計略
「じゃあ、レイさんに報告したら、すぐ戻ってくるから。ここで待っててくれ」
片平家の門の前で、霧矢は慎重に気を遣いながら、霜華に告げた。霜華は無言でうなずくと、塀に背中を預けた。
ここまで、霜華と美香の間で、特に新たな問題が発生することもなかった。その点は、霧矢としても非常に喜ばしいことだった。
「お前が鳴らせ」
インターホンを前にして、霧矢は乱暴に言う。美香は、いかにも不本意であるという渋い表情でボタンを押した。
「…はい。どちら様でしょうか」
スピーカー越しに、渋い初老の男性の声が応対した。
「私よ、開けてちょうだい。川内」
「お、お嬢様! どこに行っていらしたのですか? レイがずっと探しておりましたし、霧矢様も探し回っておられたのですぞ!」
片平家の執事は焦った声で質問を浴びせたが、当の美香は面倒くさそうな顔をしていた。
「その話は後でするから、さっさと開けてちょうだい」
「かしこまりました」
ガチャリという音とともに、通用口のロックが外れた。
「じゃあ、用事が済んだら、お前を送るから、少し待っててくれ」
中に入って通用口の戸を閉めると、再びガチャリと言う音が鳴り、鍵がかかった。美香に続いてよく手入れのされた庭の小道を通っていくと、先に屋敷に戻っていたレイが玄関で待っていた。
「どこに行っていたのですか? 心配したのですよ」
レイの口調は落ち着いていたが、心なしかトゲがあった。
「霧矢と一緒に街をうろついていたわ」
「だったら、連絡くらい入れてください。霧矢さんも」
「入れたかったのはやまやまですが、美香がとんでもないことをしまして」
霧矢が、美香にレイの携帯番号を消去されたことを説明すると、レイはため息をついた。
「…まさか、そこまでするとは……」
「感心した?」
「呆れました」
無表情で即答したレイに、美香は笑ってごまかそうとした。しかし、口を開けて笑い声を発しようとした瞬間、美香の表情が凍り付いた。
「……今すぐ反省すれば、許して差し上げましょう。ですが、そうでなければ……」
レイの声からは完全に温もりの色が消えていて、威圧的な声色を帯びていた。霧矢もレイが怒るのは無理もないことだと思っていた。
美香は聞こえないほどの小さな声でぶつぶつと何かをつぶやいていたが、結局折れた。
「…ごめんなさい」
彼女らしからぬその卑屈な態度に、霧矢は思わず吹き出してしまいそうになったが、無理やり抑えつけた。しかし、霧矢が吹き出しそうになっていたのは美香も感づいていたようで、霧矢のことを鋭い視線でにらみ返してきた。
「まあ、寒いでしょうから、中に入りましょう。川内さんには私から説明しておきます。霧矢さんも、お部屋の掃除は済ませてありますので、こちらへ」
「いえ、僕はこれから、出かける必要があるので……」
「お出かけですか。どちらへ?」
「必要ないわ!」
行き先を尋ねたレイに、美香は感情的な声で割り込んだ。霧矢は頭を抱えると、視線を美香ではなくレイに向けて、苦し紛れの声で答えた。
「霜華を池袋のホテルまで送らないといけないんです。表で待たせてますし」
「そうですか……わかりました。いつごろお戻りになられますか?」
「だから、必要ないって言っているの!」
戻ってくる時間を尋ねたレイに、美香は憤慨して大声を上げた。
「うちの車を出すわ! それがだめなら、代金は私のポケットマネーから出すから、タクシーを呼んだっていい。霧矢がわざわざついていく必要はないから!」
レイはしばらくの間、美香の目を凝視していたが、やがて、何かに納得したような顔でうなずくと、視線を霧矢に移した。
「霧矢さんは、どうなさるおつもりですか? ご希望でしたら、片平家が責任をもって霜華さんを滞在先のホテルまでお送りしますが」
「いえ、僕が送っていきます。車も必要ありません」
そう答えると、美香の表情が一気に険しくなった。霧矢はあえてその表情を見ることもなく、レイに二時間ほどで戻ると告げると、踵を返した。
霧矢が歩き去ろうとすると、美香は、霧矢に少し待つようにと告げた。
「何だよ」
「車を出すわ。彼女はレイに送らせる。そして、あなたも一緒に乗って行きなさい」
「その必要はないって言ってるだろ」
必要ないと言い切る霧矢に、美香は首を横に振った。穏やかな声で言う。
「今日の昼に何が起こったのか、もう忘れてしまったわけじゃないでしょう。安全のためよ。万が一のことがあったら、私は博士に顔向けできないわ」
霧矢はいきなり態度を和らげた美香に驚きを隠せなかった。戸惑いながら、レイに意見を求めると、彼女も安全のために送りたいと申し出た。
「…わかりました。よろしくお願いします」
霧矢はレイに頭を下げると、美香は満足そうな笑みを浮かべた。
「じゃあ、レイ。彼女を車に乗せてあげてちょうだい。表で待っているから」
レイは承知しましたとうなずくと、霧矢を車庫に案内しようとした。しかし、美香はレイと共に車庫の方へ歩き去ろうとする二人を呼び止めた。
「ちょっと、レイ。私の携帯はどこにあるのかしら?」
「お部屋の机の上に置いておきました」
「そう。ありがとう」
美香は淡々と礼を言うと、今度は霧矢に話を振る。
「ところで霧矢。ちょっと、渡したいものがあるから、私の部屋まで来てくれないかしら」
「…渡したいもの? 戻ってきてからじゃだめなのか?」
面倒くさそうに答えた霧矢に、美香は首を横に振った。
「あなたのお友達へ私から差し入れよ。持って行ってちょうだい」
霧矢はそういうことならと納得する。レイは霜華を待たせてある場所で、霧矢を待つと告げると、早足で車庫の方へ向かって走り去った。
「じゃ、ついてきて」
美香についていく形で屋敷の中に入り、階段を上がって長い廊下を歩いていると、廊下の突き当たりに大きな扉があった。
「ここよ」
美香が重そうな扉を押すと、なかなか趣味の良い配色の家具で彩られた、彼女の書斎が視界に飛び込んできた。
「やっぱり、広いな。でも、僕の趣味じゃない」
「…そうかしら。それは残念ね」
「で、差し入れ用のギフトはどこにあるんだ?」
美香は机の引き出しを開けた。
「銀座の洋菓子店で買った贈答用ギフト。ちなみに値段は万単位よ」
美香は丁寧にラッピングされたその箱を、店のロゴマークが印刷された紙袋に入れた。
「木村はいざ知らず、晴代とか西村にはそんな高級品の味なんてわからないだろうな。セイスに至っては、完全に味よりも量だし」
「…同じ金額の普通のお菓子の方がよかったのかしら」
霧矢はそうかもしれないとうなずいた。しかし、同じ金額の普通の菓子となると、おそらく霧矢一人では運べない量になったに違いない。そう考えると、少し笑いがこぼれた。
美香はおもむろに机の上にあるハンドベルのような呼び鈴を鳴らした。
「何だ?」
霧矢が不審に思って足を止めると、美香は計画通りといったような笑みを浮かべた。
「お嬢様、お呼びでしょうか?」
黒のスーツを着た男の使用人が、美香の部屋の戸を開けて中に入ってきた。
「この荷物をレイのところに持って行ってちょうだい。それと……」
美香は男に近寄ると、何やら小声で耳打ちした。霧矢はまた何かよからぬことを企んでいると直感したが、あえてもう何も言わないことにした。
「申し訳ございません! 霧矢様!」
男はいきなり頭を下げると、紙袋を抱えたまま、猛ダッシュで部屋から飛び出した。そして、部屋に鍵がかかる音がした。
「おい……」
霧矢は呆れ顔で美香を見た。美香は腹を抱えながら笑っていた。
「そう。私が言ってもレイは信用しないけど、同僚の言葉なら信じるから。私は彼にレイにこう伝えるように言ったのよ。『都合が悪くなって行けなくなった。一人で行ってくれと霧矢が言っていた』とね」
「…悪知恵だけは一人前だな。で、しかも、ダメ押しの一手として、わざわざ外から鍵までかけさせたってわけか?」
「十分経ったら開けるように言っておいたわ。でも、その頃には車はもう出発しているでしょうけど」
霧矢の感情は、怒りを通り越して笑いの域に達していた。ここまでやるとは完全に予想外であり、そして、まんまと彼女の罠にはまった自分がこの上なく滑稽でもあったからだ。
「じゃあ、ここから出る方法は?」
笑いながら、霧矢は美香に問いかけた。美香も笑いながら答える。
「このドアは内側から開ける場合でも鍵が必要なの。十分以内にこの部屋から鍵を探し出すか、あるいは扉を壊すか。ちなみにこのドア、木製に見えるけど、内部に厚さ二十ミリの鋼板を仕込んであるらしいから。爆薬でもなければ壊すのは無理でしょうね」
霧矢は力砲に手を伸ばしかけたが、思いとどまった。
確かに、力砲を使えば鋼板を破壊することは可能だろう。何せ車のガソリンタンクを破壊するほどの威力があるのだから、十分のはずだった。しかし、仮にここで片平家の備品を破壊してしまったとする。少なくとも父親の顔を潰すことになるのではないか。
昨日の車の件は、セイスのやったことで自分とは関係ないと言い逃れることもできなくはない。しかし、力砲で破壊してしまうとなると、明らかに言い訳がきかない。悪くすれば、これをネタとして美香がとんでもない要求をしてくる可能性だってある。
「ちなみに、私は鍵探しには一切協力しないわよ。十分経った後は別として」
「そんなのわかってる」
「じゃあ、どうする? まさか、か弱い女の子に拷問をかけるなんてことはないわよね?」
「そんなことするわけないだろ。こんな程度のことで拷問をするほど、僕は器の小さい人間じゃないし、お前に暴力的な振る舞いをするほど分別のない人間でもない」
霧矢はきっぱりと言い放つと、部屋を見回した。
「仕方ないか……」
霧矢は窓から外を眺める。視界には綺麗にライトアップされた庭が広がっていた。いかに自分が俊足の持ち主だとはいえ、あまりぐずぐずしていたら、先程の使用人に追いつけなくなる。
「じゃあ、私と楽しいことでもする?」
美香は冗談めいた口調で寝室の方を指さした。しかし、霧矢は笑いを浮かべながらも、首を横に振った。きっぱりとした口調で告げる。
「そうもいかない。これ以上、霜華を怒らせたら、本当に僕の命に関わるからな」
霧矢は美香の部屋の窓を開けると、足を窓枠にかけた。
「ちょっと、ここは二階よ!」
「悪いな。恨み言なら後で聞く!」
霧矢はそのまま、二階から飛び降りた。そのまま、十メートル近くの高さから落下する。
「痛え!」
雨野との訓練で衝撃に強くなっていたので、骨折や脱臼といった大きな怪我を負うことはなかったものの、それでも、着地の衝撃はなかなかの痛みを伴った。痛みで顔を歪めながら、霧矢は綺麗に刈り込まれた片平家の芝生の上を走り出した。
「まったく、無茶するわね……」
夜の闇へ消え去る霧矢を、美香は呆れた視線で眺めていた。
しかし、ここであきらめる美香ではない。壁にある警報装置のボタンを、彼女はためらうことなく押した。
ジリリリリという警報ベルの音が、屋敷中にけたたましく鳴り響いた。そして、美香は壁にかかっている連絡用マイクのスイッチを入れた。
「全使用人に告ぐ! 直ちに霧矢を捕まえなさい! ターゲットは庭にいるわ! 繰り返す! 直ちに霧矢を捕まえなさい! ターゲットは庭よ!」
連絡を終えると、美香はポケットの中から鍵を取り出し、その鍵で部屋の扉を開けた。美香も霧矢を捕らえるべく、庭に向かって走り出した。




