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第2話 黒い影と白い狂気


 鏡の中の少女は、まだ信じられないというように、こちらを見つめ返していた。


 黒髪。大きな瞳。小さな肩。

 そこに立っているのは、昨日まで四十代の男だった俺じゃない。


 細い指が震える。

 喉がきゅっと縮まり、深呼吸すらうまくできない。



 だが、混乱していても、今しなければならないことは分かっていた。


 ――施設に連絡する。


 臨床試験を受けたあの施設。

 あそこが今の俺を説明できる唯一の場所だ。


 スマホを開こうとして、指が画面の端に滑る。

 子どもの手は小さく、思ったように力が入らない。


 それでも何とか番号を押し、耳に当てる。

 コール音がやけに長く感じられた。


 『はい、mimi臨床研究センターです』


 聞き慣れた事務的な女性の声。

 なぜか、それだけで涙が出そうになった。


 「……あのっ……昨日、治験を受けた……高橋、満雄……です……」


 自分の声――少女の声が震える。

 電話口が一瞬、静まり返った。


 『え?……高橋……さん?』


 動揺しているのがはっきり分かった。


 「おきたら……体が……変わってて……

  手も小さくて……髪も長くて……

  声も……こんなで……

  鏡を見ても……俺じゃなくて……

  12歳くらいの……女の子に……なって……て……」


 言いながら、自分でも恐ろしくなるほど現実離れしていた。


 電話口の女性が、息を飲んだ音がはっきり聞こえた。


 『……すぐに向かいます。絶対に外に出ないでください。

  いいですか? 家から出ては、いけません』


 「な、なにが……起きた……んですか……。」


 『詳しいことは、こちらから職員が到着してから説明します。

  とにかく、絶対に外に出ずに待っていてください』


 言い終えるより早く、電話は切られた。


 ただならぬ気配だけが残った。



 壁にもたれたまま深呼吸しようとしたが、少女の胸はすぐに苦しくなった。

 そのとき――


 ぐぅ、と腹が鳴った。


 「……お腹、すいた……」


 空腹は容赦ない。

 昨日からほとんど何も食べていなかった。


 このまま倒れて迎えの職員に見つかったら、それこそ面倒だ。

 少しだけ、ほんの少しだけ外へ出れば――と自分に甘い言い訳をした。


 パーカーを羽織り、フードを深くかぶる。

 小さな足が地面を軽く叩き、朝の冷たい空気が肌を刺す。


 コンビニでおにぎりとスープを買うと、店員が微笑んだ。


 「こんな朝早くに偉いね。学校?」


 「……お休み、です……」


 その場では何でもないやり取りだったが――

 世界が大きく、まるで異世界だ。



 アパートの角を曲がった瞬間。


 世界が静まり返った。


 黒い車が二台、路肩にぴたりと並び、

 全身黒の防寒具を着た外国人の男たちが周囲を警戒するように歩き回っていた。


 ただの警備ではない。

 表情も、動きも、腰に下げた装備も――明らかに素人ではない。


 武装している。


 銃こそ見えないが、体のラインから硬い装備が仕込まれているのが一目で分かった。


 「……っ」


 呼吸が止まった。


 そして、その黒い集団の中心に――白衣の男がいた。


 昨日の説明会で見た、あの外国人研究者だ。


 今は冷静というより、異様なほど目がぎらついていた。

 眉間にしわを寄せ、何かに取り憑かれたように周囲を見回している。


 「探せ。まだ付近にいるはずだ。」


 低い声。

 抑えられているが、奥に狂気が潜んでいる。


 「被験体はこの近くにいる。

  ……あれほどの“反応”が得られたんだ。逃すわけにはいかない」


 被験体。


 その言葉が、凍った刃のように胸に刺さった。


 この中にあったはずの生活。

 この部屋。

 この道。

 この“日常”。


 全部、もう俺のものじゃないのだ。


 白衣の男は、まるで宝物を失った子どものように興奮していた。


 「前例がない……こんな結果は……!

  本国へ持ち帰れば、我々の研究は……!」


 叫びながら笑っている。

 その笑いは、完全に研究対象へ執着する狂気の色だった。


 その瞬間、直感した。


 ――捕まったら、戻ってこれない。


 それは比喩ではない。

 研究のために使われる。

 どこかに運ばれて、二度と日の当たる生活に戻れない。


 確信だった。


 俺は、彼らにとって“生きて帰す必要のないモノ”だ。



 「……逃げなきゃ……」


 ほとんど声にならない声が漏れた。


 足が震える。

 心臓が小さな胸で暴れ回る。


 後ずさるたびに、靴底がかすかに地面を擦る音がする。

 その音すら恐ろしく感じた。


 白衣の男の視線が、ふとこちらへ向いた。


 世界が一瞬止まった。


 ――バレた。


 そう思った瞬間、俺の身体は反射的に動いていた。


 走った。


 細い少女の脚は想像以上に速かった。

 風が頬を切り、足音がリズムを刻む。


 背後から怒鳴り声があがった。


 「いたぞ!」

 「追え!」


 追われている。

 本気で、命を狙われている。


 「……いやだ……!」


 声が震える。

 涙が頬にあふれる。


 もう二度と戻れないとしても――

 まだ、終わりたくない。


 俺は、絶望の重さを振り切るように、全力で走り続けた。


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