としての建物と、岩槻家の住居が設けられている。


 校門を抜け、瓦屋根の武術館を左手に進んでいくと、正面に見えるのが目的地である茅葺き屋根の修学館だ。

 修学館の玄関をくぐり、履物を脱いであがると、 左右を障子戸に囲まれた板間が広がっている。板間には二人人掛けの机が三十台程並べられている。

 天井に設けられた明かり窓から入り込んだ光がよく磨かれた杉の床板に反射し、その広さに反して部屋の中は明るい。


 ここが講義室であり、修学館の八割はこの部屋が占めている。学問所の講義はこの部屋で、一度に五十人程度を相手に行われる。

生徒一人ひとりに目が行き届くよう、 講師 一人に対し二十人程度の生徒を相手に講義を行う高等学校とは異なり、一人でも多く教育の機会を設けることが重視されている故の構造である。


和真(かずま)さん、来ないね」

「うん。ここで待ってろって言われたんだけどなぁ。ちょっと母屋のほう捜してくる。行き違いになるといけないから、百夜(ももよ)はここにいて」

「うん」


 岩槻家の住居へと続く小道をかけていく理奥(りおう)の姿を縁側から見送ると、百夜はそのまま腰を下ろした。


 真昼の日差しはまだ痛いが、時折り駆け抜けていく風は心地よい。

 まるで世界に一人取り残されたかのように静まり返っているが、いつもはこの広い講義室には音読の声が響いている。


「理奥はすごいなぁ」


 最初は百夜が理奥に勉強を教えていたこともあった。

 けれど、いつの間にか理奥は難しい本も読めるようになり、今では百夜が教わる側だ。最近では、正隆(まさたか)の仕事の手伝いで屋敷を空けることもある。


 そして今回、天望試験(てんぼうしけん)に出てしまうのだ。


 --望試で理奥が優秀な成績をおさめて、私の家庭教師になったらどうしよう。


 百夜は表情が緩むのを止められない。


 ーーそうしたら、理奥と一緒にいられる時間が長くなるし、女学院にだって行かなくてもいいはずだわ。


 理奥が自分だけの先生になる生活を想像し舞い上がっていた百夜は、突如として響いた金属を引っ掻いたような鈍い音に、我に返った。


「理奥?」


 そう遠くはないところから聞こえたように思えた。


 --理奥がいなくなってから、そんなに時間は経っていないはずだけれど……。


 百夜が縁側から首を伸ばすと建物の白い壁が見えたが、人影は見えない。

 しばらく待ってみたが、誰も来ないし物音もしない。

 不安になった百夜は玄関で履物をはくと、修学館をぐるりと回りこみ、白い建物に近づいた。


 学問所の敷地内は主要な建物をつなぐように道が整備されている。

 けれどその建物は、それらの道から外れるようにひっそりと建っていた。


 外壁を漆喰で白く塗りつぶされた土蔵で、扉がある面の幅は三間程だが、その倍以上の奥行きがあった。

 土蔵の周りだけ高木が影を落としているため昼間なのに薄暗く、昼間なのに幽霊が出そうな雰囲気であった。


 重たげな戸前は開け放たれ、その中から覗く木戸の鍵も外れている。

 扉の脇には「収蔵庫」と書かれた木札が釘で打ち付けられており、その前には「関係者以外立ち入り禁止」と朱で書かれた立て札があった。


「理奥ぅ」


 百夜は収蔵庫の中を覗き込み呼びかけてみるが、応えはない。


 扉の向こうに広がるのはは暗闇で、明かりといえば真向いにある窓から光ががわずかに差し込んでいるのみ。それであっても、空間が広すぎるのか、中の様子は窺い知れない。

 中から漂う埃っぽい空気が、百夜の鼻の奥をくすぐる。

 少しの逡巡の後、百夜は扉の向こうへ足を踏み入れた。


 手に触れるものの感覚を頼りに、一歩一歩確かめるように前に進んでいく。


「理奥ぅ」


 名前を呼ぶ声が震える。

 先に進むのは怖い。

 理奥がここにいる確証もない。

 でも、一人で残される方がもっと怖い。


 逃げ出しそうになる足を奮い立たせながら、百夜は前に進む。

 目が暗闇に慣れてくると、次第に、そこにある背の高い棚やそこに置かれた書物がわずかに判別できるようになってきた。

 さらに奥へと進み外の光が届く場所まで来ると、その色も認識できるようになっていく。


 明かりがあるということに安心したのか、百夜の足がもつれ、よろめいた。

 反射的に近くの棚にもたれかると、その衝撃で棚に横積みされていた書籍がこぼれ落ちる。


「きゃっ」


 舞い上がった埃をかぶった百夜は、着物の袖で口元を覆った。


「もう!」


 悪態をつきながらしゃがみ込み、表紙に残る埃のざらりとした感触に気持ちの悪さを覚えつつ、落ちた本を拾い上げる。

 そのうちの一冊に見知った外題を見つけた百夜は、中身をぱらぱらとめくった。


稲積ケ原(いづみがはら)に成りませる神、宿原命(すくはらのみこと)……」


 古語で書かれたそれは、歴史書だった。

 四柱の神が天地をつくってから、稲穂にあふれる国になるまでの話だ。


 ところどころつっかえながらも、百夜は文字一つ一つを読み上げていく。


ーーほら、古語だって読める。女学院に行かなくったって何も問題ないわ。


「百夜?」


 自分の名前を呼ぶ声に、百夜は反射的に口を噤んだ。

 振り向くのは怖いが、それが理奥の声ではないことだけはわかる。


 と同時に、入り口の立て札を思い出した。

 古語が読めることへの高揚感に浸って忘れていたが、ここは入ってはいけない場所だ。


 以前、学問所の生徒が罰を受けていたのを見たことがある。その時は、提出物を何度も持ってこないとか、生徒同士の喧嘩とか、その類が原因ではあったが。

 彼らは反省文を提出の上、あの広い講義室の掃除を命じられていた。


 百夜はそのことを今更ながらに思い出し、全身の血の気が引いて行くのを感じた。


 恐る恐る振り返ると、目に映ったのは、油紙に囲われた燭台の光に照らされた青年の姿だった。

 黒髪黒目と、標準的な瑞穂国民の特徴を備えた青年である。

 彼の背には、大型の風呂敷が背負われており、その端が胸の前で斜めに結ばれている。


「和真…さん……」


 稲川学問所を経営する岩槻家の長男が和真で、稲川学問所の講師でもあった。

 面倒見がよく、生徒たちからは兄のように慕われていることが多い。

 実際、百夜にとっても気負わずに話せる存在であった。


 ……いつもならば。


 今の百夜ははどう見ても、規則を破った上に好き勝手している人間である。

 物事の分別をわからない幼児ならともかく、見逃されることがあるだろうか。  


 どうにか逃げ道がないかと考えていた百夜の手から書籍が滑り落ちる。

 ーーいけない。

 そう思う間に、頭上から衝撃が降ってきた。


「ーっ」


 あまりの痛さに、百夜は言葉にならないうめき声をあげながら頭を抱えてうずくまった。


「……和真さん……今、思いっきり殴ったでしょう」

「当たり前だ。入口に立ち入り禁止って書いてあっただろ」

「だって。理奥も和真さんを探しに行ったきり、戻ってこないんだもの!」

「言い訳しない。ここにある資料は無くしたら買い直すのが難しいものばかりだってことは、百夜だってわかってるだろう?」

「……ごめんなさい」


 和真は油紙で囲われた燭台を棚の側面に設けられた吊り金具にかけると、百夜と話しながら周りに落ちている書籍を拾い上げ、状態を確認しながら慣れた手つきで元の位置に戻していく。


「まったく。あとで、罰掃除な」

「……」

「返事は」

「……はい」 

 

 あっさりとした口振りだが有無を言わせないその雰囲気に、百夜はそう答えるしかなかった。

 ばあやに外出の許しをもらうことや、長い小言を食らうだろうことを考えると、自業自得ながら憂鬱になる。


「ほら。さっさと出るぞ」


 歩き出す和真を慌てて追いかける。

 いつもは他愛もないことを話したりもするのだが、申し訳なさと気まずさでいっぱいの百夜はしゅんとして後ろに従っているしかない。


 外に出て、収蔵庫の鍵を閉めながら、和真がぽつりとつぶやいた。


「百夜は『稲史記(とうしき)』読めるんだな」

「え? ええと、一章の半分くらいまでは」

「……そうか」


 どうして急にそんなことを聞くのだろう。

 百夜は訝しく思ったが、「さて」という呟きに続いた言葉に吹き飛んだ。 


「修学館行って、その後、家に向かうか。茜に会いにきたんだろう?」

「うん!」


 途端に嬉しそうにほころんだ表情に、和真は苦笑を漏らした。

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