第7話 行き場のない少女、行き着いた扉
熊谷駅の喧騒から少し外れた道を歩くと、
大通りの向こうに、児童相談所の建物が見えてきた。
夕暮れの光が消え、街灯がぽつぽつと灯り始める。
少女の身体には冷たい風が容赦なく吹きつける。
厚手のコートもない。
裏返した大人用パーカーと、ぶかぶかのズボン。
足元は脱げかけのクロックス。
どう見ても「普通の家の子」には見えない。
“ここしかない”。
俺は小さな胸にそう言い聞かせ、建物の入り口のドアを叩いた。
◆
中に入ると、受付の女性が驚いた顔をした。
「……あら? あなた……どうしたの?」
俺は喉を震わせながら、
覚悟を決めて言葉を絞り出した。
「……家に……帰りたくない……
名前は……たなか……あかね……
他のことは……言いたくない……」
“朱音”という名前だけを言った。
本名・高橋満雄では検索に引っかかる。
だが少女として名乗る名前なら、氏名不詳捜索リストにはヒットしない。
「親御さんは? 住所は?」
「……言いたくない……
帰れない……
帰りたくない……」
震える声で、それだけを繰り返した。
児童相談所の職員は、最初こそ困惑した表情を見せた。
しかし俺の服装、裸足に近い足、怯えた顔を見て、
すぐに表情を引き締めた。
「……分かりました。まずは保護しましょう」
その一言を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。
◆
児童相談所が警察と連携していることは知っている。
行方不明の児童がいれば、必ず照会される。
――逃げてきた群馬県警は、今頃俺を「氏名不詳の少女」として探しているはずだ。
だが写真は撮られていない。
身元不明として正式に手続きされる前に逃げ出した。
児童相談所で「朱音」と名乗っても、
氏名不詳の記録にはヒットしない――はず。
確証はない。
でも、頼れる場所はもうここしか残っていない。
俺は祈るような気持ちで、相談所の対応を見守った。
きっと、警察への照会は行われる。
そのとき「名前不詳の逃走少女」と一致しないことを――
心の底から願った。
◆
職員たちは、最初こそ警戒していた。
「本当に一人なの?」
「怪我はしていない?」
「虐待を受けた可能性は?」
質問は多かった。
けれど責めるような口調ではなかった。
そして、俺の震える手や、
まともでない服装を見て、
すぐに判断した。
「話す気になったら教えてね。身体のチェックをして、着替えを用意します」
……助かった。
心の底から思った。
◆
案内された部屋で、女性職員が体の異常を確認していく。
血圧、脈、皮膚の状態、怪我の有無。
少女の身体は健康で、異常はないと言われた。
問題があったのは――服装だ。
「……ずいぶん男の子みたいな服を着てるのね。サイズも全然合ってない……」
それは当然だ。
昨日まで高橋満雄だったのだから。
職員はうまく言葉を選びながら、
新品の服を手渡してくれた。
「これ、着替えてみてね。女の子用だけど……大丈夫?」
黒いジャージと、柔らかい素材のシャツ。
そして――スポーツブラ。
「……っ」
胸に少しだけ膨らみのあるこの体には必要なのだろう。
だが、これを着るのは人生で初めてだ。
着替えながら、思わず顔が熱くなった。
――なんだ、この違和感……。
胸を包む締め付け。
肩にかかる感覚も違う。
俺は女としても生きたことがないから、
この感覚がただひたすら恥ずかしくて落ち着かない。
だが、ジャージを着てしまえば見た目には違和感はない。
少女として自然な服装になった。
◆
時間はいつの間にか夜になっていた。
職員がふと時計を見て言った。
「今日はもう遅いから、控室で休んでね。
安全は私たちが守るから」
柔らかな声だった。
控室には小さな布団が敷かれ、
温かい毛布が用意されていた。
「なにかあったらすぐ呼んでね?
ここは安全だから」
安全――
その言葉を、俺はいつから聞いていなかっただろう。
警察官として働いていた頃ですら、
いつも緊張していた。
家でも居場所がなかった。
今、この狭い控室の中だけが、
初めて「安全」に感じられた。
布団に横になると、
少女の体はすぐに眠気に飲まれた。
明日はどうなるのか。
警察は気づかないのか。
あの施設の連中は……。
考え始めたら止まらないはずだった。
けれど、毛布の暖かさに包まれると、
そのすべてが少しずつ遠ざかっていく。
「……あかね……」
自分でつけた名前を、
小さな声でそっと呟いた。
そのまま、深い眠りに落ちていった。




