第39話 終わりの後で、震える心
火災報知器のベルがようやく止んだ頃には、
児童相談所の前には
パトカーと消防車が何台も並び、
赤い回転灯で夜が昼みたいに明るく照らされていた。
その光の中で、
あの女は、大声を上げて暴れていた。
「秀を返して!!
離して!! 話させて!!
なんで邪魔するのよ!!
私のほうが、あの子のこと……!」
警察官数人がかりで押さえつけてもなお、
身体をねじり、髪を振り乱し、
鋭い叫びを上げ続けていた。
(……すごい……
元警察官だった頃でも、
あそこまで狂気じみた人は数えるほどしか見なかった……)
その目には理性の欠片もなかった。
あれはもう“怒り”でも“恋愛感情”でもない。
壊れている。
完全に。
女はパトカーの後部座席に押し込まれ、
まだ叫んでいた。
「秀を呼んで!!
秀なら分かってくれるの!!
ねぇ!! 秀!!
一緒に逝くって……言ったじゃない……!!」
ドアが閉まる。
それでも声はしばらく漏れ続けていた。
やがて車はゆっくりと動き、
遠くへ消えていった。
(……これで……本当に終わった……)
全身から力が抜けそうになる。
その時だった。
昼間も対応してくれた、
あの年配の警察官が俺たちを見つけて近づいてきた。
「……よく頑張ったな。ほんとうに」
そう言って、
俺と美桜の頭を大きな手で優しく撫でた。
撫でられた瞬間、
緊張がほぐれ、胸の奥が温かくなる。
(……大丈夫……
もう、あいつはいないんだ……)
たしかに、女が罪に問われるかは分からない。
あの精神状態なら責任能力が認められない可能性も高い。
でも──
少なくとも精神病院に強制入院になるはずだ。
二度と秀に近づけないよう、
法の力が働く。
それだけで良かった。
でも同時に、思った。
(あの女は……
頭の中では、あの狂った世界が“現実”なんだ……
本人はきっと、毎日が地獄みたいに苦しかったはずだ……)
哀れにも思える。
けれど──他人を傷つけていい理由にはならない。
秀が再び狙われることだけは、
絶対に許せなかった。
ぼんやりそんなことを考えていると、
隣の美桜が小さな声で俺を呼んだ。
「……朱音……」
顔を見ると、
さっきまでの強気な表情とは違って、
少し戸惑ったように下を向いている。
「え……?」
美桜の視線の先を見て、
自分でも息を呑んだ。
足元に──
大きな水たまりが広がっていた。
(……うそ……)
恐怖で何もかも限界だった身体が、
緊張の糸が切れた途端に反応してしまったのだ。
「だ、だいじょうぶだから……っ
ぜんぜん、だいじょうぶだから……!」
職員が慌てて駆け寄り、
「平気よ、朱音ちゃん」と優しく声をかけながら
タオルを何枚も持ってきて床を拭いた。
顔が熱くてたまらなかった。
消えてしまいたいほど恥ずかしかった。
でも──
美桜は手を離さなかった。
ずっと横に立っていて、
「……怖かったもんね」と
少し震えた声で言ってくれた。
その優しさが、
かえって涙を誘った。
◆
その後、
部屋に戻され、着替えを用意されて、
やっと布団に入ることになった。
美桜は、ずっと俺のそばにいて、
タオルを取ってきてくれたり、
髪を整えてくれたり、
お茶を飲ませてくれたり、
何度も背中をさすってくれたりした。
(……もし……姉がいたら……
こんな感じなんだろうか……)
怖くて情けなくて、
それでも誰かが傍にいてくれる心強さが
胸にじんわり広がっていく。
布団に横になり、
美桜がそっと隣に寝転ぶ。
この夜は、
まだ震えが止まらなかった。
布団に横になってからも、
身体の震えはしばらく止まらなかった。
けれど──
ずっと隣に、美桜がいた。
暗い部屋の中で、
美桜は同じ布団に入り、
俺の手を握ったまま動かないでいてくれた。
少し経って、
ようやく呼吸が落ち着いてきた頃──
「……朱音」
小さく呼ばれた。
美桜の声は、
昼間より少し掠れている。
ずっと泣きそうで、でも必死にこらえているような声だった。
「……なに?」
俺も同じように小さな声で返す。
美桜は、布団の中で俺の手をぎゅっと握りしめた。
「起きたらね……朱音がいなかったの」
「……あ、ごめん。トイレ、行って──」
「……わかってるよ。
でも……怖かったの」
美桜はうつむいたまま言葉を続けた。
「また……どこか行っちゃうんじゃないかって。
朱音って……いつも、いきなりいなくなるから……」
(……そんなつもりじゃ……なかったのに……)
胸が少し痛くなる。
「探したの。
そしたら……廊下で……朱音が……」
美桜の声が震えた。
「女がハサミを持って……
朱音を刺そうとしてて……
すごく、すごく怖かった……」
視界に浮かび上がる、
美桜が飛び込んでくる前のあの光景。
鋏。
狂った目。
動かない自分。
美桜は涙をこらえながら、さらに言った。
「でも……
朱音が……震えてるの、見えたの」
(……え?)
「いつも勇気があって、
なんでも無茶して飛び出す朱音が……
怖くて、動けなくなってた……」
その声は、
震えているのに、
どこか優しくて。
「朱音も……怖いんだって思ったら……
なんか……ちょっとだけ……勇気が出たの」
美桜は俺の手を離さず、そっと横ににじり寄る。
「だから……飛び込めたの。
朱音を助けたいって、思ったの……」
胸がぎゅっと熱くなる。
あの瞬間。
美桜がぶつかってきたときの衝撃。
抱きしめられたときの震え。
全部思い出して、
喉の奥がきゅっと締め付けられた。
「……でもね、朱音」
美桜の声が、小さくて、でも確かな強さを持っていた。
「いなくならないでって言っても、
朱音はきっと……誰かを助けにどっか行っちゃうと思う」
痛いほど心に刺さる。
美桜は続けた。
「だから……
私も一緒に行くの。
朱音のそばにいる。
そして……朱音を助けたい」
その言い方は静かで、
でも揺るぎがなかった。
まっすぐな目で、
逃げない覚悟を伝える声。
(……巻き込みたく……ないのに……
でも……そんなふうに思ってくれるの、
ほんとに……ほんとに……嬉しい……)
喉がつまって、何も言えなかった。
泣きそうなのに、涙は出てこなくて、
胸が熱くて痛くてどうしようもない。
やっとの思いで、声を出す。
「……ありがと……美桜……
でも……こわかったら、逃げてね……?」
「逃げないよ。
朱音が逃げないなら、私も逃げない」
美桜はそう言って、
布団の中でそっと抱きしめてきた。
小さな体の温かさが、
心の奥にゆっくり広がっていく。
「……もう大丈夫だよ。
あいつは捕まったし……
今夜は……寝よ?」
「……うん……」
そのまま、美桜の肩に顔を寄せた。
心臓の音が近くで聞こえて、
それが心地よくて、
ようやく眠気が落ちてきた。
(……美桜……
ありがとう……
本当に……ありがとう……)
静かな夜の中で、
俺は美桜に守られながら、
やっと目を閉じた。




