第9話(前編)「梁旦那が死んだ」
385年7月上旬。
前話の収入:約198,000銭
前話の支出:約122,000銭
現在動かせる金:約274,000銭
7月1日の日の出前、漢中の借家の庭では、木棒がぶつかる音が続いていた。
田朔は段烈の打ち込みを身体の横へ外し、そのまま懐へ入った。
段烈が半歩下がる。
田朔は逃がすまいと追った。
「追いすぎだ」
言われた時には遅かった。
段烈の足が田朔の足首へかかり、田朔は背中から地面へ落ちた。
「今のは入れたと思った」
「だから欲を出したんだ」
「倒せそうなら倒すだろう」
「相手が倒れたのを見てから言え」
段烈が手を差し出した。
田朔はその手を取って立ち上がった。
「もう1回だ」
「昨日も同じことを言っていたな」
「昨日より強くなっていればいい」
「1日ごとに強くなったら、1年後には俺が逃げることになるぞ」
「そのくらいでいい」
「本気で言うな」
周囲で見ていた護衛たちが笑った。
長安を離れても、田朔の朝は変わらなかった。走り込みをし、重い袋を担ぎ、木棒を使った稽古の後には段烈と組み合う。
商売が大きくなり、自由に使える時間は減った。それでも朝の稽古だけは削らない。
漢中へ逃げてきたから安全になったとは考えていなかった。銭が増えれば、それを奪いたがる者も増える。
今の田朔には父母だけでなく、玉蓮、春華、淑蘭もいる。店や倉には商品が入り、荷車や馬も増えた。
自分から欲しがって手に入れたものが増えたのだから、それを守る力も欲しかった。
◇ ◇ ◇
稽古を終え、肉、卵、豆、粥で腹を満たしてから店へ向かった。
漢中の店は、6月末よりさらに忙しくなっていた。
長安や関中から逃れてきた者が毎日のように品を売りに来るため、店には銀器、布、鍋、大工道具、馬具、書物、衣類などが集まっている。
田朔は値を見て買い、すぐ売れそうな品は店へ出した。値が上がりそうな物や、ある程度まとめてから売った方がよい物は倉へ回している。
仕事を求める者も多かった。
馬福成が毎朝、店の前に集まった者から以前の仕事を聞き、使える者を選んでいる。
田朔が帳場へ座ると、許玉蓮が前日の帳面を持ってきた。
「昨日だけで14人雇ったわ」
「何ができる」
「人夫が8人、大工が2人、荷車を直せる人が1人、商家で帳面を付けていた人が2人、馬の世話ができる人が1人よ」
「馬を扱える男は段さんにも見てもらってくれ」
「もう頼んだわ」
「早いな」
「あなたが来るまで仕事を止めておく必要はないでしょう」
「その通りだ」
玉蓮は別の帳面を出した。
「それと、倉が足りなくなってきたわ」
「また借りるか」
「今なら買ってもいいと思う」
「値は?」
「馬さんが2棟見つけているわ。1棟は持ち主が強気で高い。もう1棟は北へ戻るつもりだった商人が、もう帰れないと諦めて売りたがっている」
「後の方を見る」
「そう言うと思った」
その時、店の外が騒がしくなった。
人夫が帳場へ入ってくる。
「旦那。長安から来た者が、どうしても旦那に会いたいと言っています」
「誰だ」
「梁家の者だそうです」
田朔は帳面から顔を上げた。
「通してください」
◇ ◇ ◇
入ってきた男は40歳前後だった。
衣は泥と埃で汚れ、左腕には布が巻かれている。頬にも治りかけた傷が残っていた。
田朔は顔を覚えていた。
梁家の護衛だった男だ。
「座ってください」
「このままでいい」
「梁旦那は?」
男はすぐには答えなかった。
玉蓮も帳面を閉じる。
「梁旦那は、どうしました」
田朔がもう一度尋ねた。
男は田朔を見た。
「死んだ」
店の外では人夫の声が続き、荷車の車輪が石を踏む音も聞こえていた。
田朔は男から目を離さなかった。
「見たんですか」
「ああ」
「いつです」
「長安を出てから7日ほど後だ」
「どこで?」
「山へ入る手前だ。逃げてきた人間で道が詰まっていた」
「最初から話してください」
田朔は水を出させた。
男は一息で飲んでから話し始めた。
梁景成は、田朔が6月9日に長安を出た後もしばらく残っていた。
何の準備もしていなかったわけではない。銀や宝飾品、重要な帳面の写しは先に南へ送っており、年寄りや幼い者の一部も先に逃がしていた。
それでも梁家には残る物が多すぎた。
何軒もの店と大きな倉を持ち、売掛金や貸付金だけでも数十万銭に達する。取引途中の商品も残り、番頭、使用人、人夫、護衛も大勢いる。さらに正妻の崔玉容と7人の妾を含む家族まで動かさなければならなかった。
梁景成は最後まで、何を持ち出し、何を諦め、誰を先に逃がすかを決め続けていたという。
「全部持って出ようとしたんですか」
田朔が尋ねた。
男は首を振った。
「違う。最後にはかなり捨てた。荷車も減らした」
「では、なぜ遅れた」
「人だ」
「人?」
「旦那は、長く働いてきた者を簡単には置いていかなかった。使用人の家族まで連れていった」
梁家から逃げる一団は大きくなった。荷車が増えれば隊列は長くなり、老人や子どもまで一緒なら歩みも遅くなる。そのうえ、同じ頃には長安から逃げる者が街道へあふれていた。
「襲われたんですか」
「ああ」
「誰に?」
「分からん。兵だった奴もいた。賊もいたと思う。食い物だけを奪いたい奴も混じっていた」
「梁家には護衛がいたでしょう」
「いた。それでも守る物が多すぎた」
前方では逃げてきた人々が押し戻され、後ろからも別の一団が迫った。
梁家の荷車が止まったところへ、横の斜面から武器を持った者たちが降りてきた。
馬が暴れ、荷車が倒れ、先へ逃げようとする者と荷を守ろうとする者が同じ道でぶつかった。
「梁旦那は?」
「女たちの荷車を前へ出そうとしていた」
「それで?」
「後ろが崩れた」
男は田朔を見る。
「旦那は戻った」
田朔は何も言わなかった。
「戻らなければ助かったかもしれん」
「それは分かりません」
「ああ。俺にも分からん」
男は布を巻いた左腕を見た。
「最後に見た時、旦那は馬から落ちた使用人を助けようとしていた。そこへ後ろから来た男に刺された」
「本当に死んだんですね」
「俺が身体を見た」
「埋められましたか」
「無理だった」
男は顔を伏せた。
「生き残るだけで精一杯だった」
田朔は帳場へ手を置いた。
梁景成。
初めて会った時、田朔は梁家の倉で趙六の不正を責め、証拠も揃えず騒いでいた。
梁景成は言った。
頭を使うなら、口を開く前に使え。
草鞋を売って損をした時には、品物だけでなく場所と時を見ろと教えられた。
田朔が店を持ち、役人と付き合い、商隊まで動かすようになってからも、梁景成はまだ自分より小さいと言い続けた。
最後に会ったのは6月6日だった。
「……梁旦那らしいな」
田朔が言った。
護衛だった男が顔を上げる。
「何がだ」
「最後まで、自分のところで働いた人間を捨てきれなかった」
「馬鹿だと思うか」
「俺ならもっと早く、何組かに分けて逃がしたでしょう」
「やっぱりそうか」
「でも梁旦那は、俺ではありません」
田朔はそこで話を変えた。
「奥様たちは?」
男の表情が変わった。
「分からん」
「8人とも?」
「あの混乱で散った」
「見た範囲だけで構いません」
「玉容様は青蘭様と近いところにいた。小玉様も同じ辺りだった。彩児様は馬の方へ走った。その後は分からん」
「誰かが捕まったところを見ましたか」
「見ていない」
「南へ逃げた者は?」
「いると思う」
「長安へ戻った者は?」
「それも分からん」
田朔は馬福成を呼んだ。
「馬さん。長安や関中から来た商人に聞くだけでなく、宿、荷車持ち、人買い、それに女を置く店にも人を回してください」
事情をまだ知らない馬福成は尋ねた。
「どなたを探すんです?」
「梁旦那の正妻と妾7人です。俺が顔と名前を知っているのは、崔玉容、蘇青蘭、馮彩児、何小玉の4人です。残り4人については、この方から名前と特徴を聞いてください」
「見つけたら連れてきますか」
「居場所だけ確かめてください。勝手に連れ出そうとしなくていい」
「分かりました」
「確かな情報には銭を出します。本人だと確認できるところまで見つけた者には、さらに出すと伝えてください」
馬福成は護衛だった男を奥へ連れていった。
玉蓮が田朔を見る。
「8人とも探すの?」
「ああ」
「全員?」
「何を驚いている」
「梁旦那が死んだと聞いた直後よ」
「だから探すんだ」
「欲しい女だから?」
「ああ」
田朔は隠さなかった。
「梁旦那が生きていれば、俺が余計なことをする必要はなかった。だが梁旦那は死んで、女たちは散った。なら探す」
「本当に分かりやすいわね」
「分かりにくくする理由がない」
◇ ◇ ◇
その日の午後、もう1人、梁家の者が店へ来た。
今度は護衛ではない。
梁家で20年以上働いてきた大番頭、宋淮だった。年は50を少し過ぎている。
「田旦那に相談があります」
田朔は、その呼ばれ方に少しだけ違和感を覚えた。
1年半前、この男は梁家へ荷を担いでくる田朔へ指図する側だった。
「何でしょう」
「梁家の商売の一部を買ってもらいたい」
田朔の目が変わった。
「何が残っています」
「南へ持ち出した売掛金と貸付金の証文、それに取引先の帳面です」
「宋さんの一存で売れるんですか」
「違う」
宋淮は懐から布に包んだ書状を出した。
「長安を出る前、旦那様から預かった。旦那様やご家族が南へ来られない場合、南へ移した財産の一部を売り、まず使用人を食わせて未払いの給金を払えと書いてある」
田朔は書状を読んだ。
梁景成の印がある。
「郭さんにも確認してもらいます」
「構わん」
「債権は全部でいくらです」
宋淮が答えた。
「帳面上では586,000銭ほどある」
田朔は、その数字を聞いて黙った。
玉蓮も宋淮を見る。
「58万6,000?」
「ああ」
田朔は改めて帳面の入った箱を見た。
自分が長安で店や倉を増やし、貸付や商隊まで始めて動かしてきた金額とは桁が違う。
これが梁家だった。
「全部取れると思っていますか」
田朔が尋ねた。
「思っていない」
宋淮は即答した。
「長安にしか財産がない相手も多い。死んだ奴もいるし、行方の分からん者もいる」
「担保は?」
「あるものも、ないものもある」
「梁旦那が死んだと分かれば、払わないと言う人も出ます」
「分かっている」
「いくら欲しいんです」
「250,000銭」
「高い」
宋淮の顔が険しくなった。
「額面は586,000だ」
「額面です」
「半分にも届かん」
「その58万6,000を全部集められるなら、宋さんが集めればいいでしょう」
「人を食わせなければならん」
「何人です」
「先に南へ出した者と、後から逃げてきた者を合わせて32人いる。ほかにも来るかもしれん」
「未払いの給金は?」
「今分かっている分で約6,000銭だ」
田朔は箱へ手を置いた。
「帳面を全部見ます」
「それから値を決めるのか」
「はい」
「今ならいくら出す」
「120,000銭」
「安すぎる」
「では売らないでください」
「田旦那」
「俺が欲しいのは58万6,000という数字ではありません。実際に回収できる銭です」
田朔は宋淮を見る。
「時間をかけて1件ずつ取り立てれば、30万でも40万でも取れるかもしれない。でも宋さんは今、32人へ飯を食わせ、給金も払わなければならない。だからここへ来た」
宋淮は返せなかった。
「3日ください。全部見ます」
「……分かった」
「未払いの6,000銭については、債権の値とは別に考えます」
「どうする」
「俺が債権を買うなら、使用人へ直接払います」
宋淮が田朔の顔を見る。
「旦那様が見たら、今のお前をどう思うだろうな」
「もっと安く買えと言うんじゃないですか」
宋淮は思わず笑った。
「それはあるかもしれん」
田朔も笑った。
だが目は、すでに箱の中の帳面を見ていた。
385年7月上旬が終わった。




