第70話 書ける場所
九月の朝の光は、白い。夏のあいだ床の近くに溜まっていた熱は、もう、どこにもない。書庫の朝は、棚を確かめ、届いた紙を読み、書く紙を決める。その順は、最初の朝から、変わっていない。
返りの棚に、紙が一枚、戻っていた。
給付の起案の返りだ。受理の席の判が押され、受理の判番号が振られている。決まった順に、決まった机を回って、紙の速さで戻ってきた一枚だった。判番号は、まだ若い。あちらの綴りは、まだ薄い。これから厚くなっていく綴りだ。
クロイスは、判の朱が紙の面から少しだけ盛り上がっているのを確かめた。起案の控えに残した番号と、返りの番号は同じだ。宛の欄には王家の受理の席。受理の欄には、決まった日付が入っている。朝の棚に戻ったのは、紙一枚だったが、出したときにはなかった三つの欄が、埋まっていた。
クロイスは、机で目録の控えを開いた。いちばん短かった行の下。続きの紙、給付の記録、と書き足した、その下に、三行目を書いた。受理、判番号、日付。行は、三行になった。続きの紙が出るたびに、これからも増える行だ。増える先の欄は、守る側の席にある。
三行目を書き終えると、クロイスは目録の控えと返りを並べた。二枚の番号は同じ位置にある。判の朱は返りにだけあり、控えの欄には筆の墨だけが残る。片方を棚へ戻しても、もう片方は机の上に残る並びだった。
同じ行は、受理の席の綴りにも増えている。こちらの控えと、あちらの綴り。二つの机に、同じ一名が同じ行で数えられていた。
◇
朝の膳が、机の端に置かれた。
白湯の椀と、卵粥の椀。ヴィオラは、置く位置を、いつも変えない。読みかけの紙に、湯気のかからない位置だ。
クロイスは、匙を取り、卵粥を食べる。一口も入らない日が、長くあった。椀がそのまま下がる朝のほうが、多い頃もあった。今日は、半分まで食べて、椀を戻す。
「お下げします」
それだけ言って、ヴィオラは、半分軽くなった椀を、盆に載せた。盆の上で椀の傾きを直す指が、いつもより、少しゆっくりだった。段を上る足音が、遠ざかっていく。
机のこちら側の席では、ライサが、今日の写しを読んでいる。移ってきた日から、変わらない席だ。読む順も、変わらない。
「今日の回付は、三枚か?」
「三枚。締めの綴りが、一つ」
「締めの綴りは、こっちへ回せ。数の照合は、私がやる」
「頼む」
それだけのやり取りで、それぞれの紙に戻った。締めの綴りが、机のこちら側へ、一つ動く。書庫には、紙をめくる音が、二つある。二つの音は、拍が合っているわけでもなく、離れているわけでもなかった。
昼の前に、局長が段の途中まで降りてきて、机の上を一度、見渡した。
「変わりないか?」
「ありません」
局長は、うなずきもせずに、段を戻っていった。変わりのない机を、確かめに来ただけの足音だった。
それから、決まった順で、紙が一束、回ってきた。上のほうに、受理の席の綴りの写しが一枚、挟まっている。
装丁のない帳面の、最初の一筋だった。月に三度、定額。宛の名も、行の並びも、あの帳面のままだ。それが、続きの紙になって、受理の席の綴りに載っている。名は、公の紙に載った。載っても、もう、載った側から消される置き場所ではない。守る側の席が、受けている。
写しの端の受理の判は、朱が乾いて、落ち着いた色になっている。文言は短く、抑揚がない。あの女の紙は、いつも、そうだ。
書付も私信もない。業務の紙が、決まった順で回ってきただけだ。帳面はまだ厚く、行は幾筋も残っている。一筋ずつ、紙になっていく。
◇
午後、クロイスは、目録の写しを棚へ戻す前に、末尾の行へ目を落とした。
上の縁に、白いままの線、一本。
白いままだ。動かせない高さの名は、今日もこの机の高さからは入れられない。その線を追う紙を、今日は書かない。目録の末尾に、ほかの行と同じ墨で残っている。
かつて、銀髪の女は言った。あなたは、次の指示書を書きなさい。あなたが書ける場所で。
指示書を書ける場所は、あの日から、この机のまま、変わっていない。書く手が向こうの手でも、紙はこちらから出す。今日、その紙は、受理の席の綴りに載っていた。
窓の光が、机の面をゆっくり移っていく。棚には、戻ってきた紙と、これから出ていく紙が決まった場所に並ぶ。机のこちら側には写しを読む者がいて、段の上では、膳を下げた足音が扉の向こうに消えている。
クロイスは、机の上の紙を、揃えた。
新しい羊皮紙が、束の脇にある。まだ、何も書かれていない。宛の欄も、白い。この白さは、消された白でも、届かない白でもない。これから書く白さだ。
紙の端が、指の下で一度だけ鳴った。
クロイスは、次の一枚を、引き寄せた。




