25杯目☆彡 ブルーマウンテン
水が流れる清涼な音、そして透明な水晶が無作為に小さく輝く。
ここはコフィア城の一階にある神秘的な雰囲気の小部屋。
コフィア城の礼拝堂――その奥にみるくが連れてこられたのは、いまから始められる大切な儀式のためである。
みるくは至って普通の日本人である。大半の者がそうであるように、正月には家族揃って神社に詣で、親族の結婚式にお呼ばれされたなら教会で祝い、祖母が亡くなったときはお寺で見送る。
そう、「信じる神・宗教は何ですか?」と問われれば、はて、何だろうかと考え込み、最終的には母親にうちの宗教は何だっけと聞く位には宗教全般に無関心であった。
なので、こういう本格的な教会――元の世界にもあるキリスト教の神の家のような場に足を踏み入れるのは初めてのことであった。
王国の首都コフィアは二代前の王「ティピカ」が遷都した比較的新しい首都だ。その歴史は百年もたってやしない。そのため城内の一郭にある教会もまた、現代的なシックな佇まいである。
聖人を象った像やステンドグラスなどはなく、ただ大きな十字架のみが掲げられている。木製の長椅子と白い壁、そして壇上の祭壇。本当にそれだけだ。
王子が言うには、ここは気軽に外出が叶わない王侯貴族のためのもの、だそうだ。庶民たちは城外に建つ教会を訪れる。
ただ、信者の数は年々減っており、朽ちた屋根の修理代もままならないという状況が続いているらしい。そんな苦境の中にあっても、腹を突き出しでっぷり肥えた姿の司祭が、満面の笑みを浮かべ王子とみるくを迎え入れた。
訊けばコーヒー王国には宗教と呼べるものが一つしかないのだそう。そのため、競合他社がいないのがこの余裕であろう。さらに王国の儀式全てを司るのは結局のところ、この司祭なのだ。そのため、こうして誰一人、祈りを捧げる者が訪れなくとも彼は一向に構わない様子であった。
もとより軍人国家であるコーヒー種族。彼らには無神論者が多いらしく、その関係もあるのだろう。
礼拝堂の奥、十字架の道行という名の回廊を抜けた先には『目覚めの儀式』を執り行うための一室が存在している。揉み手で歩きながら、王子に擦り寄り教会の苦境を訴える司祭。彼が大袈裟な身振り手振りをする度にきらりと輝く大粒の宝石を横目にし、みるくは儀式を執り行う小部屋を興味深く見渡していた。
教会の集会を行う先程の部屋よりも小さく、告解室よりは大きい。
たしか祖母の葬式が行われた会場の控室がこんなサイズだった、ふとみるくは思った。もちろん、寂し気な控室と神秘的なこの部屋の様相はまったく異なっている。
部屋の一番奥には小ぶりな噴水があり、そこから湧き出る清らかな聖水が溢れ、零れ、地面を絶え間なく濡らしていく。
部屋の中央には、透明なガラスのようにも見える美しい水晶によって作られた祭壇があり、窪んだ台座の上には赤い絹の布が敷かれていた。その中央、上段には恭しく黄金に光り輝く杯が置かれている。分かりやすく、重要な宝物だと見て取れる。
祭壇の周囲には、荒々しく形が整えられてもいないままの水晶が無造作に置かれ、そのサイズは人の上半身ほどの大きさから拳大の大きさのものまで大小様々であった。その数、計十個。それが祭壇を取り囲むように硬質な光の乱反射を繰り返していた。
部屋全体は大理石で造られており、先程のグッドデザイン賞を受賞できそうなお洒落な聖堂には感じられなかった神秘的な空間を作りだしていた。
みるくは司祭から一通りの儀式の説明を受けた。隣には王子も先の言葉通り寄り添ってくれ、気づけば何の不足も不明もなく、すみやかに儀式の説明は終わっていた。
「みるく、落ち着いてやれば貴様ならば大丈夫だ」
扉の外で待つ、そう言い残し王子が部屋から出て行った。儀式の間にはみるくだけが取り残される。
どうやらこの儀式には、一人きりでやり遂げねばいけない、という決まりがあるらしい。王子の付き添いもここまで。
みるくは説明された手順を必死に思い出しながら、カップで約二杯分のコーヒーを淹れる。
水は噴水から湧き出たものを使い、祭壇の下にあった小ぶりなポットを満たす。火は噴水の横にあった。小さな火の上、網が掛けられた簡素な竈にポットを置いて湯を沸かす。
ゆらゆらと頼りない小さな火だが、床がくり抜かれており、その下には小枝のようなものがぎっしりと敷き詰められているのが見える。この炎は絶対に絶やすことがないよう、厳しく管理されているとの司祭の言葉が蘇った。床がくり抜かれているため、流れる水も火の周囲を避けて落ちていく。
みるくは、祭壇の上に置かれた三十グラム余りの少量の豆を手に取る。あらかじめ用意されたコーヒー豆を使い、手回しのコーヒーミルで粉状にしておく。緊張しているからか、この空間に呑まれたのか、挽いたばかりの粉の香りもよくわからない。いつもなら、挽いた直後には何とも言えない香りが漂うはずだが……。
お湯も沸き、次の準備を始めていく。挽いた直後の粉をペーパーフィルターにセットして、ドリッパーのなか零れないように入れておく。その上に少量の湯を垂らし三十秒ほどの蒸らし時間を与える。みるくは透明なカップを細い水滴が伝い落ちていくのを見守り、わずかな時間を過ごす。そのあとにはポットの湯を中央から注ぎ入れ、ゆっくりと円を描くようにして細く注いでは継ぎ足していく。
「最初は失敗が少ないハンドドリップでいい。粉の細かさもあらかじめ最適なミルを用意しておく。だからみるくは何も気にせず、そのまま淹れてみてくれ。多少、薄かったり濃かったりしても皆文句は言わないはずだ」
飲めるものならまあいいだろう、との言葉をかけてきた王子だが、ハンドドリップならばみるくも何度も淹れた経験がある。みるくも、それが簡単に見え奥が深いことを知っているが、さほど大きな失敗をすることはないと思っていた。
そして約二杯分のコーヒーが出来上がった。
みるくは転ばぬよう、慎重に濡れた床を移動して、淹れたばかりのコーヒーを黄金の杯に注ぐ。半分ほどでいい、とのことだったので慎重に杯の半分で注ぐのを止め、一旦様子をうかがう。すると、数秒の間にひとりでに杯の中身は減っていく。ついには底が見えてくる。杯を覗き込んでも、もうコーヒーは一滴も見当たらない。
「成功……したのかな?」
みるくは呟き、数秒間じっと待つ。時は過ぎ、何事もなく変化も起きない。水のせせらぎを聞きながら、どうやら儀式はこれで終わったようだ、そう、みるくは仮定して肩の力をゆっくり抜く。きっと、今頃みるくの淹れたコーヒーは、王国中の皆のカップに注がれたはず。
納得したかのようにみるくは頷き、一杯分余ったコーヒーを器に注ぐ。
台座上の杯ではない。みるくが持参した、なんの変哲もないコーヒーカップだ。ふんわり湯気が漂うそれを、壊れ物のように持ち扉の前に立つ。
「みるく、成功したか?」
みるくの気配がしたのか、王子が扉の向こう側より声をかけてくる。
緊張の面持ちで待っていた王子の前に、みるくは一つカップを差し出す。
この国に来てから初めて淹れた、一杯のコーヒー。みるくはかねがね、初めて淹れたコーヒーを、こうして自分の手で王子に渡したいと思っていた。
驚いた表情の王子は、次いで柔らかい表情に変わる。手を重ねカップを受け取るとそっとみるくの体を引き寄せた。王子は耳元であるかないかの声で呟く。
「ありがとう、みるく。私の国でコーヒーを淹れてくれて」
掠れた声に、ぱっと離れたみるくは赤くなったまま耳元を押さえた。王子は淹れたてのコーヒーに夢中で、こちらを見てはいない。
――今日はなんだか、王子に振り回されている気がする。
冷たい態度を取られたり、今度は暖かく見守ってくれたり。
この城にいる間にあと何度、こうしてコーヒーを手渡せるだろうか、そうぼんやり物思いにふけるみるくだったが、王子の様子がおかしなことに気がついた。
柔らかく、嬉しそうであった表情は、コーヒーの香りを嗅いだとたん怪訝なそれへと変わっていく。
「馬鹿な……」
茫然とした王子はあたらカップに口を近付け、中身を飲みこむ。そして、今度ははっきりと呻き声を上げた。みるくの胸のうちに不安が湧きあがる。
手順を間違えたつもりはない。だが、目の前の王子の貌が全てを物語っている。失敗した? どうして……。
「――これは、私の豆、私が用意した豆ではない。これは、こんなものが、『ブルーマウンテンNo.1』であるはずがない!」
やられた、苦々しく呟く王子の蒼い眼には、ハッキリと宿る憎悪の炎が浮かんでいた。




