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第7話 行き場のない少女、行き着いた扉


 熊谷駅の喧騒から少し外れた道を歩くと、

 大通りの向こうに、児童相談所の建物が見えてきた。


 夕暮れの光が消え、街灯がぽつぽつと灯り始める。

 少女の身体には冷たい風が容赦なく吹きつける。


 厚手のコートもない。

 裏返した大人用パーカーと、ぶかぶかのズボン。

 足元は脱げかけのクロックス。


 どう見ても「普通の家の子」には見えない。


 “ここしかない”。


 俺は小さな胸にそう言い聞かせ、建物の入り口のドアを叩いた。



 中に入ると、受付の女性が驚いた顔をした。


 「……あら? あなた……どうしたの?」


 俺は喉を震わせながら、

 覚悟を決めて言葉を絞り出した。


 「……家に……帰りたくない……

   名前は……たなか……あかね……

   他のことは……言いたくない……」


 “朱音”という名前だけを言った。

 本名・高橋満雄では検索に引っかかる。

 だが少女として名乗る名前なら、氏名不詳捜索リストにはヒットしない。


 「親御さんは? 住所は?」


 「……言いたくない……

  帰れない……

  帰りたくない……」


 震える声で、それだけを繰り返した。


 児童相談所の職員は、最初こそ困惑した表情を見せた。

 しかし俺の服装、裸足に近い足、怯えた顔を見て、

 すぐに表情を引き締めた。


 「……分かりました。まずは保護しましょう」


 その一言を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。



 児童相談所が警察と連携していることは知っている。


 行方不明の児童がいれば、必ず照会される。


 ――逃げてきた群馬県警は、今頃俺を「氏名不詳の少女」として探しているはずだ。


 だが写真は撮られていない。

 身元不明として正式に手続きされる前に逃げ出した。


 児童相談所で「朱音」と名乗っても、

 氏名不詳の記録にはヒットしない――はず。


 確証はない。

 でも、頼れる場所はもうここしか残っていない。


 俺は祈るような気持ちで、相談所の対応を見守った。


 きっと、警察への照会は行われる。

 そのとき「名前不詳の逃走少女」と一致しないことを――

 心の底から願った。



 職員たちは、最初こそ警戒していた。


 「本当に一人なの?」

 「怪我はしていない?」

 「虐待を受けた可能性は?」


 質問は多かった。

 けれど責めるような口調ではなかった。


 そして、俺の震える手や、

 まともでない服装を見て、

 すぐに判断した。


 「話す気になったら教えてね。身体のチェックをして、着替えを用意します」


 ……助かった。


 心の底から思った。



 案内された部屋で、女性職員が体の異常を確認していく。


 血圧、脈、皮膚の状態、怪我の有無。

 少女の身体は健康で、異常はないと言われた。


 問題があったのは――服装だ。


 「……ずいぶん男の子みたいな服を着てるのね。サイズも全然合ってない……」


 それは当然だ。

 昨日まで高橋満雄だったのだから。


 職員はうまく言葉を選びながら、

 新品の服を手渡してくれた。


 「これ、着替えてみてね。女の子用だけど……大丈夫?」


 黒いジャージと、柔らかい素材のシャツ。

 そして――スポーツブラ。


 「……っ」


 胸に少しだけ膨らみのあるこの体には必要なのだろう。

 だが、これを着るのは人生で初めてだ。


 着替えながら、思わず顔が熱くなった。


 ――なんだ、この違和感……。


 胸を包む締め付け。

 肩にかかる感覚も違う。

 俺は女としても生きたことがないから、

 この感覚がただひたすら恥ずかしくて落ち着かない。


 だが、ジャージを着てしまえば見た目には違和感はない。

 少女として自然な服装になった。



 時間はいつの間にか夜になっていた。


 職員がふと時計を見て言った。


 「今日はもう遅いから、控室で休んでね。

   安全は私たちが守るから」


 柔らかな声だった。


 控室には小さな布団が敷かれ、

 温かい毛布が用意されていた。


 「なにかあったらすぐ呼んでね?

   ここは安全だから」


 安全――

 その言葉を、俺はいつから聞いていなかっただろう。


 警察官として働いていた頃ですら、

 いつも緊張していた。

 家でも居場所がなかった。


 今、この狭い控室の中だけが、

 初めて「安全」に感じられた。


 布団に横になると、

 少女の体はすぐに眠気に飲まれた。


 明日はどうなるのか。

 警察は気づかないのか。

 あの施設の連中は……。


 考え始めたら止まらないはずだった。


 けれど、毛布の暖かさに包まれると、

 そのすべてが少しずつ遠ざかっていく。


 「……あかね……」


 自分でつけた名前を、

 小さな声でそっと呟いた。


 そのまま、深い眠りに落ちていった。

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