一章 二
「私の話なんて全く耳も貸さないの。お祖父様ったらひどいのよ」
「その話は何度も聞きました」
部屋に戻るなり祖父に対する不満を繰り返し連ねる百夜に、女中の高峰沙耶は琴の弦を調律する手を止めた。
「琴の練習に付き合ってほしいとおっしゃっるから時間をつくりましたのに」
沙耶は九つの頃から結城家に奉公している。
もともと結城屋の店舗で働いていたが、百夜の両親が亡くなってからは、百夜が寂しい思いをしないようにという正隆の働きかけにより、百夜つきの女中として屋敷で働いていた。
歳は十七と若いが、使用人の教育に熱心な結城の方針のおかげもあり、読み書き計算、礼儀作法や奏楽などの知識もあり、百夜の自習につきあうことも多かった。
「琴の練習はやるわ。でも今はそれどころじゃないんだもの。次にお祖父様が戻られるまでに、行かなくてもよい理由を見つけなきゃ。お母様もお祖母様も行っていないのに、私だけ行かなきゃいけないなんておかしいわ」
「なにもおかしいことはないと思いますけど。百夜様は次期当主になられるお方ですけれど、椿様は小さな商店の出ですし、千代様の時代にはそもそも女学院自体が平民に開かれておりませんでしたから」
「それは……そうだけど……」
――どうせ、次の当主は従兄の遥に決まっているのに。
喉から出かけた言葉を百夜は飲み込んだ。
誰も口にはしないが、親族の言動を見ていればわかる。
正月に集まった時も、皆、遥には積極的に話しかけるが、百夜には形だけの挨拶をするくらいだ。
けれど、女学院に行きたくない一番の理由は、それではない。
稲花女学院に入ったら、決められた休みにしか帰ってくることはできない。そしたら――
「ありがとうございます」
頭の中に思い描いていた人物の声がして、百夜の心臓がとくんと跳ねた。
彼にしては珍しい、大きな声。
障子戸から顔を覗かせると、中庭を挟んだ向こうの廊下に、その人はいた。
遠目にもわかる明るい黄色の髪。
瞳を覗けば、それが深い緑色をしていることもわかるだろう。
国民のほとんどが黒髪黒眼であるこの国では、珍しい色の組み合わせだ。
「理奥……」
百夜がぽつりと呟いたその名も、聞き慣れない響きをしている。
村松理奥は結城家の使用人をやっている青年で、歳は十九。家計管理の手伝いや男手が必要な屋敷の雑務を担っており、百夜の家庭教師代わりを務めることもあった。
彼は屋敷で働く傍ら、結城家の支援で週三回、近隣の学問所に通っていた。
今、彼の隣に佇んでいるのが、その学問所の所長である岩槻当真だ。
理奥は正隆に向って頭を下げていた。
正隆は何かを告げながらその肩を叩くと、廊下を進んでいく。
理奥は一度顔を上げると、正隆の背に向けてもう一度深く頭を下げた。
正隆の姿が見えなくなる頃に顔を上げ、そのまま所長を見上げる。
所長がその黄色の髪を乱暴に撫でると、彼は照れ臭そうに笑った。
ふと、こちらを振り返った理奥のまなざしが百夜を捉える。
彼の表情が嬉しそうに綻んだのをとらえた瞬間、百夜は部屋を飛び出していた。
「百夜様?」
沙耶が驚いて彼女の名を呼ぶが、その声は百夜には届いていない。
一刻も早く彼のもとへ。
中庭を囲む廊下を回って駆け寄ると、理奥の胸に飛び込んだ。
「おじい様と何を話していたの?」
「旦那様から望試を受験するお許しをいただいたんだ」
「理奥が出るの? すごい」
目を輝かせる百夜に、理奥は「運が良かっただけだよ」と恥ずかしそうに笑う。
「予選、東北区で一番だぞ? 理奥の努力の成果だよ」
所長の言葉に、百夜は大きくうなずく。理奥は否定するが、運の良さで通過できるほど簡単な試験でないことは百夜も知っている。
天望試験 は四年に一度開催される帝が主催となっている試験で、望試とも略される。十八歳から二十一歳のみに受験資格が与えられる試験だ。
官僚登用のため行われる課寮試験とは異なり、身分を問わず誰でも受験することができる。
とはいえ、全国一斉となると実施が難しいため、国を十の区域に分けた予選を行い、各地区上位十名が帝都・桜宮で行われる本試を受験することができる。
百名の受験者のうち上位十名には、順位に応じた褒美が帝から送られる。
貴族や上級官吏の子息でも上位成績者しか入学できない大学寮への入学も可能なため、平民のみならず、高等学校で優秀な成績を残せなかった貴族らも受験する。
結果的に、幼少期の教育環境の差から平民はほとんど本試に進めない状態となっていた。
その天望試験 の受験者に理奥が選ばれた。
自分の成果ではないけれど、そのことが百夜にはとても誇らしかった。
「それじゃあ私は帰るよ。和真は経験者だし、授業に関係なくいつでもおいで。百夜もたまには顔を見せてくれ。茜が寂しがっていたよ」
「はい」
ーー来週のどこか、午後の授業が入っていなかった気がする。後でばあやに頼んでみよう。
理奥と一緒に所長を玄関まで見送りながら、百夜は考える。
いつのまにか、先ほどまでの沈んだ気持ちは吹き飛んでいた。