26話
小さな手紙を足にくくりつけて戻ってきたドブネズミの顎の下を、指先で優しく撫でてやる。ネズミは「じゅ〜」と嬉しそうに喉を鳴らした。
手紙を開く。『月が綺麗だ』と、グラディウスはそこに記していた。
あいにく、フワリングの置かれた牢からは月は見えない。少しばかり残念に思いながら、暗闇へ視線を向けた。
明日、グラディウスだけが公開処刑される理由など、考えるまでもない。フワリングが貴族の子息であり、グラディウスが平民だからだ。権力者の保身が生んだ、どこまでも歪んだ都合。
(……だけどね、もし明日グラディウスが死んだなら、僕もここで死ぬと決めているんだ)
その日のために、宿に残してきた自分の鞄から、ネズミを使って一振りの小さな短刀を密かに運ばせてあった。ネズミの体躯にはかなりの重量だったらしく、運んできてくれたネズミは胸を激しく上下させ、疲れ果てていた。
褒美として取っておいた干し肉の切れ端をくれてやると、ネズミは『なんだ、たったこれだけかよ?』と言いたげな顔を向けつつも、ガツガツと食いついた。
小動物を操る魔法――応用こそ効くが、魔法としての威力は決して高くない。それに、自分を嫌っている動物には効果が薄れるという欠点もある。だから普段から動物たちには好かれておく必要があった。
もっとも、フワリングは幼い頃からドブネズミの類も大好きだったから、嫌われたことなど一度もないのだが。
(……明日、あの男はやって来るだろうか)
来るに決まっている、と胸の中で即答する。
初めて会った時から、ゴライアスには独特の違和感があった。普段の態度があまりにも尊大で、偉そうだったからだ。
貴族の世界にはそんな人間など腐るほどいる。だが、彼らがゴライアスと根本的に違うのは、ゴライアスのその『偉そうな態度』が実に自然で、恐ろしく似合っていた点だ。
本人は偉そうにしないよう気をつけている風でもあったが、身に纏う空気が勝手に溢れ出てしまっている。フワリングにはそう見えた。
そして何より、驚愕したのは彼の『水魔法』の圧倒的な才能だ。
才能などという生易しい言葉で片付けるのが間違いだということは、重々分かっている。一流と呼ばれる魔法使いは皆、血の滲むような努力をしているのだ。
魔法を限界を超えて使い続ければ、魔法使いは全身を凄絶な痙攣に襲われ、内臓を捏ね繰り回されるような鈍痛に耐えかねて気を失う。しかし、その限界突破を繰り返すことこそが魔力を高める修行なのだと今なお根強く信じられており、向上心の強い魔法使いは日常的に自らをその苦痛へと追い込む。
そうした過酷な前提を差し引いてもなお、ゴライアスの才能は異次元だった。
彼はただの『遊び』で水を生成する。
本来、何もない無から物質を生成する術式は、異常なほどの魔力を消費する。『水魔法で生成するくらいなら、十キロ先の川へ汲みに行った方が遥かにマシだ』と笑われる世界なのだ。
それなのに、彼の十本の指先から上空へ向かって水が美しく噴出する『指噴水』という技を初めて目の当たりにした時、フワリングは開いた口が塞がらなかった。冒険者のホーチミンもグラディウスも、ただただ呆然としていた。
だからこそ、かつて交代で夜警をしている最中に彼が居眠りをするという大不祥事を引き起こした際も、なんとか場が収まったのだ。全員が、彼の凄まじい水魔法の才能に一目も二目も置いていたから。
『強い魔法使いほど、傲慢である』
世間で半ば常識と化しているその言葉を、彼はまさにそのまま体現したような存在だった。
だからこそ、明日、彼が自分たちを見捨てるはずがない。絶対に助けにやって来る。
(……分かっているのに、どうしてこんなに震えるのかな)
そう自分に言い聞かせてもなお、フワリングは膝の上で細かく震える自分の手を抑えることができなかった。
時間をかけ、何度も深呼吸をし、どうにか惨めに乱れないまともな字で紙に返事を滑らせる。
『ここから月は見えませんが、代わりに風流な虫の音を楽しんでいます。牢獄というのも、案外悪くありませんよ』
小さく丸めた紙を口にくわえ、暗闇の奥へ走り去っていくネズミの後ろ姿を見送りながら、フワリングはどこか自嘲気味に、静かに微笑むのだった。
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