第二十話 共に
渋谷が向き合うのは、これまでの化物たちとは一線を画す雰囲気を纏った獅子の化物であった。
獅子の化物――今や、その名が凶だと知った――と、遭遇するのはこれで二度目。いや、正確に言うなら、魔象の上で腕を組んでいたその姿を見ているから、三度目か。
もちろん、回数を重ねたからといって相手が倒せるなどといった事は毛頭無い。むしろ、こうして神気を身に宿し、英雄としての力を手にした今だからこそ、相手の強大さがよりわかるというものだ。
間違いなく、この凶は強い。
あの一つ目や、魔象と比べるべくもない圧倒的存在感と、魂の密度。意思のこもった瞳は己という存在を自覚しているがゆえの強さの現れだ。
足がすくむ。冷や汗が出て、気を抜けば今にも卒倒しそうになる。
だが、
――琴音を泣かしやがったな……!
突然、涙を浮かべた琴音はその場に踞ってしまった。今は、美朝が琴音を介抱してくれているが、当然恐かったに違いない。
もし、あと一歩来るのが遅ければと考えるだけでゾッとしない。そうなれば、自分で自分を許せなくなるだろうと渋谷は思う。
ゆえに渋谷の心中で怒りの感情が発露した。
守るべきもの。大切なものを傷つけられるかもしれなかった事への純粋な怒りが渋谷に力をみなぎらせる。
それを眼差しに乗せ――告げる。
「お前を斬るぜ、凶」
刃が煌めく。
既に抜刀された神器。何物であっても切り裂くその刀剣は、風という渋谷の神気を具現した力を世界に表出する。
「その威勢は良し――。だが」
渋谷の刀が上段から滝のように流れ落ちる。そこには一切の介錯も無し。もはや絶つべき悪としか渋谷の認識はない。
そして、疾風が刃となって疾る。
「――その眼は何を見ているつもりか?」
「――ッ!?」
刹那、有り得ない事が起こった。
渋谷と獅子の間合いは、渋谷の斬撃の射程内。外れるという予感さえもなく、一刀のもとに断ち切らんと振り抜かれたはずのそれは、空を斬った。
獅子の姿は斬撃の等線上にはなく、十メートル左にずれた場所にあった。
見誤ったか。いいや、そんなはずはない。
そんな認識のズレが、渋谷の脳内で警鐘を鳴らす。
「先手は譲った。次はこちらの手番だ」
それが、渋谷に一瞬の隙を生んだ。
声が耳に届く頃には、敵の姿が消える。意識が獅子の姿を捉えられない。
どこだ、どこにいる――
「遅い」
「ッ――!!」
後ろか――。
渋谷は全神経を総動員。背後を取られた不覚を帳消しにすべく、一瞬で神気を練り上げ居合いの振り抜きに込める。
が、遅い。
「ぐッ、がッ――!?」
振り抜きに合わせられる形で獅子の蹴りが鳩尾に食い込む。鎧の重さも相まって、その威力は馬鹿にならない。くの字に折れる渋谷の身体。
だがこれは、渋谷の動きを止める為の蹴りだ。連撃へと繋ぐ目的の一撃。
そして続く、二撃目。
「ごッ」
肘の振り下ろしだ。雷が落ちる様な衝撃が身体の内を貫く。
足から力が抜けた。繰り出されるその一撃、一撃が戦場の中で生まれた、相手を破壊するための戦法であった。
そしてとどめとなる三撃目が来る。これを食らえば、立っていることは不可能という威力を持った一打。失意の念すらその顔に浮かべた獅子に、
「――相手は一人じゃない!!」
横合いから神気の矢が放たれる。
その数は、三。絶妙な時間差は、一矢ごとに対処にあたらなければたちまち身体を貫くという必殺だ。
「ふん――」
しかし、鼻で一蹴。獅子の身体が陽炎の揺らぎに消える。
すり抜けた三本の矢は、行き場を失い雲散霧消。まただ、また攻撃が当たらない。
それでも獅子と距離を取ることに成功する。
「大丈夫、渡会君?」
「あぁ……!」
渋谷の肩に、美朝が手を添えた。
助かった。間一髪、美朝の助けが無ければというところだった。
舐めていた訳ではないが、やはり強い。生半可な攻めはこちらの首を絞めるだけか。
しかし、今の戦闘でわかったこともある。
獅子の攻撃は全て、己の身体を用いた白兵戦ということだ。
卓越された技の冴えは紛れもなく戦場で磨かれたモノ。凶という異形の化物が、なぜその様な技を持っているのか渋谷の知るところではないが、驚異である事に変わり無い。
渋谷は実質、戦闘においては素人もいいところ。あくまで渋谷が自信を持つ剣の扱いとは、スポーツの『剣道』におけるモノでしかない。
ここで必要とされる『剣術』は祖父が修めていたモノだ。しかしそれも昔の話で、その技を受け継いだのは渋谷ではなく、たったひとりの門下生なのだ。
――くそ、こんな事になるなら俺もやっとけば良かったぜ。
今更悔やんでもせんないことだが、可能であるならもう一度祖父に教えを乞うことも考えなくては。
その為には――獅子を倒すしかない。
「どうした――策は纏まったか?」
問うてくる獅子に浮かぶ、嘲弄の色。
「うるせぇよ。心配しなくても、退屈なんかさせてやらねぇ」
「そうか、くく、そうでなくては、な」
一歩、言い終えるのと同時、獅子の加速は彼我の距離を無かったことにする。
「チッ――まだ、話の途中だろうがああああ!!」
振り抜かれた拳。必殺の一撃のこもったそれを、今度は迎い打つ。
渋谷の刀がそれと相対した。
生身の拳でありながら、その拳は刃と交えて傷ひとつつかない。それは渋谷の神器もまた同じ。薄刃の真剣だが、この程度で刃こぼれするようなナマクラではない。
衝撃の余波が吹き荒れ、渋谷を中心にロータリーへヒビが入る。
隆起した足場をなんとか踏み込んで渋谷は拳を受けきった。
「ハァ、ハァ、この、せっかち野郎……!」
「退屈させぬと言ったのは貴様だ、英雄よ。魔象を葬った力、今こそ見せてみろッ!!」
威力は相殺。しかし、両者の様子は一目瞭然だ。渋谷が呼気を荒く吐くのに対し、獅子はもっと来いと焚き付ける。
正直、たまったものじゃないが、
「生憎、アンタに苛ついてんのは俺よりあっちなんでね」
その言葉に応える意気の持ち主はこちらにもいるのだ。
「ええ――見せてあげるわ。私の力があんなものじゃないってことっ!!」
「ッ!?」
声と共に放たれた神気の矢。それは獅子の気勢を削ぐのに充分な威力だ。
当然その場にはいられない。たまらず飛び退いた獅子は宙で一回転し――。
「ここッ――!!」
渋谷はその間隙に駆けた。
刺突の構えで突貫。身体中の神気を足に集中し、爆発的な加速で、獅子の喉元を照準する。
剣道にも存在する必殺の一撃が、乾坤一擲のもと、獅子へと迫り――
「チッ――!」
一瞬の見切りによって、紙一重、首を反らされた。
――ッ、かわされた!?
辛うじてかすらせたというその突きは虚空を穿ち、転じて渋谷の隙となる。
「甘いわぁぁぁああああッ!!」
身体を大きく捻って生まれたエネルギー。それをそのまま拳に乗せ、獅子は打ってきた。マズイ、これは避けられない。
身を乗り出した形の渋谷の制動が間に合わない。無防備となった渋谷に襲い来る一撃だが、今の渋谷は一人ではない。
「はぁッ!!」
気合一声。渋谷と獅子の間の空間を裂く様に閃光が爆ぜる。神気を雷へと変換した破魔矢を美朝が撃った。
しかし、当然のように通じない。再び陽炎の揺らぎを纏って獅子は消え、距離を取って着地する。
なんとか攻めを中断させる事に成功したが、あわや一撃という場面。再び美朝に救われた。
危うい攻めだ。しかし同時に戦えているという確信がある。実際渋谷の動きは素人に毛が生えたも同然であり、そこをカバーするのはスサノオが渋谷に与える神気にあった。
神気とは、読んで字のごとく、神の持つ気の事であり、神のもたらす権能の根源と言える。それを身体に取り込み、己の力とすることで神の力を手にするというのが、神と契約するということだ。
そして、神気が生む現象はそれぞれ契約する神によって異なっている。
さきの美朝が放った雷を帯びた矢は、まさしく美朝が契約するタケミカヅチの権能だ。神気を変化させ、雷を生んだのだ。
渋谷も同様に、スサノオの権能である風の力を扱うことができる。が、あまりにも渋谷の経験は浅く、契約して一日、二日で使いこなせるほど甘いものではない。
出来ることといえば、刀に神気を乗せ、斬撃を風の刃に変えて飛ばすぐらいだが、渋谷とスサノオが持つ最大の奥義『布津之太刀・天地常世』はまさにその極大版というべきものであるからして、最低限は扱えているということにもなろうか。
とはいえ、それだけでは獅子と戦う事は到底不可能。こうして戦えている現状、もうひとつの大きな要因は美朝の存在にあった。
数瞬の交叉のなかで見せた美朝のサポートは絶妙だ。渋谷が突っ込み過ぎてもそれをカバーするタイミングで美朝の援護が来る。そのおかげで渋谷は気にせずに、全力で打ち合う事が出来ていた。
経験の浅い渋谷に対し、美朝の状況把握能力は数多くの実戦で培われたもの。冷静に流れを把握しサポートに徹する事で、それが生かされているのだ。
ましてや美朝の得物は遠距離にて効果を発揮する弓矢。近接戦が繰り広げられているこの戦闘で、美朝の援護が重要な役割を持つのは必定だ。
本来、感情に流されなければ美朝にもこういう動きは出来るのだ。それをさせてはくれぬ状況と、重なった使命感によって膨れ上がった美朝の鬱屈した感情がそれを損なわせていたのだ。
むしろ肩の力が抜けた今、普段以上の力が発揮出来ていると美朝は感じた。
身体が思い描いた様に動き、正確なタイミングで矢を放てている。
――私は全然、わかってなかった。
そう自嘲すら出来る心の有り様。自らを見つめ直す余裕が出来た。
それも、共に戦ってくれている渋谷のおかげか。
戦うという問題はまるで解決してはいないし、彼が言ったことは子供じみたわがままや、身勝手さそのままだけど、
――不思議、心が軽いの。
それでいいと彼が言ってくれた。
誰かが隣に居てくれる事がこんなにも楽になるなんて思ってもみなかった。単純に自分の負担が減るとかいう打算などではなくて、力が湧いてくるとか、そういった活力に繋がるもので。
――おかしなの。まるで栄養ドリンクかしら。
そんなおかしな考えさえ、懐くほどの余裕が今はある。
だからこそ、自分がどれだけ恵まれていたのかと、ようやく気付くことが出来た。
――聞こえてる、タケミカヅチ?
語りかける。自分に化物と戦う力をくれた神様に。
『美朝』
短く声が心に返ってくる。久方ぶりに聞いたその声は相も変わらず、無愛想だ。
だけど誰より知っている。この神様が自分を見ていてくれたことを。
――私、ようやく気付いたの。あなたが私を見てくれてたこと。
一人だと、思っていた。けれどそれは違った。
――あなたは私に諭してくれたこともあった。それじゃダメだって言ってくれてたのに私は聞かなかったことにしていた。それでもあなたは私に力をくれた。
『それが私と君の契約だからだ』
端的にタケミカヅチは言う。けれどそれが不器用な照れ隠しだと、美朝にはわかる。
――そうだね。私はあの時、誰よりも復讐を望んでいた。死ぬ間際で、あなたの声が聞こえた時から私の生きる意味が変わった。
だけど、それを恨んでいるわけではない。
――私が望んで、あなたにも目的があって。それで生まれた契約だった。だから私はあなたを復讐の道具として利用するつもりでいた。
なんと罰当たりなんだろう。美朝は苦笑するが、
――けど、それは間違っていたんだって今はわかる。戦う意味は変わらないけど、それでも向き合いかたは変わったって思えるの。
『後悔はしていないのか、私と契約したことを』
タケミカヅチが見せる陰。でもそれにはもう最初から答えが出ているから。
――そんなはずない。私はあなたと契約できて良かったって思ってる。私に再び生きる力をくれて本当に感謝しているの。……もうちょっと、話し上手だったら言うことないけどね?
『……善処する』
――もうっ、そういうところが口下手だって言ってるの。冗談に決まってるでしょ。……だけど、あなたで良かったっていうのは本当よ。
美朝は言う。もう、自分がどうしたいのか迷わないと決めたから。
渋谷が隣にいれば迷わずに行けるとわかったから。
――だからお願いタケミカヅチ、もう一度力を貸して。
契約なんて味気ない言葉じゃなくて、共に戦う英雄として。
――私と、戦って!
神様は、都合の良い願いは叶えてくれない。
けれど確かにこの神様は、応えてくれた。
『応』
それだけで、充分だ。
「――さぁ、いくわよ!!」
声を張り上げ歌え、詠え、謳え。
私の神様は最高だと、この世界に轟く雷のように、遥か彼方へと届くように、その祝詞を詠いあげろ。
「日はく、伊邪那岐、剣を抜きて迦具土を斬りたまいて三段に為す。其の一段は是、雷神と為る」
その神は、血の中より生まれ落ちた。
雷は黄泉を照らす輝き、何者にも阻むことの出来ぬない轟き。
「復剣の鐔より垂る血、激越きて生まれるは甕速日神、我が祖なり」
真なる祝詞によって紡がれた真の名。
即ち、神の本来の権能がここに顕現する。
「我が名は――武甕槌」
表出する武神の威光。世界を震撼させる雷の響きがこの地へと降り注いだ。
「神威――《鳴神之雷切・八色》」




