第三話 幼馴染
去っていく少女をぼうっと眺めていた渋谷の頬に、ピチャリという湿った何かが当たる感触があった。
それは渋谷が助けた犬の舌だ。今ではすっかり元気を取り戻していた。
「あ、あのっ! うちの子を助けて頂いてありがとうございましたっ!!」
こちらの方に駆け寄って来ていた少女が向き直り、腰を折っていた。
渋谷は「いやいや」と手を振りながら、
「俺は何もしてないですよ。全部さっきの子が一人でやっただけですから」
「それでも、うちの子を守ってくれていたのはあなたです」
と、目の前の少女は詰め寄るように渋谷に顔を近付けた。
可愛らしい顔立ちをしていると思う。眼鏡を掛けている為か、どこかおっとりとした印象を受ける。
艶のある黒髪をシュシュで纏め、肩口から前に垂らしている。服装はラフな格好で、Tシャツにジーンズだ。
前にはエプロンを掛けているが、目を引くほどに大きな双丘が『肉屋相沢』と印字された部分を押し上げている。
――相沢?
ふと渋谷は、この初対面であるはずの少女にどこか見覚えがあるような気がした。しかし記憶のなかにはここまでの美少女はおらず、なかなか照合が上手くいかない。
だが、そんなことより今は、この犬を飼い主の元へ返してやるのが先決だ。腕の中の犬も身をよじり、早く早くと急かしている。
「こいつ……怪我してるみたいなんですぐに手当てしてやってください」
渋谷は犬を少女に渡しながら、言う。
少女は頷き、大事に抱えると、
「あの……お礼をさせてください。私に出来ることならなんでもします!」
瞳を潤ませて、言った。
――なん、でも?
渋谷はすぐさま考える。
まず、浮かんだのは、大きく実った二つの果実。甘く、口当たり滑らかな柔らかそうなそれを、是非味見させて欲しい――ということだったが、倫理上アウトなので諦めた。世間はそんなに甘くない。
しかし、お礼をしたいという申し出をわざわざ断るのも勿体無い。見たところ押しの強い面を持ち合わせているように見えるし、断るのも難しそうだ。
「じゃあ……何か、食い物あります……?」
渋谷は朝一番で出てきてからまだ昼食を食べていない。今は時刻的には十五時過ぎであり、空腹もピークだ。
その時タイミングよく、グーっと腹が鳴ったのもあって、少女は笑顔を見せると、
「うちのメンチカツは美味しいですよ!」
そう言って、渋谷を店へ案内するのだった。
●
「旨いっ!!」
口に飛び込んできた肉汁を堪能しながら渋谷は思わず口に出した。
使われているのは余った部分の肉、ということだったが、とんでもない。それ単体で肉本来の旨味が凝縮されたこのメンチカツに無駄な部分など有りはしない。
引き締まった肉体は確かに見る者を魅了する美しいモノには違いない。しかしながら、多少だらしない部分の残った肉体というのもまた、得体の知れないフェチシズムを駆り立てる人を魅了するモノなのだなと深く感心する。
そんなことを考えながら、渋谷は少女の胸を見つつ――いや、少女の向ける笑顔を見つつ、先程の疑問をぶつけてみる事にした。
「……そう言えばこの町って、ああいうのはよくある事なんですか?」
――つまり、先程渋谷が体験した怪物達の襲撃。
それを恐れている様子が全く見受けられないこの住民達の姿は渋谷にとって衝撃だった。
少女は渋谷の言わんとする事を察し、「う~ん」と眉を下げながら答えた。
「よくある……って程でも無かったんですけど、ここ最近は頻繁に起こってますね」
「というと?」
「一ヶ月前に二件、ここ数週間で四件。次第に、間隔が短くなってきてるんです」
「俺、この町に昔住んでた事があるんですけど、今までそういう事は無かった。……ああいうのが起こるようになったのっていつ頃くらいからなんですか?」
少女は「えっ?」と驚くような仕草を見せると、眼鏡に指を添え、渋谷を食い入る様に見詰めた。
「あの……俺の顔に何か付いてます?」
「あっ、いえ……。……えぇっと確か、初めて起こったのは確か半年くらい前からです」
渋谷はやけに最近なんだな、と思った。
この町に住む住民達の達観ぶりからすれば、その半年という期間はあまりに短い様な気がするのだ。あくまでもこの事態を異常だと認識する器官が麻痺している様な、そんな印象を受ける。
「恐い……とは思わないんですか? この店だって随分直した跡がある……命の保障だって無いかもしれないんですよ?」
「そうですね。最初は恐いって思うこともあったんですけど、不思議とそうじゃなくなっていって。……変ですよねこんな事、普通なら有り得ない事なのに」
この少女も、どうやら他の住民たちと同じ認識らしい。異常を異常だと認識していない。
まるで、そう認識することが最初から決まっている様な不自然さだと渋谷は思った。
「出ていきたい、とは思わないんですか?」
「それは無いです。私はこの町が好きですし。それに……人を待ってるんです。その人が帰って来るまで、ここを離れる訳にはいかないんです」
ショーケースに身体をもたれかけながら、少女は呟くように言った。どこか遠い眼差しで、その待っている人というのを思い描くように。
しかし少女はくるっと渋谷の方へ再び向きを変えると、後ろ手に指を絡め、問い掛けた。
「今度は私も質問していいですか? さっき、この町に昔住んでたって仰いましたけど、それっていつ頃の事なんですか?」
「小学四年生ぐらいまでだったから……五年前くらいですかね」
「え……? なら私と同い年、ですね……」
少女は目を丸くすると、慌てて顔を押さえながら「え……嘘、違うよね? でも、もしかしてそうなの……?」と、ぼそぼそと呟いた。
「どうかしました……?」
「へっ!? なっ、なんでもないですっ。あ、その、もう敬語でなくて結構ですよ同い年なんですから」
「そう? じゃあそうする」
渋谷はすぐに頷いた。あまり敬語は得意な方ではないのでこれは有り難い。
「あ、あの……ここにはどんな御用が……?」
少女が再び問う。人に敬語をやめろと言ったくせに自分はやめない所にこの少女の人柄が出ている様な気がした。
渋谷は笑って、
「確かめに来たんだよ」
「何を……?」
「自分が知らなかった事を」
どういう意味か分からなかったのだろう。少女は首を傾げた。実際渋谷も、具体的には何も考えちゃいない。
ただ、どうしてもこの目で、あの時とは違った目線で、未知だったものを既知にしたいと、そう思ったのだ。
そして今日、それを知るきっかけに触れたような気がするのだ。
この町には何かある。
渋谷はそう思ってここに来た。父と母の突然の死も、この町の何かが関わっている。そんな予感がするのだ。
「この町に来て良かった……」
自然と、渋谷は呟いていた。
それは誰に言うでもなくこぼれた心中の吐露だ。
小さな世界で見れなかったモノがここにはある。
怪物がいる、それと戦う少女がいる。それが当たり前だと言う人達がいる。
なら自分はどうするか。
そんな今の自分が置かれている状況が大きな変化の中にあると渋谷は思った。
――あ、そういえば。
あの戦っていた少女。そして《DRAFT》とは。まだ聞かなければならないことが残っていた。
流石に質問ばかりで悪いなとは思うがそれでも知っておかなければならない。
渋谷は再び少女に尋ねようとするが――
「琴音~お客さん? ってやだ! 男の子じゃない! もしかして彼氏?」
割って入ってきた中年女性に、タイミングを外された。
「もうっお母さん! 違うよっ!!」
琴音、と呼ばれた少女が口を尖らせて反論する。
――琴音……?
その名前の方が渋谷には気に掛かった。
琴音。そういう名前の少女が、昔いたような気がする。
思い出してみれば、ここは『肉屋相沢』……。
ガチリと、記憶のピースがはまる音がした。
「あっ、もしかして……琴音、か? 相沢琴音」
突然名前を呼ばれ、びくりと身体を震わせた少女は眼鏡をくいっとあげて、
「はい……私は相沢琴音、ですけど……」
「やっぱりそうか……あのさ、覚えてない? 俺、渡会渋谷っていうんだけど」
「え……?」
琴音が目を剥いた。半ば飛び上がるように、驚きを露にする。
「ええええええええっ!? し、ししし渋谷君っ!?」
見るからに慌てた様子の琴音。顔が一気に真っ赤に染め上がる。
渋谷は改めて琴音を見た。五年前は小さかった少女の印象しかない為どうにも信じられないが、確かに幼馴染みの琴音だ。
――しかし、でかくなったなぁ……
ある一部分を見ながら渋谷は感心する。やはり毎日肉を食べているせいだろう。上質な肉が身に付いている。
「お~誰かと思ったら渋谷君ね。久しぶり~。こっちまた戻ってきたんだ?」
琴音の母が渋谷に声を掛ける。間延びした声は今も昔も変わっていない。
「えぇ。またよろしくお願いしますおばさん」
「うんうん」と頷いて、琴音の母は腕を組む。
「思い出すわね~。渋谷君、毎日ウチに来ては琴音を引っ張って遊びに連れていってくれたわよね~。琴音ったら、ちょっと人見知りだったから渋谷君がいなくなってからは毎日泣いてばっかりで……」
「ちょ、ちょっと!! お母さんっ!? 渋谷君、嘘だからねっ!!」
と、先程まで「あわわ」と顔を真っ赤にしていた琴音が割って入る。
渋谷はそれを苦笑しつつ眺める。
――戻ってきたんだな。
ようやく渋谷は実感した。
一見、変化を遂げたように見えた鳴海町。自分の知らない姿は確かに有りはしたが、こうして幼馴染みとの再会を果たし、再びかつての日々を思い返す。
変わらない事はない。けれどこうして始まる日々に、渋谷は期待感を持って、空を眺めた。