【創作論】【第一回:復讐系ざまあ作品】復讐には英語で、「Avenge」と「Revenge」の二種類あるのはご存知ですか?
※個人の感想です!※
皆さん、主人公が復讐する系の「ざまあ」作品はお好きでしょうか? 私は、正直に言うと好きではありません。ごめんなさい。しかし、勧善懲悪はむしろ大好物です。本来両者は、同じ類似ジャンルだったはずで、何故か小説家になろうやカクヨムにおいては、これらが乖離してしまっているように感じられます。では何故、そう感じるのか。それを言語化して解説する人は少ないので、私なりに考えてみました。
(※ここで議論するのは、主人公が直接的に手を下すタイプの復讐を含むざまあ作品についてです。それ以外の作品にも当てはまる事もあるかもしれませんが、基本的に考察の対象外とさせていただきます。)
まず、英単語の解説からさせてください。1つ目は「Avenge」です。映画の「アベンジャーズ」のそれですね。こちらはCambridge Dictionaryにおいて、以下のように解説されています。
avenge
To do harm to or punish the person responsible for something bad done to you or your family or friends in order to achieve a fair situation:
一般的には、個人的な恨みよりも他人のための復讐行為を指すことが多いです。一番最後にある「in order to achieve "a fair situation"("公平な状況"を実現するために)」これが大事だと私は考えました。
次に「Revenge」です。同じくCambridge Dictionaryにおいて、以下のように解説されています。
revenge
To harm someone as a punishment for harm that they have done to you:
こちらは「harm that they have done "to you"(彼らが"あなた"に与えた害)」とあるように、個人的な恨みに対する復讐を意味する文脈があるように感じます。
勿論これらのAvengeとRevengeには、明確な違いが認められているわけではありません。ここではあくまでもニュアンス的なものとして、そこに着想を借りて考察、分析を行うために、これらの語を使わせていただきます。
ではこれらを踏まえた上で、私はジャンルとして二つを別けて定義したいと考えています。ひとつはAvengeの復讐劇です。以降これをA復讐劇と呼びます。次に、Revengeの復讐劇です。以降これをR復讐劇と呼びます。この二つに関して、具体的にどんなものなのか、先ずは考えたいと思います。
A復讐劇とは、いわゆる勧善懲悪的な、昔ながらの「成敗」をカタルシスとする物語ではないでしょうか。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」といった時代劇は、こういった物語を主体とした建付けの作品になっていると思います。また「鬼滅の刃」もこれに含まれるでしょう。はっきりとした倒すべきヴィラン(悪役)がいて、主人公たちはそれを倒すことを目的とします。だからクライマックスは勿論、悪役の討伐の場面になるはずです。これが作品の提供する、最大のカタルシスになります。
R復讐劇とは、主人公個人の恨みを晴らす復讐譚です。私が知っている作品でいえば、「ヴィンランド・サガ」や「Ghost of Yotei」が思い浮かびます。またハリウッド映画でも、こういったテーマはよく掘り下げられているように感じます。こちらのジャンルは、仇を倒すことがメインのテーマにはなりません。復讐そのものは物語を動かす歯車であって、それはゴールではないのです。復讐を前に、復讐を通じて、復讐をなし終えて、主人公がどう葛藤し悩み、そしてどんな結論に至るのか。そして受け手は主人公を通じて考えさせられる。そういったものがメインテーマになり、そして醍醐味になります。なので復讐が最後になっても、途中になっても、最後になっても良いのです。なのでR復讐劇というものは、分かり易い勧善懲悪的な物語ではなく、人間ドラマを見せるジャンルだと、私は考えています。
では本題に入りましょう。何故「復讐系ざまあ」が論争になるのか。私はこれを、R復讐劇の設定で繰り広げられながら、物語がA復讐劇であること、ここに要因があるのではないかと疑っています。ざまあ作品の導入の多くは、主人公が冷遇されたり迫害されたりと、酷い目に合わされる所から始まります。それに対して、Revengeを目指す物語としての導入を持っています。これはR復讐劇の建付けです。しかし残念ながら、主人公はその復讐の正当性に疑いを持つこともなく、悩んだり葛藤したりすることは稀です。そしてまっすぐ一直線に、仇を倒して復讐を成し遂げてしまいます。これはまさしくA復讐劇のそれなのです。つまりここでは、頭と胴体がチグハグな、ジャンル違いのキメラ物語が爆誕してしまっているのです。
この作品を見て、A復讐劇を期待する読者は、主人公の正当性を求めます。そして仇に対する「罰」の妥当性を求めます。それらが道理に適っていなければ、それは不快感に変わったりもします。一方でR復讐劇を期待する読者は、主人公の心理描写や葛藤といった、人間ドラマを求めるでしょう。しかしそれが描かれなければ、当然ガッカリすることになるのです。
A復讐劇に於いて、一番大事なのは正当性ではないでしょうか。これは物語の前提に関わるものなので、これを欠いていては前提そのものを欠いてしまいます。裁判に例えるなら被告ヴィランの有罪を、作者は陪審員(裁判官)である読者に対して証明せねばなりません。ヴィランの有罪のコンセンサスを読者から得る。これが一番大事な要素なのです。
しかしそれだけではありません。更には量刑審判があります。有罪と認められても、それは死刑かもしれませんし、有期刑や、もしかしたら罰金刑かもしれません。ややもすれば執行猶予が付く、温情ある判決が妥当である可能性もあります。そうです。妥当性が求められるのです。ヴィランに対する罰は、その罪と釣り合っていなければなりません。これもまた、絶対に必要なことです。
一方でR復讐劇の場合、案外この限りではない様な気がします。多少正当性に難があっても、多少その罰が苛烈で過剰報復であっても、主人公の「それでもあいつを許せないんだ!」という強い気持ちは、読者の共感を支えるものになりえます。しかしながら、それだけでは支持共感は続きません。その報復感情を当然のものとして、何も悩まず悪びれず、葛藤もなく進んでしまえば、いずれ読者の身持ちは離れてしまうでしょう。また、もしも過剰報復でない場合でも、仇を倒した!よかった!ハッピーエンド!という内容では、期待外れに感じる人も多いと思います。少なくとも私はそう感じます。
このように、A復讐劇とR復讐劇とでは、求められる要素が全く違うと私は分析します。スカッと勧善懲悪なA復讐劇ならば正当性と妥当性。恨みを果たすR復讐劇であれば濃厚な人間ドラマ描写。このようにそれらはジャンルとしても、似て非なるものと言えるのではないでしょうか。この辺りの乖離やごちゃまぜ感が、「復讐系ざまあ」における論争の始まりにあるのではないかと、私は思います。
このシリーズは不定期更新です。




