第一九話 September 02
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「おはよう、甲斐君。みんな集まっているよ」
「はい、今行きます」
場所は日暮里のとあるホテル。そのロビーの自販機でスポーツドリンクを購入していた甲斐に、ジュンが声をかけた。二人がラウンジのソファへと向かい、その後ろをラートリーがついていく。
門脇甲斐は高校二年だが身長は一七〇センチメートルに満たず、顔立ちは女の子のように可愛らしく、中学生くらいにしか見えない少年だった。異世界で着ていた服は破れや汚れがひどく使用に耐えなかったので、新しい服を身にしている。もっともそれはTシャツとジーンズ、袖まくりをしたミリタリーシャツという、異世界で着ていたそれと大差ないものだった。履いているのは手製のサンダルなどでは当然なく、スニーカーである。
諏訪部ジュンは、年齢は二〇歳前後。身長は一八〇センチメートルに達し、黒く長い艶やかな髪。眼鏡をかけた、知的でグラマラスな美人さんである。彼女もまた服装を更新していて、上はノースリーブ・ハイネックの白いサマーセーター。その上にジャケットを羽織り、下は膝までのタイトなジーンズ。ただ履いているのは動きやすさを最重視したスニーカーで、そこだけコーディネイトに不釣り合いがあった。
そしてラートリーは、異世界からやってきた一六歳の少女である。身長は甲斐より若干低く、スレンダーな体格。黒く艶やかな髪は肩胛骨に届くほどの長さで、それをリボンで縛っている。肌の色は色白の東洋人くらい、顔立ちも日本人のそれに近い。ただ、瞳はエメラルドのように澄んだ翠だった。服装はこの世界のそれに更新されていて、上はTシャツとパーカー。下はミニスカートと黒いスパッツという、活動的なものである。なお彼女のガントレットも含め、甲斐達が所持していた武器は全て警察に押収されていた。
彼等がいるのは客室が百程度のビジネスホテルで、ランクは中の上くらい。ラウンジも大して広くはなく、TVを前にしてコの字になった大きなソファセットがあり、その周囲にいくつかの椅子とテーブルが並んでいる程度だった。
「来たわね」
「おつかれさん」
「HEY BOY」
そしてそのソファでは、四人の人間が甲斐達を待っていた。ときは九月、甲斐達が異世界から帰還して既に三日が経過している。この三日間は様々な雑事や、対処するべき事項や、果たすべき義務があり、それらが一通り片付いてようやく多少なりとも落ち着いたのがこの日だった。
彼等がこちら側に帰還したのは八月三〇日正午。生き残った七七人は一人残らず負傷していて、特に甲斐やラートリーは重篤だった……が、この二人はレベル一六。その回復力はこの世界の科学や常識を超えている。病院に運ばれて手当を受けたがその日の夕方には傷も塞がり、(戦うのは論外としても)日常的な動作程度なら問題ないくらいには回復していた。もちろんこの二人やジュン達は特別であり、帰還したプレイヤーの半数は未だ入院中である。また回復力が不足し、治療も間に合わず、こちら側に帰ってきてから死んでしまった例も三件発生している。
ともかく、その日の夕方には甲斐達は普通に動ける状態だったわけであり、
「お兄!!!」
生存の連絡を受けた家族が会うのを妨げる理由は、何もありはしなかった。
場所は足立区の救急病院。入院用の病衣を着た甲斐は病室の一つで休んでいて、
「亜衣、親父、お袋……」
看護士に案内されてそこにやってきた三人の家族と対面したのだ。呆然とする甲斐に対し、真っ先に動いたのは妹の亜衣だった。亜衣が全力ダッシュで突進してそのまま甲斐の腹に頭突きをする。亜衣はそのまま頭を甲斐の腹に擦りつけるようにし、うぎゅぎゅぎゅぎゅごごごご、とおよそ人の声とは思いがたいそれを出して号泣し、全身の水分を絞り尽くす勢いで涙を流した。
「ごめんな、心配かけて。もう大丈夫だから」
甲斐としては、自分のせいで妹がここまで泣く事態はあってはならないことである。懸命に亜衣を宥める甲斐だが、亜衣の涙はなかなか止まろうとしなかった。そして母親の麦子もまた息子の無事に心底安堵して静かに涙を流し、甲斐はさらに往生した。
泣き疲れた亜衣がようやく落ち着いたのは、半時間くらい経ってからである。
「それで親父。沢城の小父さんや小母さんも……」
「ああ、待合で一緒だった」
「そうか……後で会わないと」
痛みを堪えるような様子の甲斐に父親の米太が、
「雪未さんは八月の中頃に亡くなったのが確認されているが、諭吉君は」
「最後の戦いで……俺とラートリーをかばって」
歯を軋ませる甲斐に対して米太は「そうか」とだけ言い、それ以上のことは何も言えなかった。……が、
「ねえ、お兄」
「何だ?」
「ラートリーさんて、この人?」
と亜衣が指差した先には同じく病衣を着たラートリーがいて、彼女は回転椅子に座ってくるくる回って遊んでいる。甲斐はとりあえず「ああ」と頷いた。
「……それで、どういう関係なわけ?」
とジト目になって何故か小姑のようなことを訊いてくる亜衣。
「ラートリーは一緒に戦った仲間だ」
甲斐はそう胸を張るが、亜衣は「ふーん」と引き続き面白くなさそうな顔だった。一方麦子は、
「あらあら、うちにお嫁に来てくれるのかしら」
と上機嫌だ。そして笑顔で英語で挨拶を試みる。
「Nice to meet you. I am your mother」
「それ『No!』って叫ばれるやつじゃない?」
と突っ込みを入れる亜衣。一方のラートリーは困惑の顔を甲斐へと向けるだけである。
「英語が通じないのかしら。この子、お国はどちらになるの?」
「ポータラカ王国」
甲斐の端的な回答に、麦子達が沈黙する。少しの間を置き「それって……」と亜衣がはばかるように言い、甲斐が頷いた。
「そう、この子は向こうの世界の人間だ」
それから少しの時間を経て、門脇家の面々は鳩首しての家族会議中だった。
「でも異世界の子だなんて……その子のご両親へのご挨拶はどうしたらいいのかしら」
「問題はそこじゃないと思う」
「ラートリーに親御さんはいなかったはず……でも他に世話になった人もいるだろうけど」
「いないわけじゃないけど別に気にしなくていい」
「って言ってる」
「そう? それじゃそれはひとまず置くとして」
「それより問題なのは戸籍とか国籍とかじゃないの?」
「そうだな。向こう側に戻せる方法があるのか判らないし、こっち側で生きていくのならそれがないとどうしようもない」
「うーん。金さえ出せばその辺をどうにかしてくれる伝手がないわけじゃないんだが」
「金以外に何か問題が?」
「そりゃお前。これだけの大騒動の渦中にある人間が、そんな違法手段を使えるわけないだろうが。そもそも今、この子の身柄を確保しているのは警察だ。この子がプレイヤーではなく異世界の人間だという事実も遠からず知られる」
「そうなったらどうなるんだ? ラートリーの扱いは?」
甲斐の問いに米太は「さあなあ」と頼りなげに首をひねるだけだった。
……その後、家族との対面を終えた甲斐は、ジュンの病室へと向かった。
「ジュンさん、入っていいですか」
一応「どうぞ」と返事があったので甲斐はその病室に足を踏み入れるが、「うおっ」とびっくりして足を止めてしまった。その病室には大きなテーブルが持ち込まれ、テーブルの上には液晶モニターが六台。そしてキーボードが六台並べられ、ジュンはそれを同時に打鍵していたからだ。
「済まない、今ちょっと忙しい。話は明日にしてくれると助かる」
そう言いながらもジュンの手は止まらない。二本の手が超高速で動き、まるで六本にも一二本にも分身したかのようだ。ジュンは甲斐やラートリーに次ぐ高レベルプレイヤーであり、その膨大なステータスポイントのごく一部を「速さ」や「器用さ」に振ったならこの程度の曲芸は児戯みたいなものだった。
「あの、一つだけ訊いてもいいですか。ラートリーはどうなるんでしょうか」
ジュンの手が止まるが、それも一瞬のことだ。彼女は打鍵を続けながら、
「判らない、警察がどういう判断を下すのか。でも多分『難民みたいなものだ』と見なされて仮滞在許可が出るんじゃないだろうか。永住権や日本国籍の取得については、わたしもできるだけ力になると約束する」
「そのときはお願いします……その、向こうに帰すのはやっぱり無理ですか」
甲斐の問いは、まるでそれを期待しているかのようだった。
「可能性はかなり低いと思う。仮にできるとしても、それが許されるかどうか」
ジュンはそこで手を休めてペットボトルのお茶を飲む。最低限訊きたいことを訊いた甲斐は「ありがとうございます」と礼を言い、その部屋を退出した。
その後、甲斐は沢城姉弟の両親と対面し、二人に雪未と諭吉の最期について説明する。沢城姉弟の死は自分の責任にあることは甲斐にとっては自明なのだが、その両親は決して甲斐を責めなかった。甲斐の無事をただ喜ぶその姿はあまりに痛々しく、甲斐からすれば責められ、なじられた方が百倍もマシだった。
沢城姉弟の両親との対面により、ドゥルヨーダナとの戦いよりも精神的に消耗した甲斐はその病院で泥のように眠り、休息を貪る。翌八月三一日は警察の事情聴取を受けて一日が終わり、夕方にはこのホテルに移動した。
日暮里駅に近いこのホテルは七四名の生存者を滞在させるために事実上の貸し切りとなっている。なお、一日百万にも及ぶその費用を「自発的に」供出しているのはスカーヴァティ社だった。
翌九月一日もまた警察の事情聴取で一日が過ぎ、そして今日、九月二日。ジュンの下には「ナラクエ」のトッププレイヤーが、最強の戦士達が集っている。甲斐とラートリーは推定でレベル一六、この場の七人の中でもダントツの戦力だ。ジュンはそれに次ぎ、レベル一五超と推定された。残りの四人もジュンに匹敵する実力を有している。
「……」
黙々とスマートフォンでゲームをしているのは冬馬弓人、甲斐と同年代の少年だ。平均程度の身長に痩身。明るい栗色の髪は強いくせっ毛で肌の色も白く、白人の血が入っているものと思われた。装備は、Tシャツにジーンズの上下。大きく無骨なヘッドホンを首にかけ、濃いサングラスも付けている。異世界で着ていた服はもちろん全部捨て、今着ているのは洗い立てのそれだが、一見だけならその格好は異世界のときのそれと全く変わらなかった。
『それでボス、東京観光の相談か?』
そう言ってにやりと笑うのは、身長が二メートルを超え、体重は百キログラムを超える、巨漢の黒人である。濃いサングラスをかけ、スキンヘッドに髭を生やしていて、その年齢は見当も付かない。黒いTシャツに迷彩柄の上着を腰に巻き、下は対になった迷彩柄のミリタリーパンツ。履いているのはごつい軍用ブーツだ。この世界に帰還してから着替えていることは言うまでもないが、彼もまたその印象は異世界のときとほとんど変わりがなかった。
彼の名は自称マリオン・コブレッティ、通称は「キングコブラ」。七大英雄の一人と言われた男である。
「東京も悪くはないけど、どうせなら熱海辺りでゆっくりしたいねぇ」
そう言って煙草をくわえるのは、身長が高く手足も長いが猫背の、冴えない印象の中年男。小林画伯という、ちょっと変わった名前のその男は元警察官という経歴の持ち主だった。半袖のシャツに背広のズボン。一応ネクタイをしているがそれをだらしなくゆるめ、素足に履いているのは雪駄である。
「ちょっと。ここは禁煙よ」
「そういうお嬢さんもくわえているようけど」
「これは格好だけよ」
世知辛い世の中だねぇ、と小林氏は火を点けないままの煙草をゆらゆらと揺らした。その横では同じく、火を点けないキセルを口にする一人の女性がいる。
レースとフリルが満載の、黒を基調としたドレスはゴシックロリータファッションと呼ばれるものだ。舞妓さんなみにファンデーションを塗りたくったその顔は極端に白く、凹凸もほとんどなくなっている。身長は女性の平均程度で、かなりの痩身。年齢不詳の容貌だがおそらくは二〇代前半と思われた。
「あの……済みません。もしかして」
その女性に見覚えのない甲斐がおそるおそる問い、
「他人はわたしをブラック・ウィドウと呼ぶわ」
彼女は何気なさを装ってそう答える。薄く笑うその顔は甲斐の反応を面白がっているようだった。
「全然別人じゃないですか」
「拉致られたのが自分の部屋でくつろいでいるときだったから。こっちがわたしの本来のスタイルなのよ」
誇らしげにそう胸を張る彼女の名は結城ひろみ、またの名を「ブラック・ウィドウ」。七大英雄と呼ばれた七人の中の一人である。
「――さて、集まってもらったのは他でもない」
ジュンがそう切り出し、一同が注視する。彼女は一呼吸置いて話を始めた。
「異世界からこの世界に帰ってきさえすれば全ては終わる。色々と問題はあるだろうけれど、少なくとももう二度と戦う必要はない。雑務を処理しさえすればまた元の日常に……何の変哲もない、退屈だけど平穏な毎日に戻れる――わたしはそう信じて疑わなかった。だがどうやら、それは甘い考えだったらしい」
ジュンはそう言ってため息をつく。
『九回裏で同点に追いつかれたような気分だぜ』
「抑えに失敗したわけか。逆転されなっただけマシかもしれんが」
マリオンと小林氏の会話にジュンが肩をすくめ、
「そんなわけで延長戦だ。でも一八回まで延々と続けるのは御免こうむるし、もちろん負けるのも論外だ。できるだけ速やかに、勝ってこの戦いを終わらせないといけない」
ジュンが静かに決意を述べ、一同が頷いて同意を示した。異議はないけど、とブラック・ウィドウで手を挙げて発言する。
「この場合の勝利条件は何になるわけ?」
「そうだな。前はこの世界に戻ってくることが勝利条件だったわけだが」
とジュンが少し考え込む。
「この世界に来ているドラゴンやモンスターを全部倒さないと」
と意気込む甲斐に対し、ジュンは無条件には同意しなかった。
「確かにそれは必要だけど、勝利条件とは違うんじゃないかと思っている」
「それじゃ、ナラカ結界の破壊?」
「多分それは勝利条件と密接に結びついているだろう。わたし達を蠱毒壺の中に閉じ込めるナラカ結界はまだ生きている」
生き残ったプレイヤーは警察によりこのホテルに宿泊するよう要請されているが、強制ではない。多くのプレイヤーが帰宅を希望し、一部のプレイヤーは特に問題なく帰宅し、家族の下に帰ることができた。だがそうではないプレイヤーもまた多数存在したのだ。
あるプレイヤーは電車で移動中、その電車を緊急停止させてドアをこじ開け、線路の上で途中下車した。あるプレイヤーは家族の運転する自動車で移動中、高速道路の路上で自動車を強引に止めさせ、そこから歩いて元の場所へと戻っていった。
「問題なく帰宅できたプレイヤーの実家は、台東区・練馬区・川口市・草加市・越谷市……つまりはスカーヴァティ社が指定した直径二九キロメートル・全周九一キロメートルの滞在範囲円内。その外に無事に出られたプレイヤーはまだ一人もいない。単に引き返しただけならともかく、自動車を高速道路上で急停止させたり電車や新幹線を緊急停止させたりと、大きな問題を起こしてニュースにもなっている」
「つまりは熱海にも行けないってわけね」
と小林氏が肩をすくめた
「俺、もう学校が始まってるんですけど……」
「わたしだって、まだ夏休みだけど遠からず後期が始まるのは同じだよ」
「ふっ、失業中のわたしに隙はないわ」
と何故か勝ち誇るブラック・ウィドウ。一方の小林氏は頭を抱える。
「ああ、結局百億は手に入らなかったし、さっさと仕事を探さなきゃなぁ」
「とまあ、一日でも早くそれぞれの日常に戻るためにもわたし達は速やかに勝利し、問題を解決する必要があるわけです」
とジュンはやや強引に話を戻した。
「プレイヤーは滞在範囲円内から出られない……多分新宿を経由すれば出られるだろうからそれは後で検証するとして、要するにナラカ結界はまだ生きていて、わたし達はまだ契約に縛られている、ということだ。だからまずわたし達が成すべきは、ナラカ結界を機能停止させ、契約を今後こそ完全に破棄すること。これになると思う」
「ドラゴンやモンスターは放っておいていいの?」
そこで初めてラートリーが口を挟んできて、ジュンは苦々しげな顔を彼女から背けた。
「この国にも警察はある。その指示を無視して勝手な行動を取るわけにはいかない」
『はっ! あんな連中、じじいの○○○ほどにも役に立たねえじゃねえか!』
マリオンが汚いスラングで言い放ち、ジュンが苦笑する。そこに、
『誰が役立たずだと?』
きれいなクイーンズイングリッシュのその言葉を理解できたのはジュンとマリオンだけだった。一同がふり返ると、そこに立っているのは一人の男だ。年齢は三〇代の後半。気候はまだまだ夏と同じなのに背広の上を着、きっちりとネクタイも締めている。身長はそれなりに高く、中肉中背。首から上にはまるで大きな卵が載っているようで、卵にはマジックで七三の髪と目鼻が描かれているかのようだ。ただ、嘲笑に満ちたその容貌は性格の陰険さがあふれ出んばかりだった。
『よう、犬っころ。ご主人様だぜ、尻尾を振りな』
マリオンの罵倒を、男は舌打ちをして無視する。彼はまずジュンへと目を向けた。
「さて、諏訪部ジュンさん。事情聴取にご協力いただけますか」
「弁護士を呼んでいただけますか? 嶋村参事官」
男の名前は嶋村有人。警察庁の警視長であり、参事官という役職の彼は、今回の「ナラカクエスト・オンライン事件」捜査の事実上の責任者だった……だが、
「弁護士立ち会いでなければ事情聴取は受けかねます」
「君は市民の義務を何と心得ているのかね。殺人罪や過剰防衛で逮捕状を取ってもいいんだぞ?」
「そうやって脅迫するからわたし達も身を守るために黙秘するしかなくなるんでしょう」
ジュンは疲れたようなため息を深々とついた。
この一ヶ月間、警察は今回の「ナラクエ事件」に対して何ら有効な手を打てず、東京近隣に一〇万もの死体が積み上がるのをただ傍観していただけのようだった。プレイヤーの家族や遺族、一般市民、マスメディア、政治家――上から下から、右から左からの、罵詈雑言の十字砲火が警察に集中。特に非難の的となったのは捜査の責任者であるこの嶋村参事官で、さらに彼は警察という組織内からの非難にも晒されることとなった。それはまともな神経の持ち主に到底耐えられるレベルではなかったのだ。
上役からは「何をしているんだ」と毎日のように叱責され、部下を叱咤激励しても「お前の指揮が悪いからだろう」と白い眼を向けられる。「あいつはダメだ、指揮官を変えるべきだ」という声が高まる一方で、誰もこの役目を引き受けようとせず、助けを求めても協力すら惜しむ始末。今まで自分に媚を売ってきた連中も「あいつのキャリアもここで終わりだ」と掌を返して……自分は孤立無援で、一人で戦っていたようなもの。嶋村のその所感には何割かの事実が含まれていたが、残りはやはり被害妄想の一種だった。嶋村は孤立し、追い詰められ、心身ともに余裕を失い、限界寸前となっていたのである。
そんな中でジュン達プレイヤーが異世界から帰還。一〇万人のうちたったの七〇人余りでも生還してこれで事件も解決かと思われたが、生還者は異世界からモンスターを伴ってきたのだ。この新たな、厄介な問題に、視野狭窄に陥っていた嶋村が全ての責任を生還したプレイヤー達に押しつけようとしたことも、あるいは無理のないことかもしれなかった。だがジュン達からすればたまったものではない。
「あー、嶋村参事官。逮捕状を請求するにしても犯罪の証拠はあるわけですか?」
「彼女が提出したレポートがあるだろうが」
彼の言うレポートとは、ジュンが帰還後に病室で執筆したもので、その内容は異世界での活動の記録となる。異世界で出会った人々に関する覚え書き、モンスターとの戦いの記録、同じプレイヤーとの殺し合いの、苦い記憶。ナラカ結界や魔法に関する考察、ポータラカ王国やスメール帝国に関する記録と、項目は多岐に渡っている。彼女は一〇万字以上のそのレポートを、六台のパソコンを使ってたったの一五時間ほどで書き上げ(しかも英語版も同時に)、それを即座にネットで一般公開したのである。
それを読んだ嶋村参事官はまず「何を勝手なことを」と激怒。さらには殺人罪や過剰防衛での逮捕を匂わせ、それを受けてジュンだけでなく全プレイヤーの態度が硬化。事情聴取が事実上頓挫し、もう丸一日になろうとしているところだった。
嶋村参事官にあと少しの冷静さがあったなら、最初の行き違いがなかったなら、事態はここまでこじれなかったのに……ジュンの口からため息ばかりが漏れてしまう。だがそれはもう今さらな話だった。
嶋村参事官の返答に小林氏は失笑を禁じ得なかった。
「いや、あれが事実だなんて物証はどこにもないでしょう。『あれは単なるラノベです』と彼女が言ったら、それをどう否定するわけですか」
「元警部補ごときが、誰に対してものを言っている!」
「いやあ、キャリア組のあなたからすれば私なんて木っ端同然ですけどね」
と小林氏は肩をすくめ、
「ですが私はもう組織の外のただの市民なわけで、一般市民に対する警察官の態度としては、あなたのそれには眉をひそめてしまいますなぁ」
他人事のように言う小林氏に、嶋村は悔しげに舌打ちをする。さらには、
「今日もこの無能は怒鳴り散らすだけでした……と」
「おい、お前! 何をしている!」
「呟いているだけよ」
とブラック・ウィドウはスマートフォンから目を離さずに言う。
「β版で七大英雄だったときにフォロワーが百万を超えたけど、戻ってきて再開したらフォロワーが五千万を超えたわ」
「わたしもそのくらいだ。あまり呟かないから減っているだろうけど」
「呟くネタはいくらでもあるじゃない」
と嶋村を指差すブラック・ウィドウにジュンは苦笑を見せた。
「そうやって君が燃料を投下するから、ネットは嶋村参事官に対する罵詈雑言の渦だ。彼のことを非難する政治家も一人や二人じゃないし、この事件の担当から外す要求のネット署名も始まっている」
「この無能が担当から外れればもっとマシな人間が来てくれるんじゃない?」
あるいはそうかもしれないね、とジュンは頷き、小林氏は嶋村のフォローを試みた。
「いや、警察庁のキャリアが無能なわけはないんだよ。ただ今回の事件は前例も常識も、何の役にも立たないからねぇ。誰が担当してもこの人以上のことができたかどうか」
「捜査に関して言えばその通りだと思います。でも、本来被害者であるわたし達を容疑者のように扱うその姿勢は擁護しようがありません。わたし達との信頼関係の構築にも失敗していますし、ここは能力で劣っていようと人当たりが良い人を新しい担当者に据えて、一からやり直した方がいいんじゃないでしょうか」
ジュンの言葉に小林氏は肩をすくめるが、否定しはしなかった。ジュン達が好き勝手に論評する、そのすぐ横に嶋村は立ったままだ。彼の脳の血管は切れるかと思われたが、彼は深呼吸を一つしてそれを憤りを鎮めた。
「そこの彼女、ラートリーと言ったか」
嶋村が嫌な笑いを示しながら少女を指差す。
「彼女は出入国在留管理庁に身柄を移送されることになった」
ジュンが顔色を変えて立ち上がり、嘲笑を浮かべた嶋村と対峙した。
「今日の午後にも港区の東京入管に移動してもらう」
「正気か。言葉も通じないこの子を、あんな刑務所以下と言われる場所に」
「法に基づいて密入国者に対処するのは入管庁の仕事だ。今まで彼女をここに置いていたのは私の温情に過ぎない」
ジュンが唇を噛み締め、嶋村は勝ち誇った顔をする。甲斐もまたジュンの横に並んで嶋村をにらみつけるが、彼は何らの痛痒も感じなかった。
「それに入管は法律に基づいて不法滞在者を拘留しているだけだ。彼等が大人しく出国するのなら何の問題もない」
「日本に家族がいるとか祖国で迫害を受けているとか、それぞれの問題に何か配慮をしているんですか? あの組織は。国連から何度是正勧告を受けたと思っているんです。それに第一――この子にどこにどうやって帰れと言うんだ!」
『ポータラカ行きのチケットを手配してくれるわけか?』
ジュンが鋭い怒気を発し、マリオンが痛烈な皮肉を言い放つ。だが嶋村は、
「それは私の関知するところではない」
と肩をすくめるだけだ。ジュンの顔色は赤色を通り越して青白くなった。
「土下座して額を床に擦りつけて、前非を悔いてあなたに全面降伏すれば、この子の移送を止めてくれるとでも?」
「さあね。だが身柄をもう一度こちらに移す、検討の余地はあるかもしれない」
拳を振り上げようとする甲斐の手をジュンが抑える。甲斐やジュンの怒気は空気を焦がすかのようだ。その緊迫した様子を遠巻きにしてうかがう何人ものプレイヤー達。そしてその中に、堀江由樹の姿があった。
堀江由樹は自衛隊の元レンジャーという経歴を持つプレイヤーだ。年齢は二〇代後半。身長は一八〇センチメートルを超え、よく鍛えられた屈強な肉体を有している。着ているのはジーンズと、Tシャツの上に中古のミリタリージャケット。それにサングラスをかけている。
堀江は「さて、どうするか」と検討した。
「このままあの参事官と彼女達の対立を深刻化させた方が都合がいいようにも思えるが、今のままでは俺も身動きが取れない。少しは自由に動けるようにならないと……何より」
何より、あの参事官は気に食わない。それを理由の九割として、彼はこっそりとある行動を選択した。
「どうした? 冬馬君」
ジュン達と嶋村が対峙し、火花を散らす中で、それを無視するように弓人が動いた。彼がソファセットの正面の大型TVの電源を入れる。TVではちょうどニュースを放映しているところであり、
『ご覧ください! ご覧ください! モンスターがあのように!』
報道されているのは、人々の頭上を飛び交うモンスターの姿だった。空を飛ぶモンスターの数は二体。大きな翼と長い胴体、それに二本足の竜、ワイバーン。もう一体は女の顔を持った鷲、ハルピュイアだ。両者ともその体長は数メートルにもなり、人々はパニックを起こして逃げ回っている。
二体のモンスターは逃げる人々を高速で追い抜き、正面から襲いかかろうとする。人々は慌ててきびすを返すが全員が即座に方向転換できるわけではなく、その大半が将棋倒しになって倒れた。そしてハルピュイアがその足で運の悪い一人の頭部を掴み、もぎ取っていく。大量の血が撒き散らされ、悲鳴と泣き声がその場を満たした。そして犠牲者の身体が吐き出した光の球体はモンスターへと回収されていく。
「何てことだ」
握り締めた拳を振るわせるジュン。TVの中の惨劇に一同は言葉もない。その中で甲斐は、
「ジュンさん、あれがどこか判りますか」
「済まない、わたしでは」
「池袋駅西口、メトロポリタン通りだ」
ジュンに代わってそう答えたのは小林氏だ。甲斐は「ありがとうございます」と即座に飛び出そうとした。が、
「待て! どこに行くつもりだ!」
嶋村が鋭い口調でそれを制止する。止められた甲斐は不満げな顔を振り向かせた。
「決まってるでしょう。早くモンスターを倒さないと」
「すぐに特殊部隊が駆け付ける、勝手な真似をするな」
「あのモンスターはレベル一二とか一三とかです。警察じゃ歯が立ちません」
甲斐は焦りながらそう告げるが嶋村は、
「これはゲームでもアニメでもない、子供に何ができる」
そうせせら笑うだけだ。甲斐は焦燥と絶望で目の前が暗くなり、ジュンは深々とため息をついた。
「『ナラクエ』が始まってからこっち、俺達は出来の悪いアニメみたいな現実に延々と付き合わされているんですけどねぇ」
小林氏の指摘にも嶋村は軽侮するように鼻を鳴らすだけである。アリバイ作りのように一応注意は促したものの、小林氏は嶋村の言動に呆れ果てて内心では完全に見切りを付けている。それはジュンや他の面々も同じだった。
「甲斐君、構わないから現場に向かってくれ」
ジュンの言葉に甲斐は一瞬驚き、
「はい!」
次いで笑顔で、力強く頷いた。「何を勝手な真似を」と嶋村が甲斐に掴みかかろうとするが、その身体が硬直した。嶋村の強張った顔と、口の端をわずかに上げるブラック・ウィドウの顔が向かい合う。
「お、お、お前、何を……」
「この程度で動けないわけ? 最低レベルの金縛り魔法なんだけど」
「公務執行妨害で逮捕されたいのか!」
「魔法を使ってはいけない、なんて法律がこの国にあったのかしらね」
ブラック・ウィドウの薄ら笑いに嶋村は折れんばかりに歯ぎしりをした。一方、
「行くぞ、ラートリー……って、あれ」
「そう言えばあの子は」
左右を見回す甲斐とジュン。そこにラートリーが笑顔で「持ってきた!」と二本の日本刀を手に現れた。甲斐は「ナイス!」と破顔する。
「それは?」
「得物を取り上げられたことを愚痴ったら親父が用意してくれたんです。『いざというときに必要だろう』って」
ラートリーはモンスターの姿を見てすぐにそれを取りに自分の部屋へと行ってきたのだ。甲斐の父親が何者なのかを疑問に感じるジュンだが、絶好のフォローであることは間違いなかった。
「日暮里からは池袋は真っ直ぐ西だ。気持ち北寄りに進んだら山手線が見えるはずだから、それに沿っていけばいい」
小林氏がスマートフォンで表示した地図を見せながら説明。甲斐は「大体判りました」と頷いた。
「それじゃ行ってきます!」
甲斐が勇ましくホテルを飛び出し、それにラートリーが続く。路上に出た二人は近くのビルの壁面を駆け上がり、瞬く間に屋上までやってくる。二人はそこから大きく跳躍し、隣の隣のビルの屋上へと飛び移った。さらにそこからジャンプし、次のビルへと移動。ビルからビルへと飛び移る二人の姿はすぐに見えなくなった。
「結城君、もう解放しても構わないよ」
そう、と頷いたブラック・ウィドウが金縛り魔法を解除。いきなり自由になった嶋村は倒れそうになり、たたらを踏んだ。
「お前等……こんな真似をしてただで済むと思っているのか」
「わたしはこれが最善だと判断しました。それが間違いだったかどうかはすぐに判ります」
決壊寸前の憤怒をかろうじて抑え込む嶋村に対し、ジュンが淡々とそう述べる。そのとき、
「警察が到着したみたいよ」
ブラック・ウィドウの声に一同がTVに注目する。そこに映っているのは、上空から飛来したヘリコプター。ボディは白と黒に塗り分けられ、「警視庁」の文字が麗々しく記されている。その威容に逃げ惑っていた人々は歓声を上げた。
「確かに君の言う通りだ。あんな子供の出る幕なんかない」
嶋村が嘲笑に口を歪めてそううそぶく。ジュンはわずかに肩をすくめるだけで何も言わず、TVの映像に注視した。
September 02 at 10:51 74 / 100,013
お待たせしました、最終章「魔王降臨編」の更新開始です。
毎日16時に更新し、最終話の更新は11月10日となります。
本作に最後までお付き合いいただければ幸いです。




