第四十七話 黒の喫茶と星の夜
頑張るのが得意な女の子がいました。誰よりも小さな一歩一歩を積み重ねてきた彼女は、誰よりも遠くへ行きました。
彼女よりもずっと後に、ゆるりゆるりと歩く男の子がいました。あるときを境に彼は、大股で足早に進み始めました。
そのうち彼は、女の子を抜き去りました。彼女の小さな一歩の積み重ねを、あっさりと否定してしまいました。
何かが壊れました。女の子の前には壁ができて、男の子の前にはつまらない道が伸び続けました。
女の子の前に立ち塞がった壁は、太陽の光さえも遮断しました。男の子の背中も、すでに見えなくなっていました。
自暴自棄になった彼女は自分の後ろにも左右にも壁を作って、勝手に一人ぼっちになりました。
ある日、塞いでいなかった真上の空に、なんかこう、発光物体的なものが現れました。発光物体は日をおうごとに、徐々に女の子めがけて降ってきました。
まぶしい。まぶしい眩しい、怖い。でも、女の子は天井を作ろうとはしませんでした。
本当は、ずっと寂しかったから。空からやってきた発光物体。彼女は寄り添いながら言いました。
もう一度、頑張ってもいいですか?
喫茶店『ノワール』。そう書かれた店の前に、織崎紫音は立っていた。
あまり人通りの多くない裏路地の側にこじんまりと建ってるたその店こそ、これから彼女がお世話になる予定のバイト先である。
どんな店なのやら様子を見に来た紫音だが、これは少し予想外。なんだか、妙な雰囲気を醸し出している建物だ。
見た目は綺麗な建物で、喫茶店らしく装飾されたているのだが。なんというか、魔女でも住んでそうな気がする。
そういえば、紹介してくれた女の子自体が魔女のような人だった。ならばやはり、この店の中にもあんなのが住んでいるのか?
そんなわけでちょっと不安になりながらも、紫音は店の扉を開けた。来客を知らせる鈴の音が鳴る。
落ち着いた内装の、薄暗い部屋だった。並べられたテーブルを見る限り、客はいないらしい。
「あら、お客さん?」
ただ、奥のカウンターにつまらなそうに頬杖をつく女性がいた。あれが店主だろうか。
「……あの、バイトをしようと思って来たんですけど」
それを聞いた女性は、つまらなそうな表情を崩さないまま何やら思い出している様子。
「あ、もしかして貴女が……えっと」
「織崎です」
本宮日和から紹介を受けていたのだろう。女性はそこで初めて私に興味を持ったらしい。立ち上がり近づいてくる。
見ればその女性は中々背が高い。女性としては高身長の部類に入る紫音よりも高い。
そして、彼女が纏っているのは……着物?この店に着物はないだろうと思ったが、不思議と雰囲気を壊していない。
彼女が店に合わせたのではなく、店が彼女の発する空気に合わせたのだと言える。その、摩訶不思議を体現したような彼女に。
いくらかゆとりのある構造の着物のすそを引きずりながら、彼女は紫音の前に立った。
「日和ちゃんから紹介を受けているわ。ここでバイトしたいのよね?」
切れ長の瞳でこちらを見据える女性。最早浮世離れしていると言えるほど長い髪は綺麗な黒。
その姿にどこか圧倒されるような感覚を覚えた紫音。まさか本当に、魔女の店に来てしまったのかとさえ思う。
女性は悠然とそこに立ち、私を舐めまわすような視線で観察し始めた。そして、不意にニヤッと笑った。
「ふーん……これはまた、上物じゃない」
上物っ!?食べられるのか私は?
「ふふっ、日和ちゃんも良い仕事するわ。この娘なら……」
虚空を見据えて何やらニヤニヤと笑う彼女。あれは間違いなく、何か妄想している。とっても嬉しそう。
あれ?もしかして、別の意味で食べられちゃう?そんなことを考える紫音に、女性は容赦なく追い討ちをかけた。
「きゃっ」
紫音が悲鳴をあげたのはほかでもなく、いきなり抱きついてきた彼女のせい。
「うんうん、顔もスタイルもおっけ。てか完璧。それに物覚えも良さそうだし」
勝手に人の寸評を始めた彼女はやはり嬉しそうにはしゃいでいる。私にそっちの趣味はないんだけど。
「何より、私の好みだわ。間違いない、この娘なら」
間違いない。この人は変態さんだ。怪しいというより妖しい人だけど、とりあえず少しの濁りもない純粋な変態さんだ。
「……離してください。暑苦しいです」
「そうね、早速仕事に取りかかりましょうか」
はい?
話が、噛み合っていませんよ?それより私は今日は見学に来ただけで。しかもちょっとここで働くの怖くなってきたし。
「何を間の抜けた顔をしているの?貴女はうちの“看板娘”になってもらうんだからね。さっさと仕事を覚えるわよ」
看板娘?いやいやいやいや、私はバイトしに来たんですけど。話が飛躍したというより飛翔したのは気のせい?
「さあさあ、早速これを着てもらいましょう!」
「……これが、ここでの制服ですか」
「そうよ。男の子はみんな大好きエプロンドレス!着てみなさい、似合うから」
男の子はみんな大好き?なら、あの人も好きなのかな?それなら、ちょっと恥ずかしいけど。
普段はジャケットなど割ときっちりした服装を好む紫音だが、スタイルが良い分何を着ても様になる。
「ほら、似合う」
「……そうですか?」
それよか、あの人は着物で良いのだろうか。営業努力どころか真摯な態度すら見とることができない。
「さて、まずは言葉遣い。基本的に敬語乱用。私のことも営業中は店長って呼ぶこと!」
人差し指を立ててイロハを叩き込み始めた彼女。これで結構茶目っ気たっぷりの性格らしい。
「あの、店長の名前。知らないんですけど」
とりあえず変態さんで良いのだろうか。
まあそういうわけにもいかないらしく、彼女は少し悩んでから、いや何で名前を答えるのに悩んでるのかわからないけど、答えた。
「私はこの喫茶店『ノワール』の店主、黒よ」
ただ、当たり前のようにそう答えた。ノワールの店主だから黒。安直すぎる偽名だった。
「くろさん、で良いんですね?」
「うん。本名とかはナシの方向で」
胡散臭さが五割増しだ。この時点で天下の本宮日和をも越えた、真の正体不明人間(へんたいと読む)へと成り下がった。
何故偽名なのか。そんなどうでも良いことは聞かないけれど。
「さて、ここからは流れで覚えてもらいましょう。客、入れるから」
「入れるからって、自分の意思で入ってくるものじゃないでしょう」
女性、もとい黒さんはチッチッと妙にイラッとくるお決まりの仕草で私の指摘を否定した。
「ここは私の店よ?だからそう、それは全て私の意思なの」
パチッ。
黒が指を鳴らしたとたんに、入り口の鈴が鳴り響き来客を知らせた。
「……化け物」
「化け物って、紫音ちゃん?何かもっとこう、相手に配慮した表現ってものがあると思わない?」
だって、化け物としか言い様がない。どこの世界に指をぱちんとやるだけで客を呼び込める店主がいるというのだ。
店主というのがそれをできなければならないならば、世の中の店主は全てただの穀潰しではないか。
「じゃ、早速オーダーとって来て。貴女は下手に笑顔よりその鉄仮面無表情のほうがウケそうだから、そのままで良いわ」
失礼なことを言われた気がする。だけど、笑顔は苦手だから助かる。あの人みたいに、綺麗に笑えれば苦労しないけど。
「はい、店長(化け物と読む)。行ってきます」
「頑張りなさい。あと化け物と変換するのはやめなさい」
わ、読心術?やっぱり化け物だ。黒さんと書いて化け物だ。
だけどなんだか、ここは楽しそう。日和ちゃんにお礼を言っておこう。
「コーヒー一杯です」
「それだけ?もっと注目させなさい」
「無茶を言わないでください」
「これは仕事よ?甘えてはいられないわね」
なんともまあ、厄介な人だけれども。ここでしっかりやれれば、みんな認めてくれるかな。
なら、頑張ろう。あの頃の自分とは違う形で、あの頃以上に輝いて見せる。
「ただいま他のメニューが安くなっております。追加注文はお決まりですか?」
「いや、追加注文は強制ですか?」
唯一のお客様だ。財布が薄そうな冴えないおじさんだけど、目一杯搾らせてもらおう。
「あれ?いま中華フルコースって言いましたよね?」
「え?……いや……え?フルコ……え?」
「店長、中華料理フルコースからご注文です」
「から!?無理やり注文させておいてあろうことか“から“って……」
ごめんなさい、おじさん。でも、私は頑張らなきゃならないから。どうかその礎になってください。
「なんだ、やればできるじゃない。ぼったくりバーみたいになってたけど」
「一品一品の値段自体は据え置きですから」
こだまするおじさんのすすり泣きの中、喫茶店『ノワール』の看板娘は第一歩を踏み出したのだった。
夜、もうすっかり静まり返った店内に、電話のコールが響き渡った。
庭で一服していた黒は、電話の相手が誰なのかある程度悟りつつ受話器を取った。
「こんばんは、日和ちゃんです!」
やはり予想通り。自分のテンションど互角に渡り合うことのできる相手。紫音という逸材を紹介してくれた女の子。
「あら、ご無沙汰してるわ。相変わらず、貴女は良い仕事をするわね」
「彼女、もう雇ったんですか?」
結局、彼女は今日だけで大半の仕事を覚えて帰って行った。ルックスだけじゃない。頭の回転においても、仕事に対する真摯さにおいても、彼女はこれ以上ない逸材だ。
「ええ、あんな逸材を寄越すなんて本当に有難いことよ。やっと念願の看板娘候補が手に入ったんだもの」
「気に入ってもらえたみたいですね。それならついでに、看板息子の方も正規雇用してしまえば良いじゃないですか」
「……彼は、ね。それよりも、何か用事があるんでしょう?」
「あっ、忘れるところでした。実は、調べて欲しいことがありまして……」
「わかったわ。では、また後日」
「はい。お願いしますね。ではまた、おやすみなさい」
日常の変化と、新たな出会い。少しだけ怪しげな会合はおいといて、まあこんなところだろうか。
織崎紫音が帰路につく頃には、辺りは既に真っ暗だった。それに寒い。マフラーで口まで覆い尽くして歩く。
部屋の暖房をつけてくれるよう、奈央さんに頼んでおいた。早く帰って、こたつにもぐろう。
空を見上げた。瞬く星を見ているようで、考えているのは誰かのこと。
私にとって、何よりの暖房器具。その笑顔を思い出しながら、彼女は家路を行くのであった。
こんな一日。
そんな日常。
こんな感じでだらだらと行こうと思います。