序章
固く閉じた障子戸の隙間から、楽しげな音が漏れてくる。
道を行く人々の話し声、弾けるような笑い声、遠くで鳴り響く楽器の音色。
それらが混ざり合い、一つの流れとなって耳に届く。
思わずそこに加わりたくなる。そんな音だ。
秋が深まるこの時期、日が沈んだ後の空気には肌寒さがつきまとう。
しかし、空に浮かぶ丸い月が高く上る時間になっても、音は止む気配を見せない。
それもそのはず、今日は月影祭なのだ。
瑞穂の国民ならば誰もが知っている、月から来た姫君と夫婦のおとぎ話。
それが作物の収穫を祝う祭事と混ざり、各地で様々な行事が行われていた。
行事自体は「竹の枝に願い事を書いた短冊をつるす」というものでしかない。
しかし、何事も楽しみに変えてしまう気質の国民は、この行事にかこつけて騒ぎあう。
街は提灯の明かりで埋め尽くされ、道端の屋台からは威勢のいい声が響く。
人々は家族そろって出かけたり、親しい者と集い騒いだり、恋人と特別な時間を過ごしたり――。
「うるさい!」
悲鳴にも似た声が、部屋に響いた。
蝋燭の明かり一つ灯っていない部屋だった。
障子戸から差し込む月明かりを通すと、部屋の様子が朧げに見えてくる。
八畳の床一面に散らかった本、髪飾り、着物、帯。
そしてその向こうの壁際に、大きな塊があった。
膝を抱えて縮こまり、掛け布団を頭から被っている――それは一人の少女だった。
「みんなみんな、ばっかみたい」
少女が吐き捨てるようにつぶやいた声は、すぐに外の音に溶けてしまう。
いくら叫んだところで、この音が止むわけではない。
何も変わらない。
そのことを理解した少女は、膝に顔を埋めて耳を塞ぎ、体を小さく丸め込んだ。
そうしたところで音が聞こえなくなるわけでもなく、それどころか、余計大きく響いているように感じるだけであったが。
少女はこの祭が大嫌いだった。
願い事が叶うなんていう嘘も、それを楽しむ人たちも、そして――。
「百夜様」
少女の耳に、聞き慣れた声が届いた。
少女は顔を上げ、掛け布団の隙間から外をのぞき見た。
「百夜様にお会いしたいという方がいらっしゃいます」
障子戸に一つの影が映っていた。
少女はその影が見慣れたものだということを確認すると、再び頭を膝に埋めた。
また、親戚を名乗るよく知らない大人が来たのだろうか。
少女はもう、誰にも会うつもりはなかった。
ただ憐みの目を向けてくるだけの人にも、上辺だけの優しさを振りまく人にも、機嫌を伺うような言葉を振りまきながらこの家を乗っ取ろうとする人にも。
「百夜様」
優しいばあやは、自分が返事をしなければ客を追い払ってくれることを、少女は理解していた。
決まったやりとり。
あと一回名前を呼んで、返事がなければ去ってくれる。
あと、一回。
「こちらですか?」
しかし、最後の一回の代わりに少女の耳に届いたのは、見知らぬ男性の声だった。
少女はかすかな興味を覚え、ためらいがちに顔を上げる。
障子戸の影が一つ増えていた。
新たな影は背丈こそ高いものの、その声から察するに大人ではないようだ。
「部屋で待っているよう、伝えたはずですよ」
ばあやが少年の袖をひく。しかし、少年はそれに構わず、少女に話しかけてきた。
「百夜様、お初にお目にかかります。理奧と申します」
少女の意識は、聞き馴染みのない響きの名前に惹きつけられた。
「百夜様のお父様の紹介を受けてやって参りました」
少女は掛け布団を投げ捨てるように立ち上がり、障子戸にかけよった。
(やっぱりそうだ。お父様が死んだなんて嘘だったんだ。お母様だって生きているに決まっている)
障子戸を開けようとしたそのとき、少女は着崩れた自分の服の裾を踏みつけた。
勢いはとまらず、戸を開け放つと、ばあやと少年の間に割り込むようにして倒れこむ。
庭へ転がり落ちることは避けられたが、自分の体重を支えた腕がじりじりと痛んだ。
「大丈夫ですか?」
少年が少女に手を差し出す。
日焼けした、傷やマメだらけの手。
それは、ここ数日の間に少女に向けて差し出された親戚たちの手ではなく、ばあやの手を思わせた。
それで安心したのか、少女はその手をとり、持ち主を辿るようにゆっくりと視線を上げーー少年の顔が視界に入った瞬間、息をのんだ。
一年で最も美しいとされるこの時期の月の光に照らされ、少年の髪は金糸のように輝いて見えた。




