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第40話  眠れない夜、ほどけていく心

布団の中で目を閉じたものの──

まったく眠れそうになかった。


まぶたの裏に、

さっきの鋏の光、

女の狂った表情、

美桜が飛び込んできた瞬間が

何度もよみがえる。


(……興奮が……全然おさまらない……)


昔の俺なら、

どんな事件に対応しても

「任務終了」と同時に脳が勝手に電源を落として、

泥のように眠れた。


だが今は違う。


(精神が……身体に引っ張られてる……

 こんな感覚……なかったのに……)


胸の奥がざわざわして、

筋肉が硬くなったままほどけない。

心と身体がバラバラになって、

言うことを聞かなくなる。


そして──

さっきのことを思い出した。


逃げたあと、

安心と同時に漏らしてしまったこと。


(あぁぁぁぁぁ……!!

 思い出しただけで死にたい……!)


恥ずかしさで布団の中で悶えながら

真っ赤になっていると──


「……寝れないの?」


すぐ近くで美桜の声がした。


小さい声だけど、

暗闇では驚くほど近く聞こえる。


「……うん」


しばらく間があってから、

美桜の返事が帰ってきた。


「私も……」


布団の中で美桜が少しだけ身を寄せてくる。

肌がほのかに触れる距離。


そのぬくもりに心臓が跳ねた。


美桜は、

指先でそっと俺の手を握って言った。


「朱音……

 ほんとに、ありがとう」


「え……? なんで……?」


「だって……

 私、ずっと逃げてたの。ずっと。

 誰にも言えなかったけど……

 もう生きる意味もないし、辛い気持ちから逃げたいそれだけだったの」


美桜の声が揺れる。

でも逃げない。


「でも……朱音が来てから……

 守ってくれたり……助けてくれたり……

 本当は弱くて、怖いのに……強くて…

 なんかね……あぁ……こんなに強く生きていけるんだって

 …朱音みたいに生きたい……

 初めて思ったの」


胸がぎゅっと熱くなった。


美桜はさらに続ける。


「だからね……

 私も……朱音を守りたかった。

 あの時……足が勝手に動いたの……」


俺が何か言おうとした時、美桜が静かに言った。


「朱音にも……聞いてほしいこと、あるの」


布団の中で、

美桜の声が夜に溶けていく。


「私のこと……

 私の家のこと……

 ずっと、誰にも言えなかったの

 もう逃げたくないから」


息を呑む。


美桜は――

あの地獄のような家のことを、

ついに話す覚悟を決めたのだ。


暗い部屋の中で、

美桜の震える声が静かに始まろうとしていた。


暗い部屋の中で、

美桜は布団を握りしめたまま、

ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。


声は小さいのに、

胸にずしりと響いてくる。


「……私の父ね、

 私が小さい頃に……不倫して、そのまま出て行ったの」


一言目から、

もう胸が締めつけられる気がした。


「だから、お母さん……

 お昼も夜もずっと働いてたの。

 ほとんど家にいなくて……

 お金のことも、私のことも……

 全部ひとりで背負ってた」


美桜の横顔が、

暗闇の中で寂しげにゆれて見えた。


「貧乏だったけど……

 私は……あの頃、けっこう幸せだったんだよ?」


そう言って少し笑う。


「だって……

 お母さんと過ごせる時間は少ないけど……

 その時間だけは……

 一緒に晩ごはん食べたり、

 学校の話したりして……

 私……ちゃんと“子ども”でいられてた」


その瞳の奥にあるのは、

懐かしさと、取り戻せないものへの痛み。


「でも……ある時ね。

 お母さんが……家に“今の男”を連れてきたの」


少し声がこわばる。


「……再婚するって。

 一緒に暮らすって。

 私の制服代とか……

 高校受験のお金とか……

 出してくれるって」


思わず俺は息を飲んだ。


美桜は続けた。


「最初はね……

 ちゃんと受け入れようと思ったの。

 お母さんも大変だったし……

 その男の人だって、

 新しい家族になろうとしてるんだって……

 そう思ってたの」


そこまで言って、

唇が少し震える。


「でも……なんか……生理的にムリで……

 お母さんがあの人と手をつないだりすると……

 胸がムカムカして……

 イライラして……

 泣きたくなるくらい嫌だったの」


暗い部屋の空気が重くなる。


俺は息をするのも忘れそうになりながら、

ただ美桜の言葉を待った。


「そんな時ね……

 あいつが……私の足……触ったの」


布団の中で、美桜の手が強く握りしめられた。


「最初は、気のせいだと思った。

 ……いや、思いたかったの」


喉の奥がぎゅっと詰まっていく。


「でも……別の日にも触られた。

 はっきり“私”を触ったの。

 わざと……ゆっくり……」


美桜は一瞬、言葉を失った。


そして絞り出すように続けた。


「だからね……怒ったの。

 『やめて』って、大きな声で言ったの」


俺の胸がズキンと痛む。


「そしたら……あいつが、

 お母さんを……

 “幸せにしたいだろ”って……言ったの」


(……嘘だろ……)


呼吸が浅くなる。


「何も言えなかった……

 だって……

 “触られるくらいで、お母さんが幸せになるなら”って……

 自分に言い聞かせたの。

 前みたいに……疲れた顔してほしくなかったから……

 私のせいで……無理してほしくなかったから……」


美桜の声はもう震えっぱなしだった。


「でもね……

 それからあいつは……

 どんどん……エスカレートしていったの」


息を呑む。


「……私はね……

 “受け入れればいい”って……

 ……最初は思ってたんだよ。

 お母さんのためならって……

 どんどんエスカレートしていって、色々なところを触られたの」


美桜の肩が小刻みに震えた。


「でも……

 限界だった……

 本当に……もう……死のうと思った」


胸が引き裂かれるみたいだった。


俺は布団の中で手を伸ばして、

美桜の背中にそっと触れた。


美桜はそこから、

ゆっくり……ゆっくりと続ける。


「だから……お母さんに言ったの。

 “もうあいつと別れて、2人で暮らそう”って……」


暗い部屋の中で、

美桜の小さな声が涙に濡れる。


「……でもね。

 お母さん……もうダメだった。

 私の言うこと……

 なにも聞いてくれなかった。

 逆に怒られて、顔を叩かれたの……」


息がつまる。


「だから……家出したの。

 遠くへ……どこかへ……

 でも結局何もできなくて……

 家の近くの橋の下で震えてたの。

 そしたら……警察に見つかって……

 ここに来たの……」


その声は、

ちぎれそうなほど弱かった。


「帰るところなんてない……

 この先どうしたらいいかも分からない……

 あの家には絶対に戻れない……

 でも……そんな時にね……

 朱音が来たの」


布団の中で、

美桜がそっと俺の服の袖をつまんだ。


「朱音はすごいと思った。

 自分の力で、

 周りの力を使って、

 変えようとしていて……

 私とは違う“強い人”だって……

 そう思ったの」


そして美桜は、

涙を拭いて、

言葉を続けた。


「でもね……違ったんだ」


少し笑うような、泣くような声。


「うちで倒れた時も……

 鋏を向けられた時も……

 震えてて……

 本当に怖がってて……

 “あ、朱音も私と同じなんだ”って思ったの」


俺は何も言えなかった。


「だから……

 私も変われるかもしれないって……

 初めて……思えたの」


その一言は、

胸の奥のもっと深い場所まで届いた。


「……なんて言いたいかわからなくなってきたけど……

 でも……朱音……


 私ね……朱音と一緒にいたいの」


美桜はそう言って、

静かに息を吐いた。


美桜の告白は、胸に刺さるというより──

えぐられた。


こんな小さな子が、

こんな地獄のような経験をしてきたなんて。


(どうして……

 どうしてこんな子が、こんな思いしなきゃいけないんだよ……)


気づけば俺は、美桜をそっと抱き寄せていた。


美桜も驚いたように目を瞬かせたあと、

そのまま俺の背中に腕を回してきて、

声もなく静かに泣いた。


布団の中で、2人だけの世界みたいな狭い空間。

息づかいや、震える指の力加減までわかるほど近くて、

そのすべてが、痛々しくて愛おしかった。


しばらく泣いて、美桜は顔を上げた。


「……朱音と一緒にいたい」


弱い言葉なのに、

どんな強い叫びよりも胸に響いた。


俺は頷くしかできなかった。

今はただ、この子を守りたい。

その気持ちしかなかった。


***


次の日。

朝イチで、警察による事情聴取が行われた。


未成年なので職員が付き添い、

児童相談所の応接間で調書を取ることに。


向かいに座ったのは生活安全部の本部から来た警察官。

だけど、読み上げられた調書に思わず苦笑した。


(……下手だな。

 文章の組み立ても、要点も、なんかズレてる……

 まぁ及第点か…)


ほんの少し、昔の感覚が蘇る。

懐かしいようで、胸が痛むようで……

そこへ戻ることは、もう二度とできないのに。


***


事情聴取が終わった後は、カウンセリングが行われた。


昨日の事件の精神的ダメージを考えれば当然だが、

正直、最初は気が進まなかった。


ただ──

話してみると不思議なもので、

胸の奥にひっかかっていた重い泥みたいな感情が

少しずつ少しずつ溶けていくような感覚があった。


(……こんなの、初めてだな)


昔の俺は、感情を切り離して働いていたから

カウンセリングなんて縁がなかった。

でも今は、必要としている自分がいる。


朱音という身体になってから、

心と体がリンクするようになったというか……

弱いところも全部、表に出てしまう。


それは怖いけど、悪くないとも思った。


***


夕方、ふらっと多目的ホールに向かうと

すぐに美桜の姿が目に入った。


窓際のいつもの場所。

俯いたまま、膝に指を絡めて何か考え込んでいる。


隣に腰を下ろすと、肩がそっと触れ合った。

こうして触れている距離感にも、もう慣れた。

むしろ落ち着く。


しばらく黙っていた美桜が、ぽつりと呟いた。


「……朱音。

 私、もうすぐ……児童養護施設に入らないとなんだって」


そう言った声は震えていた。


「ここには、もう長くいられないみたい。

 ……朱音とも、離れ離れになるかもって」


顔を上げた美桜の瞳は、

昨日泣き疲れたはずなのに、また涙で濡れていた。


「やだよ……やだ……

 せっかく、朱音に出会えたのに……

 一緒にいたいのに……」


握られた俺の手が、小さく震える。


俺も、同じだった。

美桜と離れる事なんて考えたこともなかった。


(……離れたくない。

 こんなにも、誰かを想うなんて……)


胸の奥がぎゅうっと痛んだ。


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